昨日の午後、寝転びながらTVを観ていると『難波金融伝…』が始まった。新聞の番組欄でその放送があることは知っていたが、日曜日なのに外出する予定もなかったので、たまたまそういう時間帯にTVを観た。
どのチャンネルでも同じような気がして、今では番組欄を見ても昔のように忘れないようにと心待ちすることはほとんどない。そのため『難波金融伝…』も観ようと思ったのではなく、放送が始まった時、「ああ、今朝見た新聞の番組に載っていたな」と思い出した程度で、何の期待もなかった。ところが観始めたところ、出演者がみんな大阪弁を喋るのが面白く、ついつい最後まで観た。この長いシリーズものは、出演者の顔とともに存在だけは知っていたが、今まで観る機会はなかった。さきほどネットで調べると、もう53作も撮影されている。最初が1992年というから、13年も続いていて、1年に4、5本撮られている計算になる。映画館でそんなにたくさんやっていた記憶はないのでおかしいなと思ったが、半分ほどはVシネマと言って、レンタル・ビデオ店などに卸されるために作られているようだ。また、漫画でも確かこのシリーズはあったはずと思い、これも調べたところ、『ミナミの帝王』というタイトルで73冊の単行本が出ている。原作が天王寺大、劇画は郷力也で、ふたりともいかにもこの長いシリーズものの内容にぴったりの名前だ。天王寺と言えば、大阪の難波(ここでは「ナンバ」と読むが、ここで採り上げている映画では「ナニワ」と読む)よりもう少し南にあって、一応大阪の中心の梅田(キタ)と難波(ミナミ)より大きさの格が落ちるが、難波の近くにあるために、大阪のいわゆる濃い文化を代表する土地柄となっていて、これをペンネームにするほどの原作者であるので、おそらく天王寺出身なのであろう。筆者も難波や天王寺には近いところに生まれ育ったので、大阪の濃い空気はよくわかる。だが、大阪がいつもたこ焼きやお好み焼きといった下町の食べ物でしか日本では知られていないようであるのがしゃくにも触り、結局京都に住んでもう長いが、京都人の多くがろくに大阪のことを知らず、単に柄の悪い恐ろしい場所と言うのを耳にするたびに、この田舎者めがという気分になるのも事実だ。お上品な京都には、大阪は見下すべき存在で、同じ関西の隣同士であっても一緒には見られたくないという思いが根強くある。大阪には古い文化がなく、文化を大切にする人々も住んでいないというわけだ。大阪に古い、そして京都のように誇るべき文化がないと断定するのはちゃんちゃらおかしい戯言だが、ま、それはここではこれ以上書かないでおこう。
東京に大阪のよしもとのお笑い芸人が進出して人気を博すようになってからもう20年以上は経つだろうか。漫才ブームというのが昔あったが、それ以降、漫才を初めとする芸人を目指す若者が増え、今ではNHKでそうした若者の登龍門のTV番組があるほどだ。そうした流れを作ったのは大阪だが、大阪と言えばお笑いが専門という妙な先入観が日本中の人々に浸透してしまったようで、それがまたいささか情けない。大阪はお笑いだけでは決してないからだ。しかし、関西出身の芸人が全国ネットで頻繁に登場するようになってから、大阪弁が普通にTVから毎日聞こえるような時代になった。大阪を舞台にしたドラマや映画もよく撮影される。ただし、大阪弁はよほど難しいと見えて、関西生まれでない限りは大阪弁のイントネーションをうまくこなせず、セリフを聞いていて全く白けた気分にさせる役者が多い。もちろんこの反対もあるから、関西弁が抜け切らずにへたな東京弁で演技する者もいる。だが、全体的に見て関西人はかなり早く東京弁をマスターするように思える。それは大阪人の耳がよいというあまり根拠のない理由や、またTVで東京の言葉を毎日聞いているので、いざ自分が使う段になってもまたたく間に習得出来るという考えもある。後者の考えには、大阪人が東京人に対してどこかで卑屈になっているという見方も内在しているだろう。東京は全く大阪を相手にしていないのに、大阪はよく東京を敵対視していると言われるが、それはやはりある。今や人口でも第3位になっている大阪市は東京から見れば完全に遅れている地方でしかなく、一方大阪には東京がよそ者、つまり田舎者の集まりの都市で、そこを馬鹿にしているといったムードがある。それに、大阪はよく下品と思われているが、大阪弁まで下品に聞こえるとしたら、それはお笑い芸人たちが犯した罪で、本当は大阪の言葉は何百年にわたる商都であるだけに、他人を傷つけず、どこまでも他人に悪い印象を与えない日本一のよい響きの言葉であるのは間違いがない。とはいえ、大阪の言葉もちょっと地区を違えばさまざまに異なり、それは東京の比ではない。ま、こんな話もここで長々としても仕方がないが、昨日『難波金融伝…』を初めて観て、こんないい映画が大阪を舞台にして今も続いていることに驚いたのだ。
このシリーズ映画がどれほどの全国的な人気を獲得しているかは知らない。だが、いろんな意味で大阪を代表しているは間違いない。悪趣味と思われる面もふんだんにあるだろうが、そうした誤解をする者は最初からどんな物事でも色眼鏡で見るので、どう説明してもこの映画のよさは理解は出来ない。つまり、放っておくしかない。この映画で気になったことのひとつに、東京ではどう評価されているかということがある。大阪弁ばかりの映画など、関東に人にとってはあまりに異文化の存在に映るのか、それとも漫才が全国的に広まっている現在、こうした映画も同じように違和感なく観られるのかどうかといったことだ。別に関東人にこの映画の評判が悪くてもちっともかまわないのだが、もし気に入らないとすればどういう点がそうなのかということには興味が少なからずある。それは東京人の本性を知る手立てにもなる気がするからだ。ま、そんなものを知っても仕方のない話で本当はどうでもいいのだが、何かの話の時のネタにはなるだろう。さて、この映画の主人公の竹内力だが、TVのヴァラエティ番組などに出演しているのを見かけたことがない。この映画のみに集中しているのであろうが、それはなかなかいいことだ。カリスマ性維持のためにはあまりTVにちゃらちゃらと出演するのは控えるべきで、TV番組の多く出るほどに人間が軽く見える。このシリーズ映画で竹内力はスポーツ・カーに乗って派手なスーツにサングラスというヤクザかチンピラのファッションで登場し、それがいかにも難波あたりにはたくさんいそうな人物に見えるところがいい。もちろん東京でも同じような格好の男はたくさんいるはずだが、やはり大阪の街には似合う。それだからこそ、品のいい京都人は大阪は恐い街と思えるのだろうが、本当に恐いのはそうした派手な格好をした男ではなく、今やごく普通の格好した者の中にいる。
高利貸しが冷酷な人物で、哀れな人々を苦しめ、時には死に追いやるといったイメージがニュースなどで増幅され、それがまた大阪のイメージのつなげて思われているようだが、その拭い去れ得ない高利貸し悪人説の源は一体どこに由来するのかと考えれば、お金というものが生まれた瞬間からあったに違いない。だが、イギリスの『三文オペラ』にもあるように、本当の悪人はちょっとした強盗などではなく、銀行を経営する人物であるとする見方は正しい。日本でも大手の都市銀行が陰で大手の消費者金融会社に莫大な資金援助をしていて、表向きは巧妙に自分たちの手を汚さないようにしているだけの話であり、担保を持たない零細企業の資金繰りに援助をしないから、結局そうした人々は町中の高利貸しから借りるほかないという実態がある。金を貸して金利を取るというのは法律で認められた行為であり、その点に関しては大手の都市銀行でも一金融業者でも同じだが、人々は前者には尊敬の眼差しを向け、後者には侮蔑のみというのがほとんどの人の共通の思いとなっている。しかし、借りたものを返すのは人間としてあたりまえの話であり、それをせずに逃げ回り、取り立てする者を悪人呼ばわりするのはどうかと思う。借りた者が返さなくてもそれは正義で、貸した者は踏み倒されても悪だから仕方がないと言わんばかりの雰囲気はどう考えてもおかしいではないか。借りる方が貸す方よりうんとたちが悪いことはいくらでもあるはずで、さんざん好き勝手な生活をして借りまくった後にさっさと自己破産して素知らぬ顔というのは、あまりにも無責任、地獄へ落ちろと言ってやりたい気分になる。先日図書館である本を借りようとしたが、本の中央のグラビア図版のページだけごっそりと取り外され、それがわからないように巧妙にそこを糊づけしてあった。それは哲学書であるので、まさかそんな渋い本を借りる人の中にそんなえげつない行為をする者があるとは疑いたくはないが、今となっては古書でしか入手出来ない本であるので、そのようにしてまでも図版のページがほしかったのであろう。だが、ただで借りたものぐらい、きちんと返せよ。この馬鹿者めが!
さて、この映画はかつて料理人であった中年男がオカマ・バーを経営していて、そこへよく飲みに来る人間を交えての物語になっている。客は銀行マンであり、町中の小さな印刷工場を経営する者であったりして、全員が大阪弁を話すこともあって、かなり生々しい。竹内力やその仲間は別として、オカマが主人公になるという話からして、もう拒否感を示す人があるだろうが、そういう人こそこの映画を観るべきだ。主人公のそのオカマにはひとり息子がいるが、案の定父親ちは馴染まず、ひとりで暮らして印刷工場に勤務している。そして結婚紹介所で出会った若い女性に300万を騙し取られる。それを借りるのに息子は竹内力演ずる萬田銀次郎のもとに行くが、結局騙されたことを知った後、父親が返済をしようとする。ところがオカマ・バーによく客として来ていた印刷工場の社長から、銀行から融資される1500万円の連帯保証人になってほしいと言われ、ついつい人柄を見込んでハンコを押してしまう。だが、それは会社が倒産することがわかっていて銀行の融資担当者がお金を貸し、工場社長と相談のうえ、半分の750万を自分の懐に入れ、連帯保証人を陥れる罠であったのだ。印刷工場の社長は夜逃げし、困ったオカバー・バーの店長はついに融資担当者を懲らしめるために銀行に押し入るが、警察に捕まってしまう。父に反発していた息子はやがて父親がいかに自分のことを愛していたかを知り、銀次郎の計画どおり動いて、ついに融資担当者から店の権利を奪い返すことに成功する。ざっとこういう内容だが、随所にいいセリフがあり、またこうした金融の内幕に精通した脚本に舌を巻く。そういったこととは別に町中のオカマやヤクザ、あるいはごく普通の人々も含め、みんなそれなり情があるように描かれているところがよい。銀次郎は人助けするために動くのではなく、自分の貸した金はきっちりと利子を上乗せして回収するという方針で、そこは冷酷だが商売人としては当然のことだ。それをやめてまでのお人よしとして銀次郎を描けば、それこそ現実感覚から遊離し過ぎて面白くならない。ここはヤクザのような風貌で、しかもしっかり自分の利益は考えるという設定だからこそよい。だが、そのためにルールを選ばないというのではない。
どのような仕事あるいは人間でも最低限のルールというものは守らなければならない。(図書館の本を破るなよ!)この映画が面白いのはそこだ。ルールのないところに遊びはないし、遊びがない限りは面白くも何ともないからだ。この映画でのルールというのは、人間としての情、倫理感という言葉に取りあえずは言い得る。金を貸してほしいと頼んで来る者があれば、商売としてまず貸すという気持ちと、助けるという気持ちもあるだろう。貸したものが返って来ない危険に絶えず脅かされるのが高利貸しであるから、商売の気持ちから貸すとしても、そういつも安心ばかりがあるわけではない。この映画ではそうした気持ちの揺れはほとんど描かれず、むしろ後者の「人助け」に力点が置かれている。借りに来る者たちは同じ難波界隈の同じ言葉を喋る人物であり、一種の共同体感覚がある。ところがそうした共同体の感覚から逸脱した人物が登場しなければ映画は成立しない。それが前述の銀行の融資担当者だ。この人物もオカマ・バーに出入りし、そして大阪弁を話すが、そうした人物もまた難波にはいるという描き方がよい。清も濁も合わせ持った大きな存在としての難波という街の描写だ。これは実際そのとおりであるし、映画を観ていて単なる作りものを越えて、このような話、あるいはもっとひどいことが毎日繰り返されているだろうなと思わせ、その考えから改めてこの映画の話に戻ると何だかとてもほっとさせられるものがある。そこがこのシリーズの長年の人気の秘訣だろう。1本しか観ていないので、そうしたハッピー・エンドにまとめた話ばかりかどうかはわからないが、おそらくどれも似た内容であると思う。清潔な顔をした銀行員が実は最も悪どい存在であるという描き方は、反権力志向の大阪にふさわしく、筆者の好みにはとても合う。そしてヤクザの中にもルールを守る者はきっといるはずで、結局は人間はどのような世界でもいやな奴といい奴がいるのだ。一見下品に見える者の世界にも、上品な社会よりもっと人間らしい情があることを知ろうとしない人には、この映画の面白さはわからない。