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●Now You See It-Now You Don't
ろうのは梅の花のような自然だけではなく、人為的なことも同じだ。つい先日まであったものが、次に見た時にはもうなくなっていたり、別のものが建っている。



四条河原町界隈を歩くたびにその思いに囚われる。散歩がてらに行く、スーパーがいくつかまとまっている町でもそうだ。一昨日、つい先日閉店したスーパーが早速取り壊されていた。一面の瓦礫が広がる敷地は、東北の巨大地震の超ミニ版といったところだが、写真を撮りながら、そのスーパーが建っていた敷地の片隅に以前あった喫茶店に入った時のことを思い出した。もう30年ほど前のことだ。もっと古い人はさらにそれ以前の同地の状態を覚えている。そうしてどんどん遡ると、田畑や荒れ地といった光景が現出するはずで、何でも移ろって行くことを思えば、不景気によってスーパーが潰れて更地になることは不思議でも何でもない。そして、自分もそのように人からは移ろって行く存在であると思われているはずで、やがては「あそこの御主人、つい先頃まで元気で歩いていはったのに、もう亡くなりはりましてんなあ」といった会話の対象になるだろう。また門坂さんとの話になるが、門坂さんは京都の画廊で個展の初日を迎える直前、伊勢神宮へ詣でたそうだ。初めてのことで、その簡素な美に感心したらしい。20年に一度すっかり造り直す社が、素朴な造りであるのは当然と言えるが、その思想は、地震などの災害が多いことが影響しているように思える。消極的に見れば、どうせ壊れるから簡素に作っておけばよいという思いだが、その消極性を、何度壊れても同じものを造り直すという強靭な思いに転換して来たとも言え、必ずしも弱い意味での消極性だけではない。世界の各地から、今回の地震で改めて日本が礼儀正しく、我慢強いと思われているようだが、そこには、伊勢神宮が出来るよりはるか昔から、自然災害にうまく付き合いながら過ごして来た独特の資質があるのではないか。簡素なものは臨時的であり、またいかにも慎ましく、貧しくもあるが、その貧しさを美徳として捉える思いは、キリスト教にもあるし、人類普遍のものではないだろうか。すべての存在が臨時的、つまり仮の姿で、その仮の姿こそを永遠のものとする思いは、伊勢神宮だけではなく、現在の日本の一般住宅にも現われている気がする。そうした建物が土台のみを残して津波によって奪われ、その現実を目の当たりにした人が、また同じ地に住みつき、何世代か経た頃にまた地震と津波の被害を受けるだろう。その様子は伊勢神宮の20年ごとの遷宮を思い出させる。
●Now You See It-Now You Don\'t _d0053294_18413165.jpg

 通っていたスーパーがなくなって筆者が思い出すことは、よく見かけたレジ係の人々だ。そうした人は職場がなくなってその後どこでどうしているのだろう。経営者はたいていは金持ちで、スーパーを閉店しても、まさか最低限の生活には困らない。今回の地震では、どこかの町長が対策を協議している間に津波にさらわれて行方不明になったが、TVで映る被害者はだいたい普通の人々だ。いつの時代でもごく普通の人たちが被害を真っ先に受ける。いわきの原発の被害者にしても、被爆したのは最前線で働くそうした人々であるはずで、所長などはまず先頭に立って活動しない。指揮する者が被害を受けては困るという考えにもよるが、命の重さに軽重がある現実を見せつけられるようで、またその命の軽重が簡単に言えば学歴の差ということに還元出来る現実を思わざるを得ない。これも大局的に見れば、頭のいい者をなるべく残して行こうとする人類の本能に沿ったことと割り切るべきなのかもしれないが、頭がよいことの価値と、人間としての優しさや思いやり、犠牲の心のどっちが大切というのだろう。先日書いたことだが、ある地震学者の講演が去年あって、その教授の話が数十分延長になったことを、その講演会の帰りの車の中で同席したみんなが揶揄しているのを聞いて、あまりいい思いがしなかった。一方、昨日は地震学者は不要と書いたので、筆者の考えは矛盾するようだが、前者の思いは、地震学者がいつの日にか、先日の巨大地震規模のものであれば、数日前に予知出来るはずといった思いで日夜研究に勤しんでいると思えばこそで、後者の思いは、地震の被害者に思いを寄せながらTVに出て発言しているとはあまり思えないことによる。結局後々の人々のためと思いながら、研究内容は生じたことの分析のみであって、それが本当に将来の何かに役立つのだろうか。地震学者で有名な人がいるのかどうか知らないが、あまりそれらしき人をTVで見かけないのは、地震が学問として最低の部類に属するからだろう。研究したところで、現実の被害に何ら役に立たないでは、自己の生き方に恥じるべきではないか。その点、売れない芸術家は、自己満足に終始していると侮蔑されても、どこかの公的機関から援助を受けていない限り、どう貧困に苦しんで生きようが勝手だ。そして、そういう何の保証もない状態で自己を貫く人こそが最も尊い存在ではないかと筆者は思っている。そういう人もまた、今いたのにもういなくなったと思われる対象でしかない。人間は脆いが、脆いなりに永遠につながっても行く。
by uuuzen | 2011-03-14 18:42 | ●新・嵐山だより
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