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●『発掘された日本列島2010×なにわの考古学30年の軌跡』
る作業を裏庭向こうの小川沿いの小道でしていることもあって、ついでがあればこの展覧会を見てみようという気になった。



●『発掘された日本列島2010×なにわの考古学30年の軌跡』_d0053294_13244035.jpg考古学には関心がないが、この展覧会は近世や近代の発掘品も展示し、地面を掘ればどんな珍しいものが出て来て何がわかるかという面白さを充分に伝えていた。毎年開催されるもので、今回は全国6か所を巡回し、大阪歴史博物館はその最後、しかも「なにわの考古学30年の軌跡」が併催された。この館の展示フロアは左右に同じ面積で二等分されていて、前半と後半という区切りで展示を見ることになるが、後半の部屋が「なにわの考古学30年の軌跡」に充てられたのではなく、双方の展示物は混ざっていた。チラシを見ると、「発掘された日本列島2010」は「展示遺跡」、「なにわの考古学30年の軌跡」は「展示資料」となっていて、前者がパネル、後者が発掘された実物品のように思えるが、そうではなく、前者にも発掘品が展示されたし、後者にもパネルでの説明はあった。また双方とも旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、古代、中世、近世、そして前者のみ近代と、特集テーマとしてキトラ古墳と高松塚古墳が取り上げられた。時代を遡るほどに発掘品は貴重と言えるが、旧石器時代は硬い石で作った矢じりが中心で、造形的には見慣れたもので面白味はない。その点では縄文時代が段トツで、そのひとつの目玉として、今回は奈良で出土した、ぬいぐるみのキャラクター人形のような土偶がチケットやチラシに印刷されて見物のひとつになった。全国6か所を巡回するだけあって、展示の遺跡は青森、福島、群馬、東京、埼玉、奈良、京都、島根、徳島、福岡、佐賀、沖縄と全国的に散らばり、日本中で発掘が行なわれていることがわかる。これは田畑や何もない場所を掘ることのほかに、建物が新たに建つ、その基礎工事の前に調べるという場合も含むだろう。後者は特に都会がそうだ。ビルが建ってしまえば、半世紀ほどはその下を掘ることは出来ない。発掘によって新たなことがわかるとはいえ、物理的、あるいは法律上掘れない場合があって、学者は自分が生きている間に重要な発掘に巡り合えない可能性が大きい。だが、昔より発掘が盛んになって、そういうめったにない機会に恵まれるとも言える。その点は足の下に眠るものとは違って、近世に描かれた絵画でも同じだ。ある名家の蔵に人知れず保存されている絵画が世に広く紹介されるのは、その家の代が変わり、また蔵の中のものが処分されることが前提だ。つまり、物を前提にした研究は、その物が出て来なければ話にならず、物がなくても思考出来る、たとえば哲学とは違って不自由なところがある。今回の展示にもあったが、邪馬台国が九州か近畿のどちらにあったかという論争も、発掘品が大きな鍵を握っており、今後決定的な発掘があると、一挙に解決するとも言える。そうなると、今まで多くの学者があれこれ言って来たことの多くが、的外れであったこともわかって、これはまるで学者が手品師が握った両手のどちらに玉を隠し持っているかを言い当てるゲームに参加しているようなものだ。そのため、考古学は発掘が何よりも優先で、どんどん掘るに越したことはないと思わせられる。ところが、発掘品は膨大であり、その整理保存、そして年間に割り当てられる調査費の枠もあって、そう一気に全部を掘り起こすことは出来ず、掘って確かめては次はこっちといったように、半ば暗中模索的に少しずつ進むしかない。また、いったいどれだけ掘れば発掘が終わるのかという問題でもなく、地層は何重にもなっており、掘る場所は無限にある。発掘は永遠を費やしても終わらないだろう。
●『発掘された日本列島2010×なにわの考古学30年の軌跡』_d0053294_13291594.jpg

 発掘は地味な作業だが、出土品は美術の領域に接しているものが多く、たまにはこうした展覧会を見るのはよい。銅鐸や埴輪はもう見慣れて新鮮味がないと思いがちだが、それが出て来た場所を知ると、また親近感が湧く。たとえば今回の「なにわの考古学」の展示として、平野区から出た銅鐸と埴輪があった。平野区に長原遺跡があることは記憶の端にあるが、そこから出た堂々たる武人の埴輪を見ると、平野が改めて歴史の古い地域であることがわかる。現在大阪と聞けばお笑い芸人と粉もの文化だけと思われているが、こういう発掘品からは、大阪が古代から文化のひとつの中心地であったことがわかり、こういうことをもっと大阪が発信すべきではないかという気にもなる。また同じ長原遺跡からは、ナウマンゾウの臼歯の化石が出て、今回の展示品も最も古いものとして展示されたが、このことからもわかるように、長原遺跡は数万年前からの歴史が積み重なったもので、発掘で出て来たものはそのごくわずかなものと見てよい。この遺跡は大和川北の平野区全体に広がっていて、地下鉄工事の際に調査が始まり、またそれに伴う道路や建物の建設でも見出された。筆者の従兄がこの地域に道路を新設する工事に20年ほど前に携わり、地面を掘ったところ、何百本という大量の長い線路が出て来たそうだが、その処分に困り、そのまま埋めてその上に道路を造ったという話を聞いた。当時鉄の価格がさほどでもなかったのか、今ならスクラップ業者を呼んで売れば数百万円単位の金額になったはずだが、工期の関係もあって、そういうことが出来なかったようだ。金になる古鉄が埋まっていても、それを埋め戻すのであるから、遺跡のようなものが出て来ると、工事業者は慌ててそれを隠す場合は多いだろう。一円の得にもならないことをするより、決められたとおりに工事を進め、完成させるというのが経済の論理だ。それを考えると、長原遺跡の発掘品は幸運が手伝ったし、またそれと同等の格のものがまだほかにもあったり、またすでに密かにここ数十年の土木工事で破壊されたことを思う。それは発掘より現在の便利な生活が優先という、人間の悲しい性を見させるが、工事のついでにしろ、たまたま見出された幸運はその品物をより貴重なものと思わせ、人はそこにロマンを見る。また、平野でなければ、地下鉄を通しても同じような遺跡が出るとは限らず、長原遺跡はその点で大阪でも珍しい重要な遺跡であることが地下鉄工事の際に確認され、その点は経済優先の土木工事と考古学との間である程度のバランスが取れているのだろう。わが町内の駅前のホテル建設は、地下を掘ると平安時代の遺跡が出て来た。1、2年そのままになっていたが、調べた結果、あまりたいしたものではないということでホテル建設が始まった。京都はどこを掘っても遺跡だらけではあるが、重要さの点ではばらつきがあるのだろう。
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 大阪歴史博物館は、三脚やストロボを使わなければ、写真撮影が許可されている。デジカメを持参していたので何枚か撮った。面白いと思ったものは埴輪だ。兵庫の池田から出た水鳥型の埴輪は、大きな親鳥の上やかたわらに小さな雛が数羽まとわりつき、埴輪では珍しい造形だろう。等身大の武人埴輪と違って、この埴輪の雛ならば、手元に置くのにちょうどいい大きさだ。埴輪も骨董市場に出るが、どういうルートで誰が売却するのだろう。発掘は自治体が行ない、発掘されたものは売買の対象にならないように思えるのに、現実はそうではなく、どんなもので売り買いされる。となると、雛型の埴輪も売られているかもしれない。また、そうであっても、同じようなものは簡単に現在でも作り得るので、素人には判別がつかない。そこで思うのは、古墳時代のものでなくてよいので、同じような手元で愛玩出来る、古くて小さな土製品だ。その代表は伏見人形などの土人形だ。今回デジカメで撮った写真で最も多かったのは、この土人形だ。ルーシー・リー展を見た当日にこの展覧会を見たが、なにわ橋から堺筋を南下して歩いていると、途中瓦町に差しかかった。この地名は、江戸時代にこの付近に瓦屋が並んでいたことを示す。この一画を掘ったところ、300個ほどの小さな土人形とその型が出て来た。瓦は今でいう彫刻家が活躍出来る場で、土を扱う瓦師は土人形も造った。京都清水の瓦師は深草で伏見人形を焼いたが、大阪の瓦町もそれと同じで、かつて人形を焼いていたことが今回の発掘で明らかになった。それはある程度予想されたであろうが、実際にまとまった数が出て来ると、今まで文献に記されていない事実が明らかになって、土人形の文化史に書き足す必要が出て来る。また、出土した人形の形をつぶさに調べることで、伏見人形との関係もわかるだろう。展示されたものを見ると、伏見人形と同じものが目立つ。著作権のなかった当時、伏見人形と同じものを瓦町が作っていたとしても不思議ではないが、伏見人形屋の支店があったことも考えられる。また、大阪は独自の土人形が住吉や堺にあって、瓦町もそうした一翼を担っていたのかもしれない。筆者がこの土人形の発掘に目を留めたのは、1月2日と3日に「干支の人形」「しろあと歴史館」とそれぞれ題して書き、また伏見人形研究家の奥村寛純氏がどう評価したかと思うからだ。この瓦町出土の土人形は、今後つぶさに研究されてしかるべきもので、さらに多くの何かが同じ地域から出て来ることを期待したい。
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 掘って出て来る興味深いものは、比較的新しいものもある。またその場合は数百年埋まっていると、劣化して形がわからなくなってしまうものを多く含む。今回近代の発掘として、徳島の板東俘虜収容所遺跡があった。これは第一次世界大戦期に1000人ほどのドイツ人を捕虜として収容した施設で、100年ほど経っている。ベートーヴェンの第9交響曲をそれらドイツ人が日本で初演したことでも有名な場所だ。そこを今さらどう掘ったのか、楽譜など紙製品が展示されていて、土の中から出て来たものとは思えなかった。だが、それらは発掘品ではなく、以前から伝えられていた参考資料であったのかもしれない。次に、江戸の大名屋敷跡からの出土品があった。茶碗のかけらなど、それなりにいかにも発掘品らしいが、わが家の裏庭から出て来る茶碗のかけらとあまり変わらず、単なるゴミに見えもした。実際当時の大名屋敷ではそれらをゴミとして処分したのは確実で、大名が使っていたものであるからまだしも、そうでないならば、最初から掘りもされず、また掘っても珍しいものは出ないだろう。同じものの完全品がいくらでも骨董市場にあるからだ。そこで思うのは、現在のゴミの埋め立てだ。それらは海に運ばれ、新たな陸地となっているが、1000年先に発掘の対象となって、たとえばパソコン部品などをありがたがって発掘しているかもしれない。発掘は、それを通じて古い時代の人間の営みを知ることが目的だ。そう思えば、発掘は古き時代に思いを馳せる心の余裕があっての行為で、それは現在の生活にゆとりがあってこそ活発化する。そのため、日本の発掘の歴史はまだ浅いのではあるまいか。毎年発掘されたものを展示するこの展覧会は、ここ10年ほどの間に始まったと思うが、先に書いたように、それだけ大型の土木建設工事が増え、また発掘を許容するほど国が豊かになったためだ。発掘は過去の成果のうえにさらに行なわれ、今までの考えを根底から覆すものが出て来ないとも限らない。だが、それはだいたいにおいて銅鐸や埴輪であれば、その模様や形に今までにないものが発見されることであり、今までにない全く未見の用途の新品種と言えるものは出現しないのではないか。その意味で、この展覧会は近代部門以外は、毎年あまり変わり映えしない内容に終始すると言える。ところで、筆者は裏庭の向こうを掘り続けて、保管しておきたいものを先日見つけた。それについてはいずれ別のカテゴリーで報告したい。それをゴミとして見る人もあろうが、それを言えば土偶や埴輪に関心のない人は、その破片を瓦礫と思って処分するであろう。
●『発掘された日本列島2010×なにわの考古学30年の軌跡』_d0053294_13305427.jpg

by uuuzen | 2011-03-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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