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●「ISOBEL」
ビョークのCDを初めて買ったのは4、5年前のことだ。それ以前に、アジアの未知の国の巫女のような格好をしたジャケット写真のCD『ホモジェニック』をレコード店やあちこちで見ていたから、変わった歌手がまた出て来たのだなと、その存在だけはよく知っていた。



●「ISOBEL」_d0053294_032379.jpgだが、歌は聴いたことがなく、CDを買うつもりもなかった。ところが、ある本に『ポスト』というアルバムのジャケットが大きく載っていた。それは『ホモジェニック』しか知らなかったのでとても意外な気にさせられたが、同時にとてもよくデザインされたジャケットで、ビョークの衣服と相まったその全体の色合がことのほか印象深いものに思えた。そこからは、そうとうな力量のディレクターやデザイナーたちが参加してビョークを売り出そうとしていることがわかったが、『ポスト』が『ホモジェニック』より4年前の1995年発売のアルバムで、しかもまだ2作目というからさらに驚いた。それで早速中古CD店で買った。次に、これはいつだったかもう忘れたが、日本のTVのニュース番組か歌番組かでビョークが出演した。TVスタジオの中で立ったまま軽いインタヴューを受け、すぐにマイクの前に立って歌い始めた。それが粗削りでありつつも全身で歌っているため、小さなTV画面からでも凄まじい迫力が伝わった。それは確か『ポスト』を買う直前で、ビョークの歌を最初に聴いた経験だと思う。『ポスト』は期待に違わず、最初の1曲目からこの若い女性がとんでもない才能の塊を持っていることを実感させた。ハスキーな声だが、力があってよい。時々ほんのわずかなミスがあったり、目立ち過ぎるしわがれ声がそのまま録音されているが、そうした些細なことを何ら欠点と思わせないほどのパワーがある。独特のアクや個性の強さは、かつてのジャニス・ジョプリンをふと連想させた。だが、ビョークはブルースを歌わない。にもかかわらず別のもっと暗い情念を秘めているかのようで、マグマが爆発したように歌う。『ポスト』を買って後、『デビュー』やまた別のアルバムも手に入れ、どの曲にもビョークらしい香りがあることがわかった。彼女には特に好む音程があるようで、それが出て来るとすぐにビョークだとわかる。どの曲も好きというほどのファンではないが、『ポスト』では「イゾベル」という曲が特に気に入って、毎年夏になると聴く。
 筆者のような50代前半の年令になると、20代の若者が聴く音楽にはどうしても疎くなる。たまたまいいと思っても昔のようにアルバムを全部買い、どの曲も歌詞を覚えて一緒に歌えるほどになるというまでの熱烈さは持てない。そのため一度聴けば充分と思うことが多い。ビョークにしてもある程度は同じで、「イゾベル」がいいとなると、『ポスト』でもその曲だけをリピートで1時間以上も聴いていることがほとんどだ。この曲にある幻想性は他のビョークの曲にはなく、この1曲だけでも彼女の才能が特異でしかも抜きん出たものであることがわかる。この曲が入っているヴィデオ・クリップ集も入手したところ、モノクロの森の映像がもっぱら映っていて、期待したほどの出来ではなかった。それからしばらくしてギリシア・オリンピックの開会式にビョークが出演し、またネットではシュトックハウゼンのサイトにビョークとの長いインタヴューが載った。そんな特別扱いの話題性から、改めてヨーロッパでの人気る高さと活躍ぶりが伝わったが、聴きたいとは思いつつもまだオリンピック以後に出た新作は聴いていない。『デビュー』や『ホモジェニック』、それに『ポスト』もそうだが、ジャケット写真のビョークはほとんどぴったり左右対称に写っていて、それが堂々とした様子をさらに強調させることに効果を上げていることがわかる。この左右対称性が最近のアルバムではついにすっかり崩れているが、そこに新しいビョーク像が誕生しているであろうことは想像に難くない。それはここでは置くとして、「イゾベル」のシングルCDが出ていることを知ってから、それをずっと入手したいと漠然と思っていた。2度ほどネット・オークションの入札で競り合ったことがあるが、思った以上に高値で諦めた。それがつい最近また思い出してネット上で探したところ、アマゾンで中古を販売しているのを見つけ、早速注文した。そのジャケットはすでに知っていた写真だが、手にしてみるとやはりいい。どうやって撮影したのだろうか、ふたりのビョークが頬を接している。ナルシストを演出した写真だ。普通なら鏡を使っての双子性を演出するところだが、この巧妙に作られた写真はそういった簡単な方法に頼っていない。だが、左右対称性はやはり反映している。
 シングル盤の「イゾベル」を聴いてやっと思いがかなったのはいいが、失望した。結果を言えば『ポスト』収録のヴァージョンがベストで、それを聴くだけで充分だ。シングル盤は4曲入りで、1曲目は『ポスト』と同ヴァージョン、2曲目はデオダート・ミックスで、これはまだよい。3、4曲目は演奏時間が倍ほどに延びているが、その分繰り返しがやたら多く、機械的な音が過ぎるクラブ・ミックス・アレンジで、オリジナルにある幻想性は完全に消去されている。これが気に食わない。もっとも、踊りたい人にはそれが歓迎されるだろうが、ビョーク自身がそうしたアレンジ・ヴァージョンを本当に好んでいるのかどうかかなり気になる。レコード会社の売らんかな主義に乗せられているだけではないかとも思う。「イゾベル」の『ポスト』ヴァージョンは弦楽器のオーケストレーションがとてもよい。ほとんどビョークの歌声と同じほどこのアレンジが重要なものと言える。オーケストレーションを担当したデオダートが、シングル盤の2曲目を作ったのは当然のことと言える。それは『ポスト』ヴァージョンとは違ってライヴ演奏のような臨場感があって、それなりによいのだが、残念なことに肝心のさびの部分の独特な音形(これについては後述する)の魅力が著しく減少されている。それでもせめてこの1曲が新たにわかったから、わざわざ買った甲斐もある。それでも『ポスト』はもっと安く買ったから、何だか腑に落ちない。だいたいシングルCDとはそういうものだと昔からよく知っているのに、つい「イゾベル」の魅力の罠に落ちてしまった。
 アルバムに収録した曲をいろいろと編曲して水増しし、それをシングル盤に収録して売ることを最初にやったのは、筆者の記憶にあるところではU2あたりではないかと思う。アルバムで儲ける一方でやたらシングル盤を出して、ボーナスとばかりにがっぽり稼ぐ行為は80年代から急に多くなった。ファンにすればそうしたシングル盤でしか聴くことの出来ない演奏があるため、どうしてもまた財布を紐を緩めてしまう。そしていつも同じ失望を味わう。10年前にジョニ・ミッチェルも同じことをやったことがある。それは70年のビッグ・ヒット曲『ビッグ・イエロー・タクシー』をクラブで踊れるようなミックスとして作り変えたもので、そうした曲がCD(レコードも出たが)に6、7曲ほど入っている。そしてまたややこしいことに、1曲だけ違って後はみな同じという体裁で2、3種類が同時に発売された。全部聴くためには同じようなデザインで、同じような内容のシングル盤をみんな買い揃える必要がある。これはほとんどレコード会社の詐欺に近い行為と言えるが、そうしたシングル盤は限定発売をうたっているので、今買っておかなければもう手に入らないという切迫感が後を押す。そして実際そうした10年前のシングルCDは今ではそれなりに高値で中古市場では取引されている。だが、曲を楽しむ行為からすればそうした話はほとんどどうでもよいことだ。そして、さんざん新たなシングル盤を買った後で、最初のアルバム発表におけるオリジナル曲が一番よいということを再確認する。今もそうしたクラブ・ミックス・ヴァージョンばかりを収録したシングル盤が人気を博していのかどうか知らないが、もういい加減レコード会社も、またミュージシャンも安易なシングル盤を作ることはやめた方がいい。「イゾベル」のシングル盤の発売は『ポスト』と同じ1995年で、ジョニ・ミッチェルの前述の『ビッグ・イエロー・タクシー』と同年だ。ジョニはそうしたオリジナル曲の改変を自分からは行なわず、専門の者に委ねただけであるはずだが、そこにはちょっとした流行に乗ってみようかという茶目っ気が感じられる。ジョニには同曲しかクラブ・ミックス・ヴァージョンのシングル盤がないからだ。この点、ビョークはどうなのだろう。
 レコード会社がアイスランドという辺境から登場したビョークの才能に目をつけて、どういう形にして売り出そうかと知恵を絞ったであろうことはよく想像出来る。アイスランドに特有の民族音楽があるのかどうか知らないが、けっこう歌の上手な才能が故郷でそれなりに素朴とも言える演奏をバックに歌っていれば、今のビョークはない。ポップスの中心地のアメリカやロンドンというところに出て認められ、世界最先端の録音技術や流行感覚を当てがってもらえなければ、世界的なヒットは絶対に見込めない。才能があるとしてそれを充分に磨いて飾り立てる演出が必要なのだ。それが時に行き過ぎると前述のシングル盤のようなものも作られる。ところで、ビョークという名前はかなり変わっているように聞こえるが、北欧圏ではさほどでもないだろう。スペリングにあるOにはウムラウトがついているので、そこがいかにも北欧なのだが、彼女は母国語のアイスランド語では歌わない。英語だ。ここにも世界的に売り出すための必然的な戦略がある。ビョークのCDのジャケット・デザインはコンピュータを駆使した処理が至るところに明白で、それは曲のアレンジにも言えるが、地球の極地といった印象のあるアイスランドから出て来た歌姫に対してこのいかにもメカニカルでデジタルな処理は、うまく行っている場合はよいが、下手をすると何だか商売丸出しの際物的な雰囲気が漂い、あまり感心したものにはならない。クラフトワークとは違うからだ。だが、ビョークがシュトックハウゼンと語るという事実には、ビョークとクラフトワークとの関連もあってよいことになり、デジタル処理が著しいジャケット・デザインもまた当然ということになる。とはいえビョークのことだから、自己主張すべきところははっきりするはずで、今後はますますアイスランド色をより前面に押し出した存在になるのではないか。1000年以上もスカンジナビア諸国の支配にあり、それでも自主独立の精神を失わなかった民族にあるはずの気概がビョークにないはずはなく、むしろそれを濃厚に武器としていることが伝わる。「イゾベル」の歌詞はそんな強い心と冷静な心を所有していることの宣言だ。辺境の地から登場した才能がヨーロッパの中心やアメリカで大きな存在になるというのは昔から続いている現象であり、ビョークもまたそのような大きな歴史の中で語られる時が来るだろう。
 この曲の歌詞はごく短いので意味を解するのが簡単に思えるが、実際はそうでもない。短過ぎる歌詞は時にかえって難解だ。短い単語の羅列の中にどういうイメージを描けるかは英語を理解する能力ではなくて、むしろ詩がわかるかどうかの審美眼が問題になる。そしてそういう詩が書けるビョークはさすが北欧が生んだ才女と言ってよい。アイスランドは他の北欧諸国同様、文学に関しては歴史がある。そうした国から出て来る才能は世界からはどうしてもそうした眼鏡を通して判断される。これは仕方のないことであり、またそうした比較をものともしない自信が彼女にはありそうだ。前述したTV出演のインタヴューでビョークは日本文学の三島を読んでいると語っていたが、そのことから言えるのは、もし日本人が世界的に有名になって注目を浴びたいのであれば、日本が誇り得る文学を知る必要があるということだ。そうしたことを全く意に介さずに、かわい子ぶりっ子主義で行くことも可能だが、それではすぐに飽きられるのが落ちだ。さて、この歌詞には「わたし」と「彼女」が登場し、そして「わたしの名前はイゾベル、自分自身と結婚した。わたしの愛はイゾベル、彼女ひとりで生きている」という下りがある。これはなかなか興味深い。彼女の自信や自己愛、頑固さといったものがこのわずかな行から汲み取れそうだ。歌詞の世界は書いた本人とは無関係と見るべきかもしれないが、アイスランドという出自を隠さず、むしろ誇っているかのような自然児ビョークからすれば、こうしたわずかな歌詞に出て来る暗示は自己表明とみなして差し支えないだろう。サビ部分の冒頭の「彼女はするつもりがあってするのよ」という1行も自信の深さを表明している。確信犯ビョークだ。それゆえ、どのような突飛な格好をしたビョークがジャケットに登場しようとも、それらはみなそうするつもりがあってやっていることを認識する必要がある。そして若いビョーク・ファンはみなこのビョークの自信に喝采を贈るのであろう。
 先にこの曲が幻想的だと書いたが、それは「蛾が彼女の便りを伝える」といった歌詞にある。「森」「炎」「襟」「鉄塔」といった言葉も幻想性を補強する。筆者がこの6分間にわずかに足りない曲ばかりを1時間ほどリピート機能でぶっ続けによく聴くのは、特に好きな箇所があるからだ。それはサビの部分のオーケストラで、4回同じメロディ(A♭から始まり、A、F♯、E、D、B音を下降に奏でる)がゆったりと繰り返された後、別の下降メロディが1回演奏されるその冒頭の音だ。「イゾベル」はB音とF♯音が中心になった曲で、F♯マイナー、つまり嬰へ短調だ。だが、曲はB音の方により安定感を持ち、その点から見るとBのドリア旋法になる。どちらも同じ音の列になるが、主音が異なる。それはいいのだが、先の印象深い下降メロディの冒頭の音(『ポスト』ヴァージョンでは2分43秒の箇所)は、嬰へ短調にもBのドリア旋法にもないG音で、この1音のみがこの曲の中では異様に存在感を示している。これは臨時記号をつけてそうなっているだけで、別にどうでもないとも言えるし、またBマイナーの曲と考えた場合はこのGは存在するから、結局はBを主音にした短調の曲とすれば済む問題とも言えそうだが、それでもたった1音のみ効果的に使って全体を幻想的にするという効果は見事なものだ。これはビョークではなくてデオダートのオーケストレーションの腕の賜物だと思うが、素朴な曲をそういう境地まで持って行くことの出来る才能を呼び寄せるビョークという人物が凄いために、こういうことが起きる。つまり、天才のもとには自ずとそれにふさわしい才能が集まって、巫女であるビョークに捧げ物を与えるということなのだ。それで、シングル盤2曲目の「デオダート・ミックス」は肝心のこのG音から始まる下りは、『ポスト』ヴァージョンに比べるとほとんどわからないような小さな音にミックスされていて、聴いていて消化不良を起こす。幻想性はやはり1回限りのかすかな存在と言える。
by uuuzen | 2005-07-17 23:58 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●野外インタヴューと石造りの白い階段 >> << ●『難波金融伝 ミナミの帝王/...

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