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●『麻生三郎展』
生という名字は珍しいような気がする。総理大臣の麻生さんや、また東京では麻布という地名があって、大阪や京都には麻がつく名前は馴染みがない。それはいいとして、この展覧会、気になりながら、2月20日の最終日に行った。



●『麻生三郎展』_d0053294_1125329.jpgかなりの人が入っていて、静かな人気と言おうか、熱気が渦巻いていた。筆者は今までにこの画家の作品を意識したことがない。他の画家に混じって1、2点は見たことがあるに違いないが、記憶にない。それが15年ぶりの回顧展で、2点の人体彫刻も合わせて130点ほどの油彩と素描が展示された。チラシには、「キレイでカワイイものがもてはやされがちな今日だからこそ、その重厚な作品世界を見直してみたい」と書かれる。そのため、現在のブームとは正反対の画風、もっと言えば忘れ去られた画家ということになるが、絵画の流行は回っていて、いつかまた重厚なものが好まれるようになる。画家は自分の仕事をすればよく、流行に乗じたほどに、忘却されるのも早い。筆者の知るある染色の先生は、「きたない作品は大嫌い」と言い、また別の同世代の先生は「キレイゴトは嫌い」と言うので、ある時代にはいつもキレイ好みとその反対が同居している。この場合のキレイは表面的な色合いや形を言っているが、絵面がキレイであるから作品の訴えるものがそれと同じとは限らず、また画面が汚れたように見える場合も作者の内面が汚れているとは言えない。そう物事が単純に決めつけられないのが芸術で、作品のキレイさの問題は複雑だ。筆者は少しの汚れでも否定されるキモノを染める仕事をしているので、どうしても作品の仕上がりのキレイさには敏感になるが、キモノ以外の作品では汚れが多少ついてもそれがわからないような、つまり最初から汚れが効果になっているような作品を昔から思い続けている。だが、実行はしていない。その行為はほとんど染色の前衛になるはずだが、京都でそういう作品を作ってもまず受け入れられないだろう。全面がキレイに仕上がっている作品は、数十年経たずしてその一部に染みなどの汚れが付着する。となるとせっかくのキレイさはたちまち台無しになる。そのため、その経年変化を見越して最初から何らかの汚れを効果的に演出する方が得策と言えるが、今度はそれがわざとらしい嫌味となって立ち現われかねない。必ずしもそうなるとは言えないが、その可能性は大きい。風化や汚れの付着をなせるがままにすると、数百年前の仏像などのように、それはそれでおごそかな雰囲気をまとうが、当初の作品のキレイさが失われて、その姿が作者が意図したものかどうかとなると、これは判断が難しい。また、そうした仏像は、表面上のキレイさが消えて、作者の本当の思いが露になったと考えることも出来るが、それは勝手な思い込みとも言える。それほど日本では風化や必然的に付着する汚れを、わびやさびとして認める思いが培われたが、パソコンではっきりくっきりとしたピクトグムを見慣れた目には、年月ととも風化した味わいを愛でるという感性は育ちにくいであろうし、何百年経っても一向に汚れが付着したり劣化しない画像、つまりキレイな絵文字や画像が王道と思うようになるかもしれない。だが、ひとりの人間は確実に老化して、体には染みやたるみが増すから、表面上汚れたような画面を真理であるとみなす思いもなくなることはないだろう。
 麻生三郎は1913年生まれで2000年に亡くなった東京の画家だ。松本竣介は1歳年長だが、36歳で早々と亡くなっているのに対し、麻生はその後半世紀を生きた。最晩年には膠原病を患って片腕が麻痺したと思うが、大正から戦争、戦後、昭和の経済成長を生き抜きながら、一貫した仕事を遂げたことが今回よくわかった。どんな画家でも大なり小なりそうであるが、麻生の場合、描く対象はほとんど変らず、画風も少しずつ着実に変化し、写実からほとんど抽象に向かった。そういう画家としてモンドリアンを思い浮かべるが、麻生は主に人物を扱い、その画風は1世代上のジャコメッティによく似るところがある。これは人体を真正面から描くことにもより、また彫刻ではそのモデリングがジャコメッティのように細くはないが、雰囲気はとてもよく似る。そういう麻生は当初前衛的な画風を試みた。そうした作品は戦争でなくなったらしく、あまり残っていないが、それでも今回最初のコーナーに展示された数点からでも充分シュルレアリスム的な画風が伝わる。面白いのは、そうした絵画における人体の内臓を描いたかのようなグロテスクさが、戦後のずっと後年になって、形を変えながら、同質のものが現われることだ。1938年に渡欧し、フランスでユトリロ風の風景画などを描いたことのある麻生だが、同地でいち早くジャコメッティの絵画や彫刻に接したかもしれない。その実際のところはわからないが、ヨーロッパでは写実の重要性を痛感したのは納得出来ることで、帰国後の数年にきわめて写実的な自画像などを描いている。それらは後年の作品からは想像出来ないほどの卓抜な技術を示すもので、それがすぐにピカソの青の時代をどこか思わせる画風に変わり、人物はもっと戯画化される。また、戦後しばらくしてからの素描では、空などを中心に神経質な細かい点がびっしりと打たれ、そのほとんど下手うまの技法により、アンソールを連想させたりするようになる。そのように、各時期とも何らかの影響を被ったと思える西欧の画家を連想させながらも、日本に根差し、自分の子どもや妻、あるいは東京の下町の家並みやそこに暮らす人を画題に、人間の存在性に目を向け続ける。その存在のことを麻生は「圧」という言葉を用いて文章に表現したが、人間などの物体が空間に存在することは、空間と拮抗する「圧」であり、その対立をそのまま画面に定着させようとした。写実は現実的、リアルということだが、写真のようにうすっぺらに見えるように描くのではなく、描く対象の内面性を含めて、自分がそれに対峙し、その対立関係を画面に表現することを写実と考えたのであろう。そのため、作品は具象が基本にはあるが、色調は固定化し、無彩色に血あるいは光を思わせる真紅が用いられ、暗闇に沈みながら強い意志を持った存在が主題になった。また、麻生は戦争で人間の心が破壊され、戦後は全く新たな希望の時代が来ると考えた世代だが、現実は安保の問題など、全く人間社会は変化がないことを実感した。社会の動きに関心を抱くことは、社会派的な画家を思いがちだが、麻生の画面からはそうした活動家、行動家の趣は伝わらない。そこが微妙に松本竣介とは違うように思えるが、麻生自身は真剣に社会を見つめ続けたのであろう。
●『麻生三郎展』_d0053294_1132852.jpg 「赤い空」と題する1956年の作品は、背後に日没の太陽が漫画的に描かれ、また家並みを前にして正面向きの人物を一体描き、どこか松本竣介の作品を思わせる。だが、松本にある一種の青年っぽさはなく、またもっとひとつの何かにこだわり続けるという厳格な思いが伝わる。当時5歳であった筆者には、その作品の空気は懐かしいほどによく心に響く。それは現在からの回顧の情だが、麻生はもっと切実な気持ちで描いたはずで、その麻生の思いを加味しながらその懐かしさを改めて吟味してみると、言い知れないような悲しみや孤独の思いが涌き立つ気がする。それはともかく、この作品はひとつの代表作で、数年は似た画風が続く。そして、それがひとまず壮年期の麻生の頂点で、そこで麻生が亡くなっていたとして、それなりに歴史に名を残したであろう。だが、その後40年以上描き続ける。たとえばベトナム戦争に抗議して焼身自殺した僧がいて、60年代末期、その写真は週刊誌などに乗って人々に衝撃を与えたが、麻生はその事件に因んだ絵を描いた。それは政治的な関わりというのではなく、人間の悲しみという根源的なところへ思いを寄せてのことだ。それは当時の知識人のひとつの良識としてあった態度で、たとえば開高健がベトナム戦争に従軍してルポしたこともそれと同じだ。だが、そうした事件に対しての驚きを持った関心はいつまでも続かない。それが過ぎた後に、どういう作品を、以前からの延長として成すかが問題となって来る。事件は瞬時に過ぎ、また同じような事件が続くとはいえ、表現者としての自己は年齢を重ね続け、以前の繰り返しは体力的にも技術的にも出来ず、また出来たとしてもそれを拒否するように思いは進む。これが作家の晩年期ということになる。その晩年は麻生の場合、数十年あった。これは長い。その長い年月の間に、「赤い空」からどのような変化を見せて行くか。日本は昭和の後期を迎え、70年代からバブル、そしてキレイでカワイイものがもてはやされるようになる。そういう目まぐるしい世の変化の中で麻生は戦前戦後直後の画風を、自己に沈潜しながら大胆に変化させ続けた。
 たとえば78年頃の作品では、相変わらず直立の人体を描いているが、ほとんどその形は見極められない。サインが書き込まれるので作品の上下左右がわかるというほどに絵の内容は解体して混沌化する。そして、一方で凝縮して歴然と人間が存在してもいる。灰色や赤を中心とする色調は同じであるのに、画風が全く新しくなって、しかも圧倒的な存在感と独創がある。また、150号か200号ほどの大作群に囲まれていると、麻生のエネルギーに言葉を失う。それこそが絵画の面白さだが、それらの作は戦後すぐの画題を引き継ぎながら、麻生が加齢したように、一方では必然的な染みやたるみを感じさせつつ、もう一方では熟練としか言いようのないうまさがある。見ていて楽しい絵では決してないが、絵画でこういうことが表現出来るという、ひとつの真実を見せつけられているようで、こうして書きつつ、その時の衝撃を何度も反芻し、麻生のそれを何にたとえればいいのか戸惑い続けている。それは全く麻生独自の境地で、もはやモンドリアンやジャコメッティもなく、具象や抽象の差さえもない。この麻生の70年代の驚くべき頂点の仕事の後、これまたどう言葉で表現すべきか、1992年の「りょうはしの人」と題される作は、さらに大きく変化した境地を見せる。画面中央は灰色と黒による点描で埋め尽され、画面四方の隅にわすかに赤が覗く。つまり、「赤い空」と同じ人体の画題、同じ色を用いながら、そこには行きつくところまで行ったかの純化した抽象がある。これは病気もあって、そういう描き方しか出来なかったと見ることも出来るが、それとは関係なしに、病気をも飲み込んで、以前の仕事をさらに進めるという強い意志の産物であろう。そのため、「赤い空」が内蔵するすべてを含みながら、そこにはその後の麻生の思考のすべてが重なっており、またそれは麻生の内面と技術の勝利と言える。これは、人間は老化して、体に染みやたるみは出来るが、それがあってもなお何かを前進させることが出来るという見事な例で、その輝かしさを麻生は生涯かけて獲得したことを最晩年の作は証明している。これは名を残す画家ならばほとんど誰しも到達する境地だが、麻生はごく少ない画題と色調、構図で勝負しながら、マンネリに陥らず、その反対にきわめて多様な作品をものにした。初期から晩年の作が並ぶ回顧展の面白味はそれがよくわかるところにある。
 血の表現に見える麻生の赤の使用は、初期から顕著だが、ほとんどどの作品においても同じ赤の用い方があって、それはやや批判的に見ると、安易で軽い手法に思えなくもない。今回の展覧会に合わせて京都の鉄斎堂では麻生展が開催され、そのポスターが4階の壁に貼られていた。同展は麻生の売り絵を見せるものだが、麻生の作品を鉄斎堂が扱うのは、意外でありながらなるほどと思わせるところがあって、麻生の絵画が市場ではそれなりに歓迎されたことを示す。ポスターに印刷されていた作品は花瓶に活けた花だ。この画題は今回の回顧展にはなく、麻生が一方で一般に好まれる花を描いていたことを知って、いささか拍子抜けした。その理由は、いかにも麻生の下手うま的な素描に黄色や緑色をわずかに加えた絵でありながら、やはり赤がアクセント的にひらひらと漂うように、また目立つように引かれていたからだ。この赤いのた打つ線がなければ麻生の絵とは思われにくいだろう。そのため、筆者にはこの赤は麻生の売りとなっていた常套手段で、その安易さが花という画題とともに、鼻白むところがあったのだ。だが、麻生も人間であって、美術館向きの大作を描く一方、売り絵を描かねば食べては行けない。そして、そしした売り絵では、キレイな画面を意識することはなかったにせよ、せめてキレイを連想させる画題を無視することは出来なかったのではないか。それは麻生の巧みな世渡り術と言ってしまえば酷な話であり、むしろその反対に、小品ではさまざまな画題に挑戦し、そこでもなお「圧」ということを念頭に、独自の画面を構築することを考え続けた。そして、麻生は素描でも大作の油彩でも、少々画面に汚れがつこうが、全く味わいの妨げにはならない画風で描いたので、画面の仕上がりのキレイさに腐心した作品よりも、長い年月を生き抜くように思える。チラシを見ると、講演会が合わせて開催され、講師は野見山暁治であった。野見山も子どもの落書きのような下手うまの画風で描くが、そのルーツが麻生にあることがこれでわかった。あまり作品を見たことはないが、野見山の作は麻生の陰鬱なものとは違ってポップな感覚がある。野見山も戦争を体験しているが、麻生より7歳若い分、新しい時代感覚の表現が出来たものと見える。
by uuuzen | 2011-02-28 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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