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●『生誕80年 大阪が生んだ 開高健展』
価が定まるには生誕80年ではまだ早いと思うが、「大阪が生んだ」という副題がつくところ、開高健を持ち上げる大阪の文化人の鼻息が伝わって好ましい。



●『生誕80年 大阪が生んだ 開高健展』_d0053294_2212392.jpg確かに開高健は大阪出身だが、大阪をテーマにした小説は「日本三文オペラ」くらいしか急には思い出せず、また東京に住んだ後、茅ヶ崎に20年ほど住んだので、どちらかと言えば関東の作家の印象が強い。大阪には大阪を売りにする小説家の歴史がある。それはそれでいいが、ローカルのイメージが拭えない。開高はそのことを感じていたのではないだろうか。大阪に留まっていては大きな名声は獲得出来ず、首都の東京で売れなければならないといった思いがあったように思う。だが、死ぬまで大阪弁が抜けず、上品ぶらないところがあって、そこは大阪人らしかった。今回の展覧会は、TVでたまたま知って出かけ、チラシは会場でもらった。美術館などには置かれなかったと思う。そのため、TVで知らなければ筆者は見ることはなかった。また、なんばパークスに展示室があることを今回初めて知ったが、チケット売り場では女性から、際に置いてある芳名帳に名前を記してよいと言われたが、そのことから、有志が集まって開催した手づくりの展覧会であることが伝わった。チラシを見ると、大阪市立大学創立130周年記念の展覧会でもあって、同大学の実行委員会の主催だ。もちろん同大学は開高の母校だ。美術展とは違って、文学者の展覧会はだいたいにおいて地味であるから、今回は全く期待せずに出かけたが、初めて見たもの、知ったことがままあって、やはり行ってよかった。行こうと思わせた最大の理由は、TVでちらりと映ったポスターだ。チラシもチケットも同じデザインだ。そこには学生の頃と晩年の開高の2枚の肖像写真が配され、右側の学生の頃の顔は、初めて見るだが、それが晩年の正面向きの顔とあまりにもかけ離れていること、そしてどちらも非凡さをあますところなく伝えていることに感心した。そして、学生の頃の顔が、30数年経って左の太った中年の顔になるかという驚きと、実際そうなったところに、開高の全生涯が凝縮していることを思った。つまり、学生のいかにも真面目な秀才といった顔から、30数年かけて堂々たる大人の顔を作り上げた。その過程が著作と行動に示されているが、58で死んだことは、未完成を思わせながら、やるべきことは充分にやって、むしろ長生きしたと思わせ、開高の評価は今後どう定まって行くのか興味深いものがある。
 筆者が最初に開高の存在を知ったのは10代の終わり頃だ。友人が開高の才能に惚れていたことによる。その時読んだ文章は何か忘れたが、記憶に残らなかったところ、感心しなかったことを示す。友人から聞かされたことの中に、開高がベトナム戦争をルポするために、新聞社の特派員としてアメリカ軍に従軍し、そこで100人以上が死に、わずか数人生き残った中のひとりであったということがあった。そういう極限の地獄を見る経験は、それだけでも書く文章に迫力があるといった見方がされる。筆者はそこがあまり気に入らなかった。ベトナム戦争の実態を知るために従軍を決心することの原因が何であったかは知らないが、そういう命がけのことをしなければ凄い小説が書けないのであれば、小説家は何とも不自由な存在であるとも感じた。また、日本にとってどれほどベトナム戦争が切実であるのか、筆者には理解出来なかったこともあって、ベトナムでの従軍体験から何を得ようとするのか、そこにいささかの胡散臭さも感じた。その後、別の友人から開高の代表的な著作の単行本を大量に送ってもらい、また自分で買ったものもあって、日本の小説家の中では最もたくさん作品を読んだ作家のひとりとなった。だが、それらの著作の中で今この瞬間筆者が最も面白かったと即座に思い出すのは「日本三文オペラ」など初期作で、後期の小説は何かもやっとしたものを思い出しはするが、読んで楽しかった印象はない。開高は読んで楽しい娯楽小説を早々と見捨てたように思う。何をどう書いていいのか、その目的目標が定まらず、その悶々とした状態をそのまま文字で表わしたと言おうか、男として何か満足、充実して生きる日々の苦闘を生涯模索し続け、そしてそのかたわらで生活、人生を充分謳歌する術を知っていて、それが釣りに収斂して行き、そのことを小説その他にそのまま書いた。ベトナム戦争で死の間際まで行った開高は、その反対の極地として釣りの醍醐味を見つけたと言ってよいが、釣りを通して思索し、また自然や人生を見得たことは、小説の作法とどうつながっているのか、釣りにはさっぱり興味のない筆者にはわからない。だが、釣りを通して自然保護、自然愛好に向かった開高は、ゴルフが大嫌いであった。そのゴルフを最初に筆者に奨めたのが、先に書いた最初に筆者に開高の才能を偉大と称えた友人で、そのことがまた筆者には何とも苦いものを感じさせた。つまり、その友人は開高の才能を見抜く力がありながら、開高のように釣りはせず、開高の嫌うゴルフの趣味を持ったから、筆者の開高に対する思いがその友人とは差があるだろうという思いであった。筆者は最初その友人に、開高はひとことで言えば「真面目」と意見した。友人はそれを一種の否定と受け取り、また真面目であることは誰しも必須の条件であると反論した。筆者が言った「真面目」は、言い代えれば融通のなさであった。なぜろくに小説を読まずにそんな意見を言ったのかと思う。開高は融通のなさどころか、融通があり過ぎて、それで釣りの世界に深く入り込んだと言ってよい。また、筆者も真面目さは、仕事を成し遂げる誰においても欠かすべかざる条件とは思うが、筆者自身が小学生の頃から担任に真面目とよく言われ続け、真面目は全く魅力のない人物に対して用いる便利な言葉であるとの思いが育った。その意味においての開高に対する「真面目」という意見であった。また、ベトナム戦争に従軍する態度は、開高が戦争を体験しているとはいえ、戦時中は敵の飛行機の襲撃に逃げまどう少年であり、兵士の経験はなかった。そのことが、たとえば同じ大阪で先輩に当たる富士正晴らの世代に対しての負い目のような思いとなっていたためと思わせられ、そのことは今も変わらないが、現在の日本にないものを、ベトナムにまで行って求めるというその態度に、どこか無理をしている一種奇妙な真面目さを思ったのは確かだ。富士正晴ら、兵士となって中国や東南アジアに行った小説家は、望んでそうなったのではない。全くその反対に、仕方なしに行った。そして、そこで何かをつかんで帰国し、その経験をもとに小説家として有名になった。だが、開高は行かなくてもよいベトナムに行き、結果的に九死に一生を得、その経験で小説家として大きな飛躍を遂げた。そこには男らしい冒険心、そして大きな賭けを求める山っ気があって、それが見事に成功したのが開高の人生と言ってよい。今回初めて見たが、開高は大阪にいた若い頃、富士の家に盛んに出入りし、一緒に写った写真もあった。だが、富士の著作には不思議と開高の名前はごくわずかしか登場せず、それは開高の側にも言える。そして、富士は大阪茨木の田舎に留まり、経済的貧しさに喘いだが、開高はベストセラーを放ち続け、遺産の額も10億近かったはずだ。そして、その差は、両者の文才の差と言うよりも、冒険心や山っ気の差に思える。冒険心や山っ気が悪いと言うのでない。それがなくてはいつの時代でも大きな名声は得られない。それはそう望む者だけに与えられる。だが、より大衆的な大きな名声を得た者の作品がより長く時代に残り、高い評価を得るとは限らない。
 会場では開高が市立大学で講演した時の録音テープが流されていた。ざっくばらんな話し方で、「おしっこに行きたい人はどうぞご自由に行ってください。」などと何度も言いながら笑いを得ていた。また同窓会の案内はがきに対する返信はがきが数枚展示されていて、どれも欠席となっていたのが目を引いた。その理由は多忙で、また開高は自分のことをその返信はがきに「大作家」などと大書していたが、そういう本心か冗談かわからないユーモアもまた開高の魅力で、そういう態度がよくぞ学生時代の真面目な顔つきから変化したあげくに出たものだと思わせられる。開高は20代前半だったか、早々と結婚したので、オナニーをする癖は身につかなかったと書いているが、妻は7歳年長の牧洋子で、最初は開高の論敵であったという。また牧が大阪堂島のサントリーを退社したのと交代で開高が同社に入り、そして有名な「洋酒天国」の編集を手がけるようになるが、その意味で牧と出会わなければ開高の小説家としての開花は全く違ったものとなっていたかもしれない。それほどに開高のサントリー時代は重要に思うが、その酒が寿命を縮めたと言えまいか。富士正晴も酒好きであったが、開高のウィスキーの飲みっぷりは、TVで見たところ、ちょっと凄まじいものがあった。また、戦中育ちであるので、悪く言えば食い意地が張っていて、それも体にはよくなかった。学生時代の顔写真と晩年のふくよかな顔への変化は、多くの経験を重ねたことと同時に、美酒美食があったからだ。金のない富士とはそこが違う。さっぱり美食には縁のなかった富士には食べ物に関する著作はほぼ皆無で、今思い出すのはたくあんにお茶漬けくらいなものだ。その両者の差がそのまま文章の差にもなっているとして、両者が一時期交流したのは、大阪の小説家として富士が先を走っていたからだ。だが、富士は徳島の出で、また大阪に特別こだわったということはない。牧洋子は奈良女を出たが、いかにもそのような秀才の顔つきで、それが開高にはどこかふさわしくない気にさせながら、開高の本質はその真面目な牧の表情から映し出されているとも思える。7歳年長の妻とどのように仲がよく、また話が通じたのか、開高の著作からはそのことがほとんどうかがえない。また、ふたりの間にはひとり娘の道子がいて、今回はその子どもの頃のかわいい写真が何枚か展示されていて生活感がよく伝わった。何が紹介されたのか忘れ、また亡くなる2、3年前だったと思うが、道子はNHKのTVに出演したことがある。両親がいなくなってから、ひとりとなった道が積極的に世間に顔を出すように務めているのだなと思わせ、好ましく感じた。それは、偉大とされる両親を持ってさぞ活動しにくいだろうなという同情によるが、その道子が自殺だったか、その数年後に亡くなったことを知って、筆者は開高の華々しい生前の活動とその後の無常さをつくづく思った。億単位の遺産があって、経済的には何の不自由もなかったはずの道子が、両親のいない後、どのようにさびしく暮らしていたのだろう。父が人生を楽しんだようには楽しめなかった、あるいは楽しむふりを他人に見せる芸当が出来なかったのだが、そこから逆に開高の生涯やそれに対する覚悟も見える気がする。釣りや美食と人生を楽しむことに貪欲であったように見える開高だが、その陰で苦闘からのた打ち回っていたかもしれない。実際後期の小説はそういう悶々とした内面をいかに切り開くかをテーマにしたものとなって、娯楽小説を愛する人にはさっぱり面白くないだろう。
●『生誕80年 大阪が生んだ 開高健展』_d0053294_222144.jpg 会場の最後で目を引いたのは、司馬遼太郎の弔辞だ。巻物状になっていて、赤や紫、青など多彩なフェルトペンで訂正が非常に目立つ。次の展覧会を見に行く必要のあった筆者はこの展覧会を20分程度で見たので、この弔辞の全文に目を通さなかった。だが、斜め読みしながら目についたいくつかのことがある。たとえばそれは、開高が最晩年にチンギス・ハーンの墳墓を探索する計画を立て、また実行しながら、その場所が探り当てられなかったが、ある日司馬にたまたまどこかで会って、開高は司馬にチンギス・ハーンをテーマに小説を書くつもりがあることを語ったところ、司馬は歩み去る開高に向けて「やめておけばいいのに」と言い、開高は手を上げながら、まあまあといった素振りを見せたことだが、開高はチンギス・ハーンにどんなロマンを抱いていたのだろう。また、そうした歴史小説は司馬の得意とするところで、筆者は司馬のファンではあまりなく、その小説をまともに読んだことがない、また読む気がないのでよくわからないが、司馬にとって開高がチンギス・ハーンに取り組むことは無謀に思えたとしても、その文才で司馬にはない味が出せたのではないかという思いはある。また、弔辞の中で司馬は、文体の話を持ち出し、開高のそれを何かにたとえていた。その点は開高の本質を示すうえで重要なことで、弔辞にはふさわしい。そして、筆者は開高の著作の大半を読みながら、その文体の妙というものが今ひとつ理解出来ていない。ただし、開高の若書きの文章の中に、平安朝的な、つまり古文の文体で書かれたものを昔読んで驚いたことがある。それはそういう文章をたくさん読みこなした者でなければ模倣が困難なもので、そういう技術的なことを若い頃に獲得し、また踏まえたうえで、今までにはない文体を構築する目標に向い、また結果的にそれを主題と内面を合致させつつ駆使したところに、開高の価値や意味があり、それを司馬が的確に評価していることに、同じ作家としての司馬の開高に対する尊敬の念が見え、文章の世界の創造の苦闘が伝わる。それは文章に限らず、音楽でも絵画でも同じだが、日本語の、しかも小説の文体となると、よほどさまざまな作家のものを意識的に読みこなす必要があって、筆者にはその能力がない。弔辞の最後辺りで、司馬は禅僧の話を持ち出していた。それは意外でありながら、そうでもないように思えたのは、美酒美食は禅僧には無縁ではあるが、どう生きて何を見出すかといった苦闘の開高の歩みは、禅僧の悟りを求める生活になぞらえられそうであるからだ。文体でも強靭なものを求め、また人生の極地と言える部分でもそれを求め、両者を合体させて結晶のような作品を生む、そしてそのことだけが幾分かでも永遠性に近づくと開高は思っていたのだろう。それも真面目が基本にあってのことで、また融通も利かなくてはならないが、その真面目と融通性は、チラシやチケットに印刷された学生の頃と晩年の肖像写真によく表われている。道子は画家でもあったが、道子が描いた開高の肖像画が展示されていた。鉛筆による素描で、道子は大好きなパパの表情と言っていたそうだ。その顔は、チラシ左の晩年の顔と同時期のもので、道子の愛情がよく伝わる秀逸な出来栄えであった。茅ヶ崎の開高一家が住んだ海辺に近い自宅は、道子の没後、遺産相続人が市に寄付して、今は記念館になっている。また、大阪東住吉区北田辺の古い木造住宅は長らくそのままあったが、去年だったか、解体された。そのため、いよいよ大阪の作家と言うより、関東の作家というイメージが大きいが、母校の大学が今回のような顕彰を重ねて、今後は評価がなお定まり、大阪独自の何かが持ち味として云々されるであろう。
by uuuzen | 2011-02-25 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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