豆入りの小さなオレンジ色の紙袋が、この1年パソコン横の筆記用具箱の中で目立っていた。それが今朝探してみるとない。
慌てて家内に訊ねると、埃をひどく被っていたので、先日掃除の際に捨てたと言う。去年の吉田神社での節分祭で買った
くじつきの節分豆だ。一昨年に同じものを買って「おにおにっ記」に写真を掲げ、そしてその一昨年のものを桜の林に持参して鳩を待ち、餌として撒いた。
その写真は嵐山駅前の変化シリースに載せた。それと同じように今年も鳩にやるために取っておいたのだが、その計画を知らない家内は処分してしまった。去年と同じ餌やりをして、ブログに同じような写真を掲げても面白くないであろうから、諦めることにするが、昨日はせっかく「節分過ぎの雑感、その1」と題名をつけておきながら、今日は「その2」として書くべき内容がしぼんでしまった。ところで、「節分過ぎの雑感」という題名は投稿直前に思いつき、そして投稿をクリックする寸前に題名に「その1」を書き加えた。節分に関しての話題を書き忘れたことを思い出し、それを今日書くつもりでいたからで、その話題のひとつが節分の豆袋を桜の林に持参して鳩にやることであった。今朝は天気がよかったので、その豆袋とカメラを持って久しぶりに桜の林に行くつもりであったのに、あるべきはずの場所になく、それでいつものことながら家内に訊ねたのだ。家内は筆者のごく小さなメモでも絶対に捨てないが、この豆袋を捨てたのは、1年も経った豆を筆者が食べるはずはないし、鳩にやることも予想出来なかったためだ。また、鳩の糞に困っているわが家では、鳩に餌をやるなど家内は考えられない。それは筆者も同じながら、豆と言えば鳩を連想し、それで毎年吉田神社に行って同じ豆を買い、毎年節分直後に鳩に1年前のものをやろうと漠然と決めていた、それが2年続かずに不可能になったので、来年からはもう同じことを考えないが、来年からは吉田神社にも行かないかもしれない。と言うことは、今年は行ったということになるが、行ったには行ったが、後の祭りであった。そのことが「その2」として書くメインの内容だ。
吉田神社に行ったのは2月4日だ。府立図書館での用事を終えた後、家内と待ち合わせをした京大正門前のバス停に向かった。お互いケータイ電話を持っていないので、時間を決めてはいても、必ずどちらかが最低10分前後は待つことになる。家内の仕事の終わる時間から電車とバスの所用時間を考え、だいたいこの頃かと予想した時刻にバス停に着いたが、真っ暗なところに家内はぽつんと立っていた。筆者の予想は外れ、早く着いたらしい。そして歩き始めてすぐ、妙な気がした。節分祭であればそのバス停は大勢の人が群がり、付近一帯がは屋台の灯で明るいはずなのに、夢の中のように暗闇だ。それでも信号をわたって神社に向かって150メートルほど東進し、鳥居の前に来ると、大きく告知があって、節分祭は3日の昼下がりで終わっていたことがわかった。3日に行くことも出来たのに、4日にしたのは、1976年の2月4日に京大西部講堂でザッパ・マザーズの日本公演があって、どうせ行くなら4日がいいと思ったからだ。35年前の2月4日の夕方、筆者は3番の市バスで百万遍まで行き、公演を見た。その終了後は東大路通りを南下する循環バスで祇園まで行き、そこで下りて松尾橋方面に乗り換えたが、その帰りのバスは夜の9時過ぎであるのに超満員であった。そして、ひとりの男性がその満員の理由を「何やこの混み具合は、そうか、吉田神社の節分祭か」と大きな声で言った。それを今でもよく記憶する筆者は、同神社の節分祭は今でも4日まであると思っていた。だが、35年で神社側のつごうも変わったのであろう。4日はさびしい真っ暗な後の祭りで、鳥居では幽玄の提灯の列がぼんやりともるばかりであった。筆者は鬼の顔の形をした色鮮やかな生八橋や、オレンジ色のくじつきの豆を買えなかったことが残念であったが、家内はせっかくのバス代と時間が無駄になったことに文句を言った。百万遍南西角は、昔は銀行であったのが今はドラッグ・ストアになっている。そこで家内は大好きなポテト・チップスをいくらか買い、そして35年前とは反対回りに、百万遍のバス停を西に進んで河原町に出て、そこでもまたいつものスーパーで夜食のための買い物をした。ネットで調べると簡単に節分祭のスケジュールがわかるのに、それを怠ったのは、35年前の4日の思い出があまりに鮮明で、それが節分祭と分かちがたく結びついているからだ。こういう考えは老化を示しもするだろう。時代が変わると、神社の祭りであっても日にちが変化していることを疑わねばならない。
今年はどの神社の節分祭に行くか多少迷ったので、来年は吉田神社以外もいいかと考えている。吉田神社はわが家からはかなり不便なところにあって、電車とバスを使うか、あるいは20分ほど歩いて松尾橋から3番のバスに乗るかせねばならない。どちらも1時間ではとても無理だ。タクシーではそれほどかからないが、その経済的に優雅ではない筆者にその発想はない。今日はひとりで展覧会を見に行き、母の家で家内と待ち合わせをした。母と話をするのは正月以来か。展覧会を見るのに市バスの1日乗車券を3番のバスの車内で買った。松尾橋まで歩いて行く途中、小川沿いの白梅の老木が3分咲きになっていた。梢には雀が10羽ほど群がっている。楽しそうだ。その梅の樹齢はどれほどだろう。数十年、おそらく50年以上ではあるまいか。大きな旧家の広い庭なので、そのような太い幹に育つことが出来た。筆者はそれと同じような梅をわが家の裏庭のフェンス沿いに見たいと考えている。そのために天気のいい日には瓦礫掘りに精を出す。だが、種子から育てたとして、そのような老木になる頃には筆者は100歳を超えている。もっと成長した苗木なら10年ほどで実をつけるかもしれないが、それはしたくない。せっかく植えるからには、何か因みがほしい。そして去年はその出会い、いや別れと言う方がいいが、それがあった。その形見として梅の実を入手し、その種子を冷蔵庫で保存していたのだ。果肉がついたものそのまま植えても発芽せず、実を全部きれいに洗い流し、中の硬いタネだけを冷蔵庫で保存し、2月になって植えるとよいとことが去年ネットで調べてわかった。そして、そのタネを取り出して、先日植木鉢に植えた。全部で10個だ。土は梅の木が植わっていた場所のものを掘り起こして取って来た。同じ成分の土なら発芽しやすいかと考えたのだ。だが、発芽するかどうかわからない。裏庭向こうの小川沿いには、数本の梅の木が並び得る空間がある。自分の庭に梅の花を見ることが筆者には長年の夢であり続けている。真剣にそう思うなら、さっさと植木屋で苗木を買ってくればいいものを、面倒くさがり屋で、それを実行しなかった。それなのに今年は瓦礫掘りにどれほど時間を費やしていることだろう。筆しか持たない筆者のか弱い手は傷だらけ、汚れだらけで、ガサガサになっている。それも男らしくていいではないか。梅が発芽するともっと嬉しいが。この梅の話に関してはいつか日を改めて詳しく書くつもりでいる。