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●『海を渡った古伊万里展-セラミックロード-』
州陶磁文化館という施設があることを今回知った。日本各地に美術館が出来て、筆者が知らないところが多い。先日は瀬戸内海のある島に安藤忠雄が設計した美術館があることを知った。



●『海を渡った古伊万里展-セラミックロード-』_d0053294_1303910.jpg日帰りで見るにはあまりに強攻なスケジュールになるし、その島で1泊して見るのがいちおう常識となっているが、ひとり1泊5万円というから、これはとても縁がない。ほとんど外国に行くのと同じ感覚で、むしろ韓国辺りに行くより豪華だ。また瀬戸内海の島というと、筆者にはほとんど海を越えて行く国際性を思う。美術館もホテルも有名な会社が経営しているようで、島に泊まってもらってゆっくり美術品を鑑賞してほしいという考えだ。日本はそれほどに豊かな国になった。時間も金も使ってリゾート気分に浸り、美術も楽しむという考えだが、これはスキュルチュュール江坂のもっと規模の大きいもので、会社にすれば美術品を収集しながらそれで商売が出来るのであるから一石二鳥だろう。その島の美術館に行ってみたい気はするが、筆者は宿泊コースを採れる身分ではない。岡山から船でわたって数時間で見ることが出来るコースがあるのかどうか、暇が出来ればその可能性を考えたい。それはともかく、知らない美術館が各地に出来て、筆者の世代ならばそういう場所を旅行がてらに全部見て回るという人は少なくないだろう。サラリーマンなら定年間近で、暇も金も出来るはずなのに、そのどちらにも縁のない筆者はせいぜいたっぷり歩いて百貨店の巡回展を見る程度だ。そして、その感想をこうして綴る。優雅とはほど遠く、さっぱり面白い内容にならないが、自分の現実を把握し続けるにはいい。さて、週1回の長文日は今週月曜日の24日であったが、それが乱れている。次の長文日は30日の日曜日だ。その日には何を書くか決めているので、今日は昨日のちょっとしたつながり気分から書いておこうと思う。そのつながりとは、赤塚漫画が国際的なものになり得るかどうかという問題だ。それと似たことは江戸時代にもあったのではないかという思いだ。つまり、赤塚漫画は突如出現したのではなく、江戸あるいはもっと以前の日本の文化性の中から必然的に生まれたものではないかという考えだ。だが、はっきりとした考えがあって書くのではない。国際的という言葉を昨日は使ったので、その国際性が戦後特有のものではなく、江戸時代やそれ以前にすでにあったことを再確認したのだ。何を今さらという感じもするが、赤塚漫画と今日取り上げる伊万里を結びつけたい。
 こうした陶磁の展覧会は珍しくない。大阪には東洋陶磁美術館があるし、そのコレクションにも古伊万里はある。また、去年10月からつい先日まで丹波篠山の立杭にある兵庫陶芸美術館では、『日本磁器ヨーロッパ輸出350周年記念  パリに咲いた古伊万里の華』が開催されていた。この美術館には3回訪れたことがある。近くにスーパー銭湯があり、そこがとても気に入っているので、車に乗せてもらって何年か前に何度か訪れたが、片道100キロ近いこともあって、行くのに苦労する。それで、去年秋から何度も同展を見に行くことを思いながら、実現しなかった。たまには田舎道をドライヴして、温泉に浸かるのはいいものだが、毎日慌ただしく、なかなか一緒に行く者とのつごうがつかない。それはいいとして、同館で開催していた展覧会が京都伊勢丹の美術館に巡回するのかと最初は思ったが、開催日が重なっている。それで違う展覧会であることに気づいた。そして、似た内容ならば、近い方で見るのがよいと考えた。そして、似た内容かどうかだが、兵庫陶芸美術館での同展は、ヨーロッパにかつて輸出された古伊万里を現地で買い戻している碓井文夫氏のコレクションを展示するもので、これまた金持ち日本を象徴している。氏がパリで収集を始めたのは90年代半ばで、10数年で展覧会が開催出来るほど集めたのであるから、どれほどの大金持ちかと思うが、古伊万里の魅力にとりつかれたということで、これは美術愛好家には珍しくない。一方の伊勢丹の展覧会では確か柴田夫妻という人が集めた古伊万里がいくつも展示されていて、これも買い戻したものであったと思う。そして、碓井氏の買った作品もわずかに展示されていたと思うが、記憶が定かでない。九州陶磁文化館はこうした人々の寄贈を受けて収集を充実化しているものと見えるが、収集家にとっては郷土愛からでもあって、寄贈を受けてもらうのは夢でもあるだろう。これが伏見人形のような安価なものであれば、なかなか見向きもされない。それはさておき、相次いで似た展覧会が開催されたのは、伊万里の磁器がヨーロッパに輸出されて350年という区切りからで、逆算すると1660年になる。これより数年前に輸出はされていたが、オランダへ送られた年度を起点にしている。そのオランダで古伊万里が市場からたくさん出て来るのかと思うと、碓井氏はフランスで買っているので、ヨーロッパでは国によって古伊万里への眼差しが異なるのだろうか。それはともかく、現在の中国人が日本で中国美術を大量に買い戻していることと同じで、金持ちには海外に流出したものを自国に戻す義侠心が湧くものらしい。古伊万里の場合は、ピンからキリまであって、筆者には価格がさっぱりわからないが、江戸時代に輸出された期間の100年に間に300万個というから、パリで優品を見つけるのは案外困難ではないのかもしれない。割れ物であるから、300万個のうちどれほど残っているかだが、これまたさっぱりわからない。また、現在のパリあるいはヨーロッパでは古伊万里があまり歓迎されず、手放す人が多いとも想像出来るが、この点もどうだろう。ヨーロッパ人にすればやはり日本にあるヨーロッパのものを買い戻したいと思っているのではないだろうか。
 輸出された古伊万里は最初中国の陶磁器の代用品としてであった。中国の国内が混乱して陶磁器を焼いている場合ではなかった時に、佐賀藩がうまく便乗し、有田でせっせと焼かせて輸出した。これはもちろんオランダが中国から調達出来ずに困ったからだが、日本が中国の陶磁器を完璧に模倣する技術を持っていたことが幸いした。そして、その発端は磁器を焼く職人がいたからで、それはよく言われるように秀吉が朝鮮から連れ帰った人々が最初だ。ここには現在と変らぬ、いやそれ以上の国際性がある。日本は中国やヨーロッパの動向を睨みながらうまく商売を続けたのであって、その精神は明治大正昭和と受け継がれて来たのは言うまでもない。それは誇ってよいことだ。他国の隙を見ながらうまく立ち回るらねば、小さな島国は生き延びて行くことは出来ない。そして、古伊万里は、模倣と独創の重要性を伝えている。それは技術が裏打ちされてのことで、その技術は器用さが根幹にある。その器用さは戦後のトランジスタにつながったし、今でも別の分野に伝わっているだろう。ただし、それが本当にそうであるかどうかは、100年ほど経ってみないことにはわからない。模倣と独創と先に書いたが、赤塚漫画は大きく見れば杉浦茂などの先駆者の仕事があってのもので、その杉浦はアメリカのポパイやミッキーマウスの影響も受けている。これは中国の景徳鎮と有田の対比になぞらえることが出来る。日本の現在のアニメ文化はアメリカに最初倣ったものだが、やがて本家を揺るがすほどに育った。それは模倣から独創を生んだためだ。そしてその独創は、赤塚時代になれば、もはや世界が理解出来ないほど先を進んでしまった。同じことが陶磁の分野においてかなり昔にあったのではないか。たとえばワビやサビで、割れたり欠けたり、あるいは汚れたりしたものを愛でる思いだ。それはほとんど世界からは理解されない美意識に思える。そして、理解されずともいいと筆者は考える。ワビサビと赤塚漫画が同じとは言わないが、どこかでつながっているものがあるようにも思える。たとえば赤塚が酒浸りになったことだ。その自滅行為は、ワビサビの根底にあるものに通じている気がする。ま、話をそこまでややこしくする必要はない。
 古伊万里を300万個も買ったヨーロッパは、そのうち自前で同じものを作ろうとするのはあたりまえで、その努力の結果、たとえばマイセンの磁器が生まれる。また、中国もいつまでも日本に出し抜かれているのはたまらないから、やがて巻き返しを図り、それに成功するが、ここには陶磁器を愛好する人間の本性が見えて面白い。それほどに美しいもので、その硬質の肌は洋の東西を問わずに求められた。だが、その伝統の最初に君臨するのは中国であり、そこには底知れない創造の源泉があることを思わないわけにはいかない。現在は日中の国民感情は微妙なものがあるが、中国を模倣しながら古伊万里が独自の境地に到達したことは誇るべきことだ。中国における古伊万里の評価を知りたいが、そういう情報は案外少ない。中国に古伊万里は輸出されなかったので中国人が見る機会が少なく、そのため評価のしようもないというのが現状かもしれないが、もしそうだとすれば情報の多さに関しては日本は中国を上回り、これはいいことだ。相手の手のうちを知らなければ、有効な戦略を立てることは出来ない。古伊万里が成功したのは、そういう考えがあってのことだ。中国の模倣をしつつ、それを凌駕し、またヨーロッパの好みをどのようにでも表現出来るという融通性があった。それは情報が豊かであったためで、それは今回の展覧会の副題「セラミックロード」にあるように、海を通じての道であり、日本が海の国であったことが有利に働いた。そして、鎖国の日本が九州に外国との扉を持っていたことが古伊万里の誕生の原因にもなったが、その点からすれば九州は江戸時代の国際性の元締めであったし、また江戸時代に限らず古代、さらには日本の成立時からしてそうであった。赤塚不二夫は満州で生まれ、引き上げて来て一時大和郡山に住んだ。そこにも大陸とのつながりや国際性がある。
 今回の展示で目を引いたものに、6つほどでセットになった小さな器があって、そのうちの1個以外が古伊万里と表示があって。1個は中国製なのだが、筆者には区別がつかなかった。またキャプションにはどれがその1個なのか説明がなかった。素人には古伊万里と中国のものとの区別がつかないものがある。一方、伏見人形のように、古伊万里で人形を焼いたものがある。婦人像が有名で、力士像もあるが、婦人像はキモノがカラフルでヨーロッパでは喜ばれたのだろう。そうした人形は中国とは明らかに違うものであり、古伊万里の独自性を示している。また、ヨーロッパの好みにしたがって絵つけをしたものがあって、ケンタウロスを描いた皿があった。それを描いた江戸時代の職人は、ヨーロッパからもたらされた図案を見たわけで、有田の閉ざされた地域での出来事ではあったが、それが何らかの形で藩から外に出たことを想像するのは楽しい。また、オランダが日本に発注したのは東インド会社を通じてで、器にはアルファベットで大きな文字がよく書かれた。その書体を見ると、見事に当時のものを模していて、そこに江戸時代の職人の美意識の鋭さを見る。アルファベットの美しさを熟知していたと言おうか、そういう職人であったからこそ、中国のものを模しながら、独創的なものを生み出すことが出来た。絵に比べてそうした文字は模倣が簡単と思う人があるかもしれないが、むしろ逆で、仮名や漢字しか書かなかった当時の職人が、アルファベットのローマン体のセリフ(爪)やあるいは線の太細を、まるで西洋人が書いたかのような端正な形で曲面に表現していることに目を見張る。そして、そんなアルファベットを書く人物が350年前にいたことが、当時の日本の国際性を示す。今回のもうひとつの特徴は、ヨーロッパなどの王宮で古伊万里がどのように収集展示されたかを示す写真の展示だ。これは撮り下ろしで、しかも原寸大に引き伸ばされていたのがよかった。壁面を台代わりに木彫りを埋め尽くし、そこに大小さまざまな磁器を嵌め込んでいたりするが、その豪華さとエキゾチックな雰囲気は、磁器への熱中ぶりがよく伝わる。磁器に混じって木彫りの布袋像が飾ってあったりして、ヨーロッパにとって中国や日本は、謎の多い、しかも魅惑的な土地に思えたのだろう。確かにどうして作るのかわからない磁器を見ていると、魔法の国に思えても仕方がない。その魔法を西洋は錬金術でねじ伏せ、やがて磁器の製法を解明するが。そうなっても、遠く船で運ばれて来た古伊万里は宝物のように大切にされた。そして、今もそのまま設えられているところ、一般人にはかなり縁遠いものであったのだろう。また、そうした展示を見ると、よくぞヨーロッパで買い戻すことが出来るなとも思うが、350年前の貴族が没落して、収集した古伊万里を手放すことは無数にあったに違いない。一旦買い戻され、そして公的な機関に入ったものは、もう流出しないとは思うが、国際性は流動性とつながって、将来のことは誰にもわからない。だが、金のあるところに優品が集まることだけは確かだ。
by uuuzen | 2011-01-28 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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