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●『ベートーベン・ウィルス』
の名前にトーベンとつけた40歳の指揮者が主役のドラマで、全18話の喜劇だ。年末にKBS京都で見終わった。ある架空の市の交響楽団に雇われ、韓国にひさしぶりに帰って来た指揮者の半年間にわたる行状記で、素人の演奏家を相手にする気が全くなかったにもかかわらず、次第に心を動かされ、彼らのために何度も影日向になって援助するという筋立てだ。



いわば芸術賛歌で、日本で言えば文部省推薦物となるが、明るい内容、またさまざまな人物の愛情劇が絡み、世相を映す鏡にもなっている。オーケストラを雇うのに費用がかかり過ぎ、それをささと切り捨てる現在の日本の財政だが、韓国でも事情は似たものだろう。そして、そういう時代であっても、クラシック音楽を演奏したいという人々がいて、たった一度でもいいので、華々しく人前でコンサートをしたいと願っている。そういう思いが理解出来ない人はこのドラマを観ない方がいい。だが、クラシック・ファンはよくぞこういうドラマを作ってくれたと思うのではないか。クラシック音楽ファンにとって見所の多い内容で、専門的なことも出て来る。一方、音楽を理解しない市長を登場させ、皮肉がかなり利いた場面が多いことは、他の韓国ドラマと同様、権力批判は忘れずに押さえている。また、音楽と見事に関係した下りもあって、音楽通なら、なお唸る脚本となっている。今までに似た韓国ドラマがあったのかどうか、筆者がいつもこのカテゴリーで書くように、韓国ドラマが芸術に触れる場面が多く、そのことの極めつけがこのドラマとなった感がある。KBS京都では来週からは画家をテーマにした韓国ドラマが始まるが、それも同じ路線と言えるかもしれない。音楽をテーマにした映画は、日本で学生のジャズ・バンドを取り上げたものがあったので、この韓国ドラマはその二番煎じのようなものかと最初は思ったが、ジャズではなく、クラシック音楽を扱う点、また有名指揮者と趣味の演奏家連中との交流を描いた点で、あまり関係はなさそうだ。視聴率がどれほどであったのか知らないが、こういうドラマが作られるのは韓国ドラマの成熟さをよく示す。韓国におけるクラシック音楽の浸透ぶりは、歴史的、また割合で言っても日本以上ではないと思うが、それにもかかわらずのこのドラマであり、クラシック音楽のそうとうな人気ぶりがあってのことだろう。韓国ドラマを日本で見る人の何割がこのドラマを歓迎し、また登場する作曲家や音楽を熟知でいているかとなると、1パーセントに満たないと思うが、それは韓国でも同じはずで、そういうことがわかっていてなおこういうドラマを作ったところに、韓国ドラマの面白さと底深さがある。それは大衆に迎合していないということを示し、スポンサーがよくぞついたとも思わせる。そこはクラシック音楽をさっぱり聴かない人であっても楽しめるような内容にすることで見事に対処し、そのことがドラマとしてより成功を獲得している。笑いの部分には下品さはなく、セリフのひとつずつがとても吟味され、そのまま舞台劇としても通用するほどに無駄がない。そのために、案外さらりと見て、印象に残りにくいほどだが、指揮者の強烈な個性は全く秀逸だ。こんな俳優がいたのかと改めて韓国の俳優陣の幅広さを認識する。
 トーベンという犬が登場するのは、指揮者がベートーベンの崇拝者ということで、これは妥当な筋立てだ。だが、ベートーベンだけではなく、古典派、ロマン派、現代音楽と、幅広い作品を手がけ、そうした音楽が毎回演奏される形で登場する。それはもちろん有名オーケストラの吹き替えだが、このドラマのCDが作られたはずで、それを見ればどのオーケストラの録音を使用したかがわかる。また、オーケストラが登場するので、ドラマの中心となる10人ほどの俳優以外にも大勢のエキストラが必要で、製作費は通常以上に要したであろう。その豪華さがこのドラマのひとつの見所にもなっている。ベートーベンがらみで言えば、指揮者のカン・マエを好きになる市役所勤務でヴァイオリニストの女性トゥ・ルミは、ドラマが始まって早々、耳に腫瘍が出来て徐々に聞こえなくなるという設定だ。このベートーベンと同じ病を持ち出した設定は、あまり必要でないと思えもする。だが、ルミはイギリスの打楽器奏者のイヴリン・グレニーを持ち出し、彼女のように耳が全く聞こえなくなっても、響きを体全体で感じることが出来ると言う場面がある。イヴリン・グレニーは有名でCDを何枚も出しているが、そういう現代音楽がらみの人物を筋立てに絡めて言及するところ、このドラマの高尚さを旨としたことがよくわかる。グレニーの名前も演奏も知らない人であっても、ドラマのその部分は充分理解出来るが、グレニーを知っている人ならば、もっとこのドラマが安直な内容でないことを思うだろう。筆者が面白い、またなかなかやるなと思ったのはそういう場面だ。もうひとつふたつ例を挙げると、芸術を理解しない市長から、就任式に国家と、シナトラの「マイ・ウェイ」を演奏することを依頼されたマエは、もう1曲用意し、しかも最初にその曲を演奏する。それはジョン・ケージの「4分33秒」で、その何も演奏しない無音の曲に市長は激怒するが、これはれっきとした現代曲と言い返して、市長の無知ぶりを人前に示す。同曲の演奏は、マエが楽団員に何も言わずに仕組んだ罠であったが、それほどに計算高く、また平然と市長であっても小馬鹿に出来るほどにマエには指揮者としての自覚とプライドがある。もう1曲、フォーレの「パヴァーヌ」の編曲を巡って楽団員と対立する場面がある。これもマエの考えをよく示して実に興味深い。一人前になっていない者が、平気で作曲者の考えを無視して旋律を編曲することを、マエは断じて許さない。作曲者あっての指揮者であり、作曲家が何を考えて音符を連ねたか、ひたすらその読み取りに務めることを義務と考えている。それは自分が死んで天国で作曲家と会った時、合わせる顔がなければ困るという思いだ。そうした基本的なことをびしびしと楽団員に教えて行くが、なかなかそれがわかってもらえない。
 ルミの耳は突然聞こえなくなり始めるというハンディキャップは、いかにもごつごう主義的な韓国ドラマらしいが、ドラマとは元来そういうもので、またこのハンディを負うという設定は指揮者も含めて、登場人物全員に用意される。そして、誰しも想像するとおり、そのハンディを乗り越えて心をひとつにし、最終回では広場でベートーベンの第9交響曲を演奏する。その場面は最後の花で、どこか取ってつけたところのある、夢の中の出来事のような印象も漂うが、それを言えば、このドラマは指揮者の言葉と態度があまりにもおおげさで、その過剰な演技とでも言うものが喜劇さのもとにもなっている。ところが、過剰ではなく、そうしや言動こそがこの指揮者の努力して克ち取った日常的態度であり、音楽に人生のすべてを捧げた指揮者とはまさにこういうものであろうと、最初の回から即座に納得させられる。カン・マエの見本となった指揮者がいるのかどうか、それが気になる。最終回ではチェリビダッケの後釜的に指揮をしてほしいと依頼を受け、ミュンヘンに呼ばれる場面で終わるので、脚本家はカン・マエにチェリビダッケを重ねたかと思わせられる。だが、チェリビダッケの名前が出て来るのは最終回のみで、楽団の練習場では、背後にトスカニーニの大きな白黒写真がかかっていた。もう1枚その左にワルターの写真もあったと思う。また、カラヤンの名前も出て来た。こういった大物がカン・マエの尊敬する指揮者だ。カン・マエのマエはマエストロの略で、本名はカン・ゴヌだった(と思う)。そして、同姓同名のもうひとりの若い男性がトランペッターとして登場し、ルミを巡って3角関係になる。とはいえ、ドロドロした恋愛ドラマでは全くない。ルミは若いゴヌに最初は魅せられるが、すぐにマエを好きになり、最終回までほとんど片思いのまま過ぎる。若い頃のマエはそれなりに恋愛もしたが、指揮に没頭し、40歳まで独身を通し、そして女性に心を開かないことを決めて生きて来た。そこに若いルミから恋心を告白されても、容易に心は揺るがない。それがまた格好よさであり、そういうマエをさらにルミは好きになる。そしてマエの弟子になったゴヌはマエと何度も意見対立しながら、ルミの思いを奪われたことを恨みに思わない。そこがまたよい。キスの場面がなく、手をほんの少し触る場面があるだけで、それがクラシック音楽をテーマにした格調の高さをより高めている。
 ハンディキャップと先に書いたが、クラシック音楽を演奏する者が経済的に恵まれた存在という一般的な見方をこのドラマは全く採らない。描かれる素人演奏家たちは趣味でやっているので、本職を持ち、ごく普通の、あるいはそれ以下の経済状態として描かれる。これはかなり現実的な設定であろう。そういう素人になぜ一流の指揮者が出会い、心を通わせるようになったかが見所で、回が進むにしたがって、登場人物たち個々の生活実態が見えて来る。そして、そういう事情を抱えながら、マエはそれら全部を知り、毒舌混じりであるためにいつも誤解されながらも、彼らの願いを包容力で聞き入れる。そういう設定は昭和30年代の日本映画によくあるような感動物として使い古されたものかもしれないが、一流の指揮者とはこういうものであると納得させられるところがよい。それはすべて役者キム・ミョンミンの才能で、本物の指揮者からどれほどの指導を受けたのかと思わせられる。筆者はマエが出た他のドラマを知らないので、本物の指揮者かと今でも思うほどだ。それだけ堂に入った演技を見せる。だが、若い世代は、カン・ゴヌに見とれるだろう。これは『快刀ホン・ギルドン』に登場していたチャン・グンソクが演ずる。ルミはペ・ヨンジュンが出た『太王四神記』に出たイ・ジアが演じるが、『太王四神記』をまともに見ていなかったので、今回初めて見る。これら3人は適役だ。ルミはゴヌにもマエにも似合うタイプで、また個性的な美人であるので、ヴァイオリンを演奏する役割は似合っている。さて、全18話は少し長いように感じたが、最終回が終わった後もまだ続くとばかり思っていたのが、同じ時間に別のドラマが始まって初めて終わったのだと知った。となれば、中途半端な終わり方かと言えばそうではない。マエはベートーベンの第9交響曲をまともに演奏出来たためしがなく、それはいつも悪夢のような結果になったという設定だが、その第9が最終回で演奏されるのであるから、いやなジンクスが打ち破られて、晴れてミュンヘンに旅立つ。これは最終回にふさわしい。だが、マエとルミはどうなるのだろう。これは、マエがいつも指にはめていた指輪をルミに贈るという場面から想像されるように、いつかルミはマエのもとに行くことが暗示される。その一方でやはりふたりはそのまま別れたという見方も出来るので、見る者が自由に想像すればよい。なおその指輪はルミは以前の恋人がらみのものと思ってそれを口にするが、マエはベートーベンの生家で買ったものと言い、どこまでも音楽とともにあったマエを示す。
 書くべきことが多いので、話があちこちに飛ぶ。もう少し書こう。マエはどのようにして指揮者になったか。これも回を追うごとにわかる。また、マエとは友人同士で、ライヴァルの人気指揮者も登場し、天才的でまた世わたり上手なところを見せる。それに対し、マエはあまりに自尊心が強くて敵も多く、あるオーケストラに長い間まともに在籍したことがなく、CDの録音もほんのわずかだ。また、ゴヌは音楽大学に通わず、警察官となっているが、生まれつき絶対音感がある。努力型でゴヌのような絶対音感はないマエはそれを知り、ゴヌの才能を伸ばすために、親友のその指揮者に委ねようとする。だが、そうなればドラマは進まないので、マエの親友のその指揮者はマエとゴヌの心情を察して、ゴヌをマエのもとに戻す。そしてそれをまた暗に引き受けるマエは、もう素人集団の楽団に魅せられていたということだ。本当はそうした人間的なところがあるマエだが、言葉はいつも正確で冷徹なので、つい誤解されがちだが、そうした絶対君主的な態度は、カリスマの指揮者には不可欠なものだという一般の認識があるだろう。その代表はチェリビダッケではないだろうか。チェリは初来日して読売交響楽団を指揮した。その録音テープを所有しているが、その演奏は今までの同楽団とは思えないほどの出来栄えであった。指揮者ノカリスマ性でいかに楽団が変貌と遂げるか、それは真実だ。そして、このドラマの登場人物たちはそれを熟知している。そしてそれは結局は指揮者の信念であり、それに楽団員がほれるかどうかだ。ルミがマエに魅せられたのはそこだ。その信念は、意識してつかみ取るものであり、その「意」はどこまでも高く伸びる。それをこのドラマはマエという指揮者に投影している。そして、そういう「意」を嘲笑する者はいつの時代もいるが、そうした存在が哀れであるとみなされるところに、このドラマの香り高さがあって、脚本家と監督と俳優の思いが見事に一致している。
 さて、そうしたマエは片親で育ち、しかもとても貧しい子ども時代を過ごした。ある日、実際のオーケストラの演奏を聴き、その感激から指揮者になる努力を始める。家にピアノがないので、夜に学校で練習することを続け、そして指揮者になった。こういう話を、ドラマらしい作り事として鼻白むことはない。現実はそういう努力を重ねて大成した人がたくさんいる。また、それほどの努力を続けなければ一流にはなれないことを、マエは何度もゴヌやルミに言う。そのため、このドラマは努力が嫌いな人は面白く思わない。また、このドラマはかなり周到にそうした人に対する当てこすりの言葉も用意していて、それがまた面白い。たとえば、新しい市長が自分の立場を飾るちょっとした道具のように考えて市に交響楽団を設立し、そこにマエを指揮者として迎えるという話を切り出す。その時、マエは政治家を馬鹿にして、言いなりにはならない態度を採る。これが実に痛快だ。政治家は芸術のゲもわからない、さびしい思いで人生を歩む者として描かれる。マエは、金持ちは生涯金持ちで、貧乏人は生涯貧乏のままであり、貧乏人が持たねばならないのは、ただひとつ、自尊心だけであることを楽団員に向かって言う。これがこのドラマの最も言いたかったこととだろう。『ベートーベン・ウィルス』という題は、ベートーベンに代表されるクラシック音楽に熱病のように冒されてしまったことを言っているが、そこには揶揄が含まれていそうだが、別の読み取りも出来る。ルミの恋心に対してマエは、ホルモンの影響に過ぎないと言う。このホルモンはウィルスと同じような位置にある。ホルモンのバランスが狂って40歳の男に恋心を抱いたと言うことと、恋の病を患ったと言うことは同じことだ。だが、ルミはホルモンのバランスが狂ったのだろうか。そのバランスが元どおりになれば、きれいに恋心は失せるだろうか。そうとも言えるし、そうではないとも言える。マエは、恋とは一時のもので、それはトーベンのように忠実ではないとルミに言う。それでもなお引き下がらないルミをマエはやがて受け入れるのではないだろうか。そうなれば指揮もまた変わるかもしれない。マエは意識がかき乱されて迷惑だろうが、確固たるものと思っていたことが、恋によって変わり、別の何かを付与するのであれば、それは芸術にとってはいいことだ。音楽はそんな軌跡の奇跡の連続で豊穣になって来た。そのことをマエは気づきながらミュンヘンに飛んだという想像をする。
by uuuzen | 2011-01-15 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画


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