襖絵が中心の展覧会で、聞いたことのない画家だと思いながら、京都高島屋で9日の夕方に見た。会場に入ってすぐ、説明パネルによって、この画家が建仁寺の法堂の天井に水墨で双龍図を描いたことを思い出した。

それを初めて見た時の感想はこのブログに5年前に書いた。その時、同じ程度の技術の持ち主は京都にたくさんいると書いた。さて、今年の正月、家内の実家で9時間近く、酒をよばれながら談笑した。最初のうちに酔ったが、すぐに酔いが覚め、そうなるともういくらでも飲める感じで、9時間の間、飲み続けた。夕方にやって来た家内の姪夫婦と話をしていた時、ブログで誰かや何かのことをけなすことがありますかと質問を受けた。けなしたい対象はもともとあまり取り上げないと答えたが、案外そうでもなく、けなしている方だろう。なぜ姪夫婦はそんな質問をしたかだが、去年近江八幡に自分たちで設計して家を建て、それに関してブログを書き始めたことがわかった。そのブログを彼らが持参して来たノート・パソコンでちらりと見せてもらったが、2、3日後、10分ほど検索するとそのブログに行き当たった。そしてその日でほとんど全部読んだが、さすがに品がよい。書いているのは姪ではなく、旦那さんの方だ。いかにも人柄がよく現われていて、その内容もさることながら、文章から立ち上る人柄に、自分のブログの下品さを思った。そして、筆者に質問した意味がわかった。それは家の設計段階から電化製品を買い揃えることまで事細かに報告している中、トイレの何度もの詰りや、床掃除ロボットの初期不良など、アクシデントに遭遇しながら、それらをどう解決したかを書くのに、決して売り手を責めたり、また商品をけなしていないことだ。それはなかなか出来ることではない。30代前半の若い夫婦が、自分たちの力だけで家庭菜園つきの大きな平屋を注文して建てることは並大抵なことではないが、その労苦を楽しみ、同じように家を注文で建てる人のためになればとの思いでブログに報告することは、大いに意義がある。筆者のこうした放言のし放題とは違って、まさに役に立つという感じがする。それはいいとして、ふたりは本当は初期不良の製品を買って、しかも売り手の対応が悪ければ悪態をつきたいだろうが、誰が読むかわからないブログを思えば、誰かを責めることは極力しないでおこうという考えなのだ。それが大人というものであり、その点筆者はまるで子どもだなと自覚してしまう。また、ブログで誰かをけなすことがありますかという質問で、筆者が思い出したのは、たとえば阪急電車の改札口にいる係員の対応や、あるいは今日取り上げる小泉画伯に対する評価だ。
書いていて思い出した。建仁寺の双龍図は『ディーター・ラムス展』を見に行った時に初めて見た。同図は間近で見ることは出来ないし、また堂内は薄暗いのでなおさら細部はよくわからない。筆者が氏の作品をあまり上手でないと評価したのは、寺の売店に置いてあった画集を見てのことだ。牡丹の図などの水墨画が載っていたが、感心しなかった。今回は間近で作品をたくさん見ることが出来たが、画集を見た時と同じ思いを抱いた。であるので、本当はここで取り上げるべきではないだろう。書くべきネタに困っているわけではないので、無視してもいいが、氏は今年87歳を迎える長命で、しかも今回は副題に「平城遷都1300年 光明項号1250年御遠忌 東大寺本坊襖絵完成記念」という長くて重みのある内容を持ち、筆者ごときが感心しなかったと書いたところで、誰もそれを信用しない。それどころか、お前の目が悪いだけと言われるのが落ちだ。つまり、高名な画家について書く場合は、適当にほめておいた方が、見る目があると思われる。そして、世の中にはそんなものばかりが目立つ。今回感じたことは、元来この画家は達者な技術の持ち主では決してなく、きわめて平凡で、画家にならなかった方がよかったということだ。だが、そういう人であるだけに、達者な技術の持ち主とは違った味わいを表現することが出来る。そこに何か絵画のよさめいたものがあることは確かだ。そのことをたとえば李朝の民画に見る。昨日と一昨日は高麗美術館について書いたので、それで今日はこの画家について取り上げる気であったと言っても、全く嘘にはならない。だが、李朝民画とこの画家の作は違う。どちらがいいいかと個人的な好みを言えば前者で、その意味からすればこの画家の作は、技術的には全く下手くそな李朝民画以下ということになる。なぜ、李朝民画を思い出したかと言えば、会場で説明書きがあり、また10分ほどのビデオの上映を見たところ、襖絵に落款を入れなかったことを知ったからだ。それは李朝民画と共通するし、氏自身も自己主張をするよりも、無心にただ絵を描いただけであることを終始自覚した。だが、80歳代の画家とはそんな境地になるのではないだろうか。それに落款を入れずとも、こうした展覧会によって、描いた襖絵が氏の作であることは確実に歴史に記憶される。であるので、本当に無名性を主張するのであれば、取材を一切拒否し、非公開で描き、自分が描いたことを明らかにしないことだ。それが現代では困難なことはわかるが、結局「小泉淳作展」と銘打って展覧会が巡回するのであるから、落款を入れなかったことなどどうでもいいこととして忘れ去られるのではないか。
今回知ったが、氏の師は山本丘人で、平山郁夫が同期だそうだ。また氏は40歳頃に在野となり、50代までほとんど無名であったのが、水墨画を描くようになってから注目され始め、そして建仁寺の天井絵の仕事が舞い込んだ。今回の仕事はそのつながりで依頼を受けた。また、禅寺に水墨画はよく似合っていたが、今回は華厳宗の東大寺であるので、別当からは華々しい雰囲気で描いてほしいと言われ、着色画にしたとのことだ。そして今回はこの5年の間に描いた新作ばかりではなく、過去の作もそれなりに出品された。それは師の影響を感じさせるもので、特に山をパノラマ風に描いた作がいいと思った。だが、そうした画題のすべての作がいいとは思わない。また、大根や蕪などを写実的に水墨で描いた作品は、銅版画の質感を思わせ、重厚感はあるが、小松均のような仙人めいた味わいはない。よく言えば朴訥、悪く言えば学生の卒業製作程度の一種の未熟さを思う。だが、それこそが氏の持ち味と思えばいいのだろう。そして、それを好む人はいるだろう。そういう朴訥、未熟さがあったからこそ、50代までほとんど無名であったことが納得出来る。比較しては何だが、平山郁夫のあまりに達者な素描の技術とは開きがあり過ぎる。だが、平山が死に、現存の同世代の画家ではただひとりと言ってよいほどの存在となったからには、小泉に光が当たる番だ。話を少し戻すと、今から20数年ほど前の山を描いた風景画にはいいと思うものがあったが、東大寺のために描いた襖絵は老齢による衰えのようなものを感じずにはおれなかった。これがもう20年前に手がけられていたならばどうであったか。だが、これも見方を変えれば、80代でこうした大画面の襖絵をこなしたとことは体力的には感嘆すべきだろう。それはそういう年齢に達していない筆者には想像を超えている。だが、出来上がった絵は、描かれた年齢や時代とは関係なしに鑑賞される。それを思えば画家にも定年があると言える。もちろんそれがないかのように進化し続ける者もあるが、概して年齢の壁は立ちはだかる。そして、その表現されたものには、どうしても無理が出て来る。

筆者が評価しないのは、去年完成した「蓮池」と題する襖絵だ。これは全部で20面近い超横長の画面に、4種の蓮を描いている。だが、4種が明確に描き分けられていることはほとんどわからない。氏は自分の画風を写実と呼んでいるが、この作品は花はそこそこ写実だが、葉はすっかり様式化し、またどれも単純で手抜きを思う。あえて平面的な処理を目ろんだのだろうが、葉の周囲の白茶によるぼかしや、葉の中央部と外辺部の境界のぼかしがさっぱり自然ではなく、まるで児童が描いたかのように見える。はっきりと言えば、さっぱり美しくなく、感動がない。あまりの大画面を前にして、完成を急ぐあまり、また体力的なことが原因で、構図も彩色も手抜きをしてしまった感が拭えない。そしてこの襖絵が無落款というのは納得が行く。それは見方によれば李朝民画と変わらないからでもある。チケットやチラシに採用されたのは桜を描いた襖絵だ。これは奈良に因む3種の桜を画題にしたという。小さな花弁を1枚ずつ彩色したことが宣伝文句として使われていたし、氏もそれを口にしていたが、その努力は買うとしても、それは桜を描くとすればごくあたりまえのことで、賞賛するほどのことでもない。手間は非常にかかるが、それだけが見所の作品で、やはり退屈であった。氏は桜を初めて手がけたそうだ。それは桜を描くと売れるので、売り絵は描きたくなかったからだそうだが、売り絵を描かずとも生活出来るのであればそれは恵まれた身分だろう。売り絵であろうが占絵であろうが、作品が人に感動を与えればそれでいいのであって、売れる桜を描かなかったという態度が、結局売れる画家のネタになったのではと思わせられもする。また、桜を描くのと牡丹を描くのとではどれほど差があるだろう。桜を描いて売れ、牡丹を描いて売れないことはまずなく、氏がよく牡丹を描く行為は説明がつかない気がする。ともかく、桜は牡丹より描きにくい。それは花が5弁であまりに文様化して人々の意識の中にあるからで、画家としては実験がしにくい。したとしてもほとんど成功しない。それで桜は幹や枝の形が勝負ということになり、それが牡丹図のように小品にも大作にも応用が利く画題ではない。
襖絵の最後は、天皇など高貴な人が用いる部屋に飾るもので、その床の間用に光明皇后と聖武天皇が対幅として描かれた。そして襖絵は、創建当時の東大寺の想像図の上空に虹がかかり、天女が舞う図や鳳凰が描かれたが、天女の翻す布はああまりにぎこちなく、また虹も取ってつけたような不自然さだ。鳳凰は東大寺の四天王像の鎧から写されたが、こうした文様を襖絵に展開するにはかなり無理がある。光明皇后と聖武天皇の肖像画は、衣装などの時代考証を行ない、またモデルにそれを着せて写生した下絵をもとに描いたもので、襖絵以上に入念な作と言ってよい。聖武天皇像は平安や鎌倉時代に描かれたものが残っていて、今回はそれを参考に顔の表情が作られたと思うが、どこかの中小企業の社長のような顔つきで、天皇らしい品がない。また赤い衣服の龍の文様は、手足の指の描き方がとても拙い。いくら当時の織物の技術であっても、このような表現であったとは思えない。光明皇后の肖像は残っていないので、今回は天皇と対になるように初めて描かれたが、天皇とは違って立像であるため、同じ高さの掛軸の中に姿を収めると、天皇よりかなり小さくなって、対幅としては違和感がある。また、皇后の顔は唐時代の美人に倣ってふくよかに描かれたが、これも天皇とは釣り合っていない。無理に夫婦と思えば思えなくもないが、一見したところ、時代も境遇も全然別の人同士だ。会場の最初のコーナーに、1984年に描かれた東大寺の別当であった清水公照の肖像画があった。亡くなる10数年前のもので、どういう経緯で描かれたのかは知らないが、これは全体に古色がかった表現であるためもあって、公照の人柄を示し、また印象深い作品と言える。それでも公照の作品を知る者からすれば不満が残る。顔が似ていても、どこか公照とは違う。
さて、かなり酷評を書いた。となれば自分はどんな日本画が好きなのだろうと自問する番だ。最初に技術的に「達者」という言葉を使った。これは具体的にどんな絵や画家を意味するかだ。たとえば筆が自在に動き、大画面でもやすやすと描いてしまった画家に川端龍子がいる。その絵を好まない日本画家の知り合いがいるが、その理由は詳しく説明を受けずとも何となくわかる。あまりに達者で心がこもっていないというのだ。このように、絵は技術が素晴らしくてもよいものになるとは限らない。つまるところ人柄で、絵を通してその人格を見る。だが、人格がよくていい絵が描けるという単純なことを考えるのも大間違いだ。それに人格がいいとはどういうことか。いいとか悪いとかは何で決めることが出来るか。そこで逃げるわけではないが、李朝の民画には、うまいのかへたなのかわからない技術を持ったものがたまにある。素朴な旅回りの絵師には違いないとしても、本当は素晴らしく達者な技術で描くことが出来るのに、あえてそれを示さずへたに崩して描くという場合だろうか。そうでもない気がする。それに、達者な技術の者がへたを装えばいやみがつき物となるのに、それもない。この不思議さを筆者は解明出来ないでいる。そうした作品は絵画には限らず、李朝の焼き物にもよく見られる。その魅力に囚われながら、それにはどうしても辿り着けないものを感じて、嫉妬すら起きるが、それは時代のせいだけだろうか。そして、そういう過去の作品における筆者にとっての未知なる魅力が、現在の日本画家にも何らかの形で存在している可能性を思う。それこそが小泉と言うつもりはないが、山本丘人に学んだことを知ると、そこからまた考え直す必要も思う。丘人も決して達者な技術ではなかったが、そのことを全く問題にしない独特の境地にあった。絵とは技術的な達者云々を超えたものだ。