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●『高麗美術館コレクション名品展 朝鮮の美術工芸』
は朝鮮半島にいつまでいたのだろう。虎は李朝の民画に頻繁に登場し、それもあって寅の年であった去年の正月明けの1か月ほどは、日本の画家が李朝民画に影響を受けて描いたと思われる作品と、李朝民画の双方を展示する企画展が高麗美術館であった。



去年のクリスマス直前の23日、ネット・オークションで落札した品物を出品者から手わたしでもらうために、京都の北区に出かけた。その出品者から落札するのは三度目だ。いつも家に行って直接受け取るが、話をよく交わし、いろんな情報を得る。それが楽しいのでまたいつか落札出来ればと思うが、その人の出品物をいつもにらんでいるのでは全くない。キーワードで検索してたくさんの出品物を見ていると、たまたま気に入ったものがあって、それを競り合って落札すると、出品者は見覚えのあるIDだ。そこで思い出し、手わたしで受け取ることを申し出る。送ってもらった方がよけいな時間も費やさずに済み、また安いかもしれないが、出かける用事を作って、どちらがついでかわからないが、品物を受け取る。筆者は出来ればすべてそうして受け取りたいので、出品者がわが家から5、6キロ以内、バスで行くことが出来るならば、ほとんど手わたしで受け取ることにしている。それを申し出て断わられたことは一、二度ある程度で、たいていは承諾してもらえる。先月23日に会った出品者は、筆者より10数歳年少で趣味半分で美術骨董商をしている。筆者とは興味のある分野が重なるところが割合にあって、ついでにいろんなものを見せてもらう。23日は面白い作があった。それをネタに話があちこち広がった。それをオークションに出品するのかと訊ねると、せり市で買った値段に数千円足した価格で売ってもいいと言う。次に会う機会があれば買ってもいいと思っている。ある日本画家の絵で、その名を知る人はほとんどいない。とてもいい絵で、そうしたものが京都のせり市では安く入手出来るそうだ。また、そうした掛軸は、今は好きな人がごく限られ、充分手が届く価格になっているので、いい時代だとその人は言っていた。明治時代は、今のように豪華な腕時計や車といった、金持ちがすぐに買いたがるものがまだなく、社会的身分を示すものは主に美術品や茶道具であった。そのため、当時はいい画家がたくさん生まれ、その作品は、今でいう貴金属や高級車ほどの価格で売買された。つまり、宝であった。その宝が今では二束三文とまでは言わないが、当時に比べると信じられないほど安価で入手出来る。もちろん今でも宝のように高価な作品はあるが、当時は有名であったのに、今や忘れ去られたに等しい作家は多い。そして、そういう中に現代の目から見て面白い作が時としてある。作品は描かれた時と同じなのに、価格が高騰したり下落したり、美術品は不安定な宝だ。その点、金ののべ棒でも持っていると安心と言って、それを少しずつ買い集めるのが好きな人が、筆者の知り合いにいる。
●『高麗美術館コレクション名品展 朝鮮の美術工芸』_d0053294_0182295.jpg

 23日は図書館と府立総合資料館にも行き、また古本屋にも立ち寄り、結局その出品者の家から徒歩10分ほどの母の家には行かなかった。用事をたくさん作り過ぎると、いつでも会えると思っているものは後回しになる。さて、その出品者に会う直前に高麗美術館に行った。この美術館については5年前にこのカテゴリーに書いた。だが、今回はカメラを持参したので外観を示す。企画展は館蔵品を総花的に見せるもので筆者には珍しい作はなかったが、子どもを対象にしたクイズ用紙を置くなど、初めて訪れる若い人に関心を持ってもらうことを意識した展示であった。また、これは歴史の授業で見たことが誰しもあるが、それでいてさっぱり記憶していない朝鮮のおおまかな年表があった。それはこの美術館が高句麗の発掘品まで所蔵しているからで、小さな美術館であっても、視野はかなり広い。また、高句麗と高麗がどう違うということもわかりやすく説明されていて、韓国ドラマを見るうえではかなり役立つ美術館とも言える。その関連で驚いたのは、ホジュン(許浚)の『東医宝鑑』の4冊が展示されていたことだ。いつ頃の刷りか知らないが、ドラマの『ホジュン』人気前に購入されたものだろうか。さて、5年前とはだぶらない話をしたい。この美術館の創設者である鄭詔文氏の生前のインタヴューが、2階展示室のTVで放映されていた。京都の美術骨董商が自分の先生だと語っていたことが印象に残った。商売で儲けたお金で骨董商巡りをし、そして少しずつ館蔵品となるものを買い集めて行ったのだ。高麗美術館が出来て20周年記念の図録が、鄭氏のインタヴューを映すTVの前のテーブルにあった。それをあちこち読んでいると、鄭氏はそれらの作品を、どこにあろうと朝鮮の宝と思って喜んでいたとあった。先に書いたように、今の大金持ち(成り金という意味だが)はだいたいは下品であるから、金ののべ棒を集めた方が楽しいと考えるか、貴金属か高級車を買って身分を見せびらかす。そして家には絵画の1枚もないといった状態だが、こういう貧困な金持ち像はいつから増えて来たのだろう。戦後であることは間違いがない。美術品が宝という思いが著しく減退し、一方で美術品を貴金属や高級車並みに、つまり美よりも金の尺度で考えるようになっている。明治時代でもそういうところはあったが、名品は金に代えられない何かを秘めていて、その意味がわかる人はまだ多かったのではないだろうか。鄭氏は50歳になった頃か、弟に仕事を委ねて自分は朝鮮の美術品を買い集め始めた。そこにはいつまでも金儲けだけに専念していても仕方がないという一種のあせりがあった。同じような商売で同じように金持ちになっている在日朝鮮、韓国人は京都市内だけでも鄭氏の何百倍もいるはずだが、鄭氏のような思いを抱いている人がどれだけあるだろう。貴金属や高級車も宝であることには変わりがないとしても、それらを集めて美術館を持つことが出来るだろうか。また仮に出来たとして、意義深いだろうか。20周年記念の図録は初めて見たが、岡本太郎や八木一夫など、そうそうたる有名人が文章を寄せていることに今さらに驚いた。鄭氏の収集心はそうした日本の文化人に感銘を与えたのだ。それは美術に関心のない人には何の価値もないことだろうが、日本の国宝、あるいは他の国でいいが、後世に伝えて行くべき宝というのは、金ののべ棒や貴金属、高級車ではないことは確かだ。そして、美術品の宝は、自分の目が見定めるものであって、店で値札がつき、ほかの店でも同じものが同じ価格で売られているというものではない。金儲けとは別の能力が必要なのだ。
 鄭氏はきっと憑かれたように次々と買いまくったであろう。そしてそれらの品物は自分が亡くなった後も長年残って行くことを知っていた。自分が見つけて買った宝は、何百年も前に無名の職人が作ったもので、それがどういう縁の巡り合わせか自分の手元にやって来た。そして、せいぜい20年か30年を一緒に過ごす。それは作品の年齢からすればごく短い。自分が手元に置かねば誰かの手元にある。そう思えば自分が集めなくてもいいと言えるが、自分が集めたものはそのままの形で長年伝わって人に見てもらいたいと考えるのは自然なことだ。作品はどこにあっても宝であるから、自分の没後にまた散らばってしまうこともまたよしとせねばならない。だが、美術館を建ててそこで展示を始めたのであれば、自分より若い世代が安心していつまでも同じ場所で同じように見たいと思う望みに沿おうとするのは、ひとつの義務でもあろう。それに、あるテーマを決めてたくさんの作品を集めたのであれば、それらがまとまった形で1か所に保存されることは、鑑賞者にとっては好ましい。たくさん集まればまた新たに見えて来ることが多くなるからだ。だが、所蔵品を増やし続けることも必要であろうし、鄭氏の没後、それがどうなっているのだろう。新館蔵品展と銘打ったものがあった記憶がなく、その点はさびしい。館内には賛助会員を募集する貼り紙があった。堂本印象美術館が府の所有になったように、個人が建てた美術館は存続が難しい。この美術館は今も弟さん、あるいは親族が同じように商売を続けて、その売り上げを回すということで持ちこたえているのであろう。1日に多くても数十人といった入場者のはずだが、その程度では係員ひとりの日当も出ない。そういう中、それなりに面白い企画展を続けるのは特筆に値する。最近の企画展に、絵はがきで見る戦前の朝鮮というのがあった。ネット・オークションではそうした絵はがきがよく出品され、朝鮮のコレクターが落札することも目にする。20周年記念の図録のかたわらにその絵はがき展の図録があった。予想どおりと言おうか、日本人の中にそうした朝鮮の絵はがきを徹底的に収集している人があって、ほとんど網羅され尽しているようであった。そうした絵はがきは、印刷の面からも見所があるが、何といっても昔の風俗がよくわかることが興味深い。絵はがきでしかわからない風景、光景があるのだ。京城のどこかの門を撮影した絵はがきがあって、その門の手前、道のかたわらに巨大な虎のような石像がある。その石像の頭に少年が立ってこちらを見ている。カメラの撮影が珍しかったのだ。そののんびりとした光景は、今のソウルではどこにもない。また、子どもがそんな高い石像の上に立つものならば、警官が飛んで来るだろう。どうでもいいような些細な部分が印象に残ることがある。絵はがきにはそんな面白さが詰まっている。そうした絵はがきは案外朝鮮には残っておらず、現地から日本に送られたものが収集の対象になっている。そうした古い絵はがきに注目してこの美術館が展覧会を開催することは、新たな段階に入ったことを示しているように思える。日本との関わりの点でも、まだいくらでも企画展の切り口があるということだ。ただし、そうした企画展は誰かのコレクションを借りて来る必要がある。それには理解を得ることが必要で、それがどこまで可能かだ。
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 寅年の企画展は干支に因めば毎年動物を変えて開催出来るように感ずるが、虎というのが最大の朝鮮らしさであるから、12年に1回となる。明治時代は今の京都国立博物館で毎年干支に因む企画展が開催されたので、この趣向は目新しくはないが、そんな昔のことを記憶している人はいない。それに、チラシの表に大きく印刷された虎図は、同美術館からはさほど遠くない正伝寺所蔵で、若冲が模写してことで有名になった作だ。つまり、若冲ブームにつながった形で、虎を画題とする日本画家の絵と李朝の民画を並べるという発想があったのだろう。だが、正伝寺の虎図は昔は中国の名画と言われていたものが、近年の研究で朝鮮のものとされるようになり、日本の虎図の元祖は中国絵画ではなく、李朝民画という見方に修正されつつある。それを確認するための企画展でもあった。一昨年の秋、石峰寺の住持から、「高麗何とかという美術館から若冲の虎図を借りたいと言って来ているが、MIHO MUSEUMや静岡の美術館に貸し出すの貸し出さない」と耳にした。だが、帰宅して調べると会期のだぶりがない。それで筆者は住持に連絡して、高麗美術館に貸し出すことを提案した。その後、住持に会うことがあったが、この件について問い正さなかった。住持は高麗美術館の存在を知らず、またどういう意味の企画展かも理解しなかったのだと思うが、そういう状態では貸し出すことはまずない。それに一旦断わったのに、後から貸しますと伝えても、もう遅かったのかもしれない。そして先月23日、ようやくその虎の企画展の図録をソファに座って見ることが出来た。光琳の作も出ていて、なかなか壮観であったようだ。惜しいのはそこに石峰寺の虎図がなかったことだ。若冲の虎図は石峰寺のもの以外、もう1点相国寺が所蔵する。正伝寺の虎図を水墨に置き換えた作で、これは出品された。また、着色による模写はアメリカのジョー・プライス氏が所有しているが、高麗美術館の規模ではこれを借りることはまず不可能だろう。そのほかの若冲の虎図は見つかっていない。石峰寺の虎図は、直接あるいは間接に李朝民画をもとにした作であることは明白で、その意味で石峰寺が貸し出せば、同展の図録はもっと充実したものになった。その機会は次の寅年に待つ必要がある。ただし高麗美術館が同じ内容の企画展を12年後に開催するとは思えない。機会の神は前髪はあるが、後ろ頭は禿げているという西洋の諺を思い出す。写真を3枚掲げておくが、玄関扉の左手地面に面白い造形の虎のような動物がある。こうしたものをわが家の裏庭にほしいと思う。この美術館は石像を多く所蔵し、本館向いの研究所の建物の前にもいくつか置かれている。
●『高麗美術館コレクション名品展 朝鮮の美術工芸』_d0053294_018482.jpg

by uuuzen | 2011-01-12 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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