六甲アイランドまでわざわざ出かけたからには、なるべくたくさん見るものがあった方がよい。神戸ゆかりの美術館はファッション美術館と同じフロアの玄関を入って左手にある。
ファッション美術館を見る前にこの小出卓二展を見た。フォコンの写真は知っているが、小出の名前も作品も知らなかったからだ。そのため、本当の目的は小出の作品を見ることにあった。この展覧会のチラシの表側の印刷されている作品は赤が強く、最初は表現主義を標榜した画家かと思った。この絵は「百万弗の夜景」と題して、神戸の街を見下ろしたものだが、画面の下3分の1を占める山塊は、あまりそうとは見えず、あまり成功しているとは言えない。それで、展覧会は見るほどではないと思っていたが、TVでわずかに紹介があって、見る価値があると判断した。こうした洋画家の作品は小磯記念美術館で開催されるのが常と思っていたのに、案外そうでもなく、神戸の風景を描くなりして神戸にゆかりのある作家はここで個展が開催されることがわかる。今までにどういう画家が取り上げられたのか知らないが、こういう企画は大歓迎だ。全く知らなかった画家の作品をある程度まとめて見ることは、ゴッホやピカソといった、毎年個人展が開催されるような巨匠とは違って、とても新鮮だ。未知の作家の作品に触れることは、自分の視野が予想がつかない形で広がることで、それはほかにたとえられない楽しみだ。個人展は、当の画家が生きている時は会場を借りて行なわれるのが常だが、それは新作展である場合が多く、同じような傾向の作品が並びやすい。そしてそのことによって、鑑賞者はその画家を表現の幅が狭いと、低く見積もってしまいがちだ。また、生きている間に初期から現在までの作品を並べる回顧展が開かれるのは、かなり有名な作家に限られ、その数年後に亡くなるとまた大規模展が開催される場合がよくある。そうした画家は歴史に残る大家がほとんどで、画集も作られるなど、作品に接する機会は多い。ところが、そこまでには到達しないが、いい絵を描いた画家はその何倍も存在する。そういう画家が没後に回顧展を開いてもらえるのは幸運だ。ゆかりの美術館という大きな展示場を持つ神戸は、神戸の宣伝にもなる意味から、神戸に因む画家に注目し、顕彰もする。それはある程度どの県でもそうだろうが、神戸、兵庫生まれにこだわらず、他府県人であっても神戸に因む作品を残したことを条件にするのはよい。そういう優遇策を画家が目の当たりにすると、製作の意欲も一段と高まる。自分の描いた絵が公的機関に収蔵され、しかも展覧会まで開いてもらえることは、画家にとっては最高の讃辞に等しい。そのためには、存命中にある団体に所属し、その役員になるなど、それなりに存在を示している必要があるが、そうした政治力とは別に、やはり作品が魅力的であらねばならず、小出卓二はそれに該当したということだ。
小出は1903年に大阪の天王寺に生まれ、1978年に亡くなった。会場で知ったが、60歳頃に脳梗塞で左半身が不随になり、妻の助けを借りながら右手だけで描いた。10数年後に同じ病が再発し、それが原因で亡くなった。また、初期は人物画を描いていたが、60年代からは風景画に転じた。金沢の大学を出た後、大阪の信濃橋洋画研究所で小出楢重に師事した。同じ小出姓だが、血縁関係はない。1945年に向井潤吉らと行動美術展を結成、亡くなる直前の1977年まで同展に出品した。ついでに書いておくと、向井潤吉は七彩工芸の初代社長向井良吉の兄で、同社を命名した。それは1946年のことだ。そして同社の最初のマネキンを作ったのが向井良吉で、小出はそうしたことをよく知っていたに違いない。その頃の小出の人物画は、どこかマネキンじみた感じがある。先に書いたように、最初に小出展を見たから、その時にはフォコンのマネキン展示の存在を知らなかったが、小出の1940年代の人物画は、別々にデッサンした人物像を組み合わせたという印象が強い。今なら人物を好みの構図に並べて写真を撮り、それを元に描く画家が少なくないだろうが、小出はそうはしていないに違いない。それぞれの人物はよく描けているが、その組み合わせ具合がどこか人工的で一体感がない。あえてそういう表現を好んだためか、あるいは思いとは裏腹にそうなったのかはわからない。たとえば42年製作の「渡船場」がある。画面上半分に6名が横に並び、下半分の川面に鏡像として写る。4人が日傘を差し、画面には描かれない強い陽射しが暗示され、洋画家としての光の捉え方に優れたものがある。また、水面を描くことは、後年の港を描いた風景画の先駆で、その意味でも興味深い。この横長の作品は、見知らぬ者同士がマネキン人形のようと言えばよいか、みな空々しく孤独であるかのようだ。46年製作の「にわか雨」という作品は戦災孤児を画題にしている。地面が濡れている様子をうまく表現し、人物の影が地面に落ちている点は「渡船場」に通じる。戦災孤児を画題にしながら、悲壮感は伝わらないが、孤児を描く点に小出の孤独があるように思える。だが、この孤児の群像は「渡船場」ほどよそよそしくない。この群像の方向に小出はなぜ進まなかったのだろう。ひとつ言えることは、そうした絵では売れないからではないか。展覧会用に描くのは実験的な意欲作と決まっているが、そうした大作だけでは食べて行くことはなかなか出来ない。年に数回のそうした大作とは別に、家庭に飾る、もっと小さな8号程度のものを量産しなければファンもつきにくい。そして、そうした作品は人物より風景が好まれる。
小出の経済状態がどのようであったかは知らない。だが、絵具で最も高価な赤を多用しているところ、作品がある程度次々と売れなければ生活は困難ではなかったか。また、小出は神戸や大阪の港を中心に日本各地に取材し、そうした旅費も捻出する必要があった。会場には展示されていなかったが、小出はヨーロッパにも取材に行き、画題として用いている。好きな絵を描きながら、そうした取材旅行も出来るとはうらやましい限りだが、ある程度の有名画家となればそれが普通か。「渡船場」や「にわか雨」と違って、小出の絵ががらりと変化し、また小出らしい特徴が出て来るのは60年代からだ。色彩が鮮やかになり、赤が目立つようになる。小出は、赤は最も扱いにくい色で、その赤を使いこなせるようになることを目ろんだ。だが、そういう造形的な挑戦の思い以外に、やはり夕焼け、あるいは朝焼けが好きであったのだろう。筆者がTVで見て、これはいい展覧会だなと思ったのは、69年の「淀川風景」だ。画面左下隅に突堤があり、そこに3人の立像とひとりの坐像の背面が描かれる。彼らは夕日を浴びて黒々としているが、3人とは離れている坐像のひとりはいかにも孤独で、そのまま海に飛び込む気配すらある。そして、こらら4人もどこかマネキン人形じみている。それは作品を様式化したための結果だが、そのように様式化することを好んだところに小出の特徴がある。画面上端にわずかに緑色が覗く。これは現実にはあり得ない空の色だが、赤の補色として採用したものだ。そこにも形とともに色の計算がある。夕焼けがこれほど強烈な赤になることはないが、そこまで思い切った、また平面的な処理をしたのは、60年代という時代の影響が大きいだろう。カラーTVやカラー印刷があたりまえになり、人々の色彩感覚はどぎついものに平気となった時代で、小出はそれに添った。これは売れる絵をという思いではなく、小出自身が時代に応じて脱皮したからだ。そういう柔軟さは大阪生まれの反映ではないだろうか。筆者がこの「淀川風景」に引きつけられたのは、人物がベン・シャーンが描くようなグラフィック・デザイン風であり、また作品全体もどこかポスターのようなところがあるである一方、粘り気のある絵具をグイグイと塗り込めている触覚的快感だ。油彩画の楽しみは、油絵具の質感を味わうところにある。、それは描く者にとっても、また見る者にとってもそうだ。その点で小出は絵具の扱いが実に手慣れている。そして、そうした技法は、同じ調子で突き進みやすいが、小出はマティエールの変化を求め続けたようで、「淀川風景」に典型的に見られる筆さばきがその後も同じ調子で見られるとは限らない。
それは画題についても言える。牡丹の花を描いた作品が何点か出ていた。日本画で馴染みの画題をあえて油絵で描く思いに至ったのはなぜだろう。それは水辺を描く作品とは相容れないものように感じるが、そうした花の画題が水辺の作品のように質が高くないかと言えばそうではない。やはり小出のタッチというものが歴然とあり、あえてそうした具象画を描こうという意欲があったのだろう。具象と書いたが、それは「淀川風景」が抽象じみていることとの対比においてで、小出の作品は半具象、半抽象とでも言うべき様相を呈している。そこは日本の茅葺き屋根の民家を写真のように写実的に描き続けた向井潤吉とはかなり違う。また、具象に即しながら、形態を省略し、色彩においてどちらかと言えば豊穣を求めた小出は、日本の装飾的な絵画の伝統につながっている。つまり、日本の伝統的なものに着目している点で向井とは通じている。また、小出は大阪や神戸の湾岸の風景を好んだが、卑近な風景に愛着を持った点は、日本的な油彩画を考え続けたためと受け留めることが出来るが、そうした場所に個人的に思い入れがあったという理由が大きいだろう。また、向井が失われて行く民家を画題にしたことに比べ、小出は積極的に新しい建築物のある風景を好み、時代の変化に添うことを恐れなかった。その挑戦の態度は、向井の定形化した作品より魅力がある。何と言っても赤を使った作品が小出の売りで、そうした作品の小品をひとつほしいと思ったくらいだが、そこには自分も同じように油彩画を描いて過ごしたいという思いが多分に反映している。そう思わせる画家は成功したと言えるだろう。描くことの楽しみを示している作品はそれだけで価値がある。筆者が最も驚いた作品は最後に展示してあった2点だ。絶筆となったもので、尻無川を描く。チラシの裏面には6点の図版が掲載されるが、その一番下の作品はその片方だ。図版ではさっぱり味わいに乏しいが、実物は絵具の扱いが最高度に手慣れ、また今までにない多色を用いて豪華だ。それは日本の料紙に似ている。画面中央に川面が描かれ、それが光っている。その明るさはどこかさびしく、懐かしい。空はいつものように真っ赤ではないが、暖色が織物のように綾になっているのが、川面の光とあいまって胸騒ぎを生じさせる。空の雲の描き方は地面の草や土と通じていて、船や川面がなければ完全な抽象画と言ってよい。小出はこれを簡単なスケッチをもとに描いたそうで、心の中の映像を描いたことになる。つまり、尻無川でなくてもかまわない。最後にこうした美しい絵を描いたところに、小出の画家としての幸福な結末を思う。また、この日本的な美を持つ風景画がその後どのように発展したかを思えば、亡くなったことが惜しまれる。だが、それを言えば小出楢重もそうであり、どんな画家でも生涯の間に出来る限りのことはしているものだ。