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●『女神たちの肖像 ファッション写真展 モードと女性美の軌跡』
先の形が違っている。今回の展覧会のチラシは同じ女性が同じ格好で三重に写っているが、よく見ると左端の一番鮮明な姿は指が少し開いている。それが蕾が開いたようでいい。



●『女神たちの肖像 ファッション写真展 モードと女性美の軌跡』_d0053294_08884.jpg1948年の撮影で、モデルはレスリー・ピーターセンという女性だ。女優だろうか。綴りはLeslie Petersenと思うが、検索してもこれだという画像が出て来ない。一方、カメラマンはアーウィン・ブルーメンフェルドで、これはどう考えてもErwin Blumenfeldで、検索すると他の興味深い写真を何枚も見ることが出来る。その中にヒトラーを髑髏と合成した写真があって、ほとんどオットー・ディックスの絵のようで、ブルーメンフェルドはジョン・ハートフィールドの影響を部分的に受けていると思わせられる。だが、もっぱら女性を撮影したようで、ファッション写真の分野で名を馳せたのだろう。この写真家は今回初めて知った。それだけ筆者は写真には詳しくないことを示している。ブルーメンフェルドのこの写真がチラシに選ばれたのは、展覧会のタイトルにふさわしく、またあまり知られていないからではないだろうか。この企画展の写真は、フランスのファッション・デザイナーのドレスなどがマネキン人形に着せられていくつも立つ部屋、すなわちベーシック展示の壁面が主に利用された。ややせせこましい印象があったが、写真はどれも比較的小さな寸法なので、版画を見るような思いがあった。実際カメラマンは自分で写真を焼き、サインを書き入れるなどそて限定枚数を作ったのだろう。ブルーメンフェルドの写真はほかに、規則正しい文様で凹凸のついたガラス越しに女性を撮った2、3点が出品されていて、ヒトラーと髑髏を合成するような、いわゆる絵画的な写真を追求したことがわかる。そうした分野はマン・レイに前例があるとも言えるが、ブルーメンフェルドはもう少し現在に近い印象がある。それはカラー写真であることや、そのシックな色合い、また写っている女性の全体的な雰囲気からだ。写真は撮影された年代をよく刻印する。特に女性を写すと、その髪型や衣装、化粧方法などから、ほとんど正確に撮影年代がわかるのではないだろうか。それは有名なプロ・カメラマンが撮った時代を画する有名な写真が基準になるが、一般の女性も即座にそうした流行に反応してファッションを真似るから、よほど時代後れの田舎に住み、また流行に関心のない女性でない限り、素人が撮るスナップ・写真でも時代性を記す。そう思ってチラシに印刷される「三重写しになったレスリー・ピーターセン」をもう一度見ると、戦後間もない頃の雰囲気を感じつつ、どこかギリシア神殿のカリアティードを模したような女性像の配列に、形式美を重んずる古典主義が垣間見える。つまり、時代を超えて新しい感覚がある。今回の企画展は、女性を撮った写真を並べ、それがファッションとは無縁でないことを示そうというもので、先に書いたように、女性を撮った写真はファッションと不即不離の関係にあって、こういう写真展を神戸ファッション美術館が開催することの意味は大きく、ファッションが写真の一部を大きく担っているという意識がそこにはある。
 「モードと女性美の軌跡」という副題はまさに内容にぴたりだが、「モード」という言葉の意味はどう解釈するべきか。これには「流行」や「様式」という意味があるが、「流行」と言ってしまえばやや軽い。また「様式」と言えば逆難解に思われる。それで昔から「モード」は日本語化してそのまま使用されるが、哲学者が一方でこの言葉を使うこともあって、ファッションの分野で言うモードは「流行」と「様式」を合わせ持ったもの以上の響きがある。これは筆者の思い込みかもしれないが、「モダン」と「モード」は近い語感であるため、「モダニズム」という言葉が使われた時代には「モード」という言葉が「流行」のやや高尚なものとして認知されていた気がする。ともかく、一時代を画する様式というもので、これは流行というものが一見なくなって何でもありの時代になった現在においても、それもまたモードと捉えるとわかりやすいかもしれない。そして不思議なもので、女性はいつの時代でも女性であるのに、そのモードの変化によってまるで別の生き物のように見えるところがある。この場合、女性に限らず、男や子どももそうなのだが、それらは女性の付属のような存在で、女性を優先的に見ればよい。つまり、女性がいつも時代性を代表している。そして、時代が変われば、つまりモードが変化すれば、時代を代表する女性の顔や表情も変わるようで、それによって結局性質まで変化するようなところがあるが、ある時代に生まれた男性は、概して自分が若かった頃の女性美に魅せられ続け、著しくモードが変化した時代の女性にはあまり美を感じないのではあるまいか。また富士正晴の本に書いてあったことを引くが、富士は晩年になってTVで美人と言われる女性を見ても、きれいとは思うが中身がないように感じるといった思いを抱いた。これは現在の筆者には全く同意出来ることであって、TVに出て来る今の20代の女性の中に美人で見惚れるという女優やタレントはひとりもいない。みんなあまりに軽薄で中身がないように思うが、きっと富士は、筆者が20代に美しいと思った女性たちにはさっぱり魅力を感じなかったに違いない。ここで問題になるのは、全く同じ顔の美女がいつの時代にいるとしても、時代によって大衆が好む美人の基準が変わるのかどうかだ。簡単に言えば、たとえば、洲之内徹はイングリット・バーグマンを美女と書いていたが、絶頂の頃のバーグマンが今生きていたとしても、当時のような人気を得るだろうか。そうは思えない。美女ではあっても、時代によって大衆の好みが変わり、バーグマン絶世時代では理解出来ないようなタイプの女性が美人とみなされるのではあるまいか。これは女性の顔がそれだけでは美しくないことを示しそうだ。餓死者が多く出るような時代ではふくよかな体つきの女性が富貴の象徴らしく思われて美人の条件になるが、飽食の時代はその反対に痩せ型が美人の条件になるようだ。このように、女性の美というものは、それだけで絶対的に存在しているのではなく、社会全体の、あるいは国際的な動きとも関係したところで決まって来るもので、老人が現在の若者の美女が理解出来なくもそれはごく当然と言うべきだろう。
 ただし、若者が戦前の映画を見て、今は亡き女優に憧れ、それとそっくりな顔や表情を持った女性を現実に探すとおいうことはある。そして、遺伝の法則によって、そういう昔の美人とそっくりな人が今生きていることはごく自然であり、そういう女性が何かの形で見出されて広く脚光を浴びることもあるだろう。だが、その女性は確かに戦前のある女性と骨相が瓜ふたつであっても、現在のファッションに身を包むし、また何より周囲の何もかもが戦前とは同じはあり得ず、現在という時代の中で息をして、戦前の美女とは大いに違う何かを具えることになる。ここに時代ごとのモードの不可逆的な力といったものがある。そして、そういうモードやそれに対応した女性の美が写真に記録されていて、その代表がファッション写真家によるものということだ。今回展示された作品のうち4分の3ほどはよく知っている写真家のものであった。全部が神戸ファッション美術館の所蔵ではなく、たとえば写真をよく収集している京都国立近代美術館から借りて来たものもあった。チラシ裏面にはそうした作として、まずウージェーヌ・アジェの「マネキン」の図版が掲載されている。これはショー・ウィンドウの中の女性マネキン4体を撮ったもので、4体のうち2体は同じ顔とポーズをしている。1900年頃の撮影で、その頃からマネキン人形が商品のディスプレイに使われていたことがわかって興味深い。またそのマネキンの女性はヘア・スタイルや化粧がいかにも当時最先端であったことがわかる。目元の化粧が黒く強調され、ほとんどキース・ヴァン・ドンゲンの絵に登場する女性に見える。そう言えばドンゲンはマネキン人形にかなり触発されて女性像を描いたのかもしれない。もちろんドンゲンはモデルを前にして描いたが、そのモデルとなった女性は社会の先端にいて、その化粧を当時のマネキン人形の作り手たちが真似したのだろう。だが、ドンゲンは1920年代の画家で、その20年前にマネキン人形の目元が真っ黒というのは、マネキン人形が現実の女性の化粧をより誇張して先取りしていたとも考えられる。ともかく、このアジェの写真は当時の商品を着用し、ファッションの歴史として見ても貴重で、また本物の女性ではなくマネキン人形を撮影している点が、女性性に様式美を見る眼差しを伝え、ある意味ではブルーメンフェルドの「三重写しになったピーターセン」と変わらない思いが見えている。このブルーメンフェルドの写真に戻ると、これは1枚のフィルムに3回シャッターを押して作ったものだ。指を少し動かせとブルーメンフェルドはモデルに指示したのかどうか、ともかく光の当て方が絶妙で、カメラの位置も厳密に計算している。爪先立っているように見えるが、実際はモデルに仰向けに寝転ばせ、その左手頭上から撮ったものだろう。どういう目的で撮影されたのか、どことなくマネキン人形めいたところがあって、衣装やその生地の宣伝に使われたのだろうか。ファッション写真は商業目的で、しかも女性が見て美しいと感じなければならない。それを男性が作り上げるというのは、モデルの女性に私的な感情移入は許されず、マネキン人形のように感じる必要がありはしまいか。それも美しく撮るという意識を保ってのことだ。たとえば愛人を使って撮ると、その写真を見る女性はきっとファッション写真の無機質的な美とは違う何かを敏感に感じ取るだろう。そういう写真は別の領域で鑑賞されるものとなる。
 無機質的と書いたが、それは筆者がファッション写真におおよそ感じるもので、今回展示された写真がそうだと言うのではない。また、この無機質とは、写真が絵画のように厳密に計算されているという意味でもある。女性を美しく見せるには、その女性が美人であること以外に、衣装と表情がよく釣り合っており、しかも写真の造形が美的であることだ。いくら美人であっても、下手な写真では鑑賞に耐えるものにはならない。美人は美しい衣装と写真が完璧な構図であることによって初めて本物の美人となる。そしてそういう写真の美人は、生きた人物というより、ほとんどマネキンのように凍りついたようなところがある。そのためにファッション写真が無機質的と言うのだが、その無機質であることによって時代を画する永遠性も保持する。愛人の一瞬の笑顔といった写真もそれなりに時代を反映するものになるが、時代を画していると広く認知されるには、それを撮った写真家が時代をリードした有名人で、しかもその写真が何らかの形で公にされている必要がある。しかし、そうした写真は芸術と認められることはあっても、ファッション写真の分野には含められないだろう。今回展示された写真は、女性の読者を多く持ったモード雑誌に発表されたものばかりとは限らず、ファッション写真家ではなかった写真家のものも含まれる。その意味で、ファッション写真の定義が必要になるが、狭く捉えれば、ファッション雑誌用、あるいはファッションの宣伝に使われる写真だ。戦後は次第に女性のファッション雑誌に使う写真を専門に撮るカメラマンが登場し、ファッション・デザイナーとあいまって個性ある写真家が輩出し始めた。また、この神戸ファッション美術館に衣装や写真が展示されるような有名ファッション・デザイナーは、衣装の実物がたくさん残り、それらはマネキン人形に着せられて鑑賞出来るが、当時はファッション写真によって世界に紹介され、写真家がファッション・デザイナーの名を広めることに大きな役割を果たした。そこは力関係で、ファッション・デザイナーより有名な写真家もいるし、またファッション写真も撮るが、それには留まらないという写真家もいる。ブルーメンフェルドもそういうひとりだろう。永遠に女性の美人願望がある。またそれを撮りたいと思うカメラマンがいる限り、モードは変遷しながら途切れず、写真に写る美女は変化し続ける。今回の展覧会は「女神たち」に「ミューズ」のルビが振られている。女神は美女であり、その美の神はカメラマンに霊感を授けるということだ。男であるなら、それは美女を撮りたいのは当然だが、そこに私情をはさんではならないとすれば、それもまた苦行に思える。筆者なら私的に好きな女性の笑顔を撮りたい。
by uuuzen | 2011-01-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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