訓読みか音読みかわからない場合がよくある。阪急の高槻駅前の「城北通り」の商店街は、てっきり「しろきた」と読むと思っていたが、通りの両端に設置されている名称の看板にはローマ字で読みが添えてあって、「じょうほく」と読むことがわかる。
通りの名称を記したこの看板と仮に高架看板と呼んでおくが、名古屋の車道(これは「しゃどう」ではなく「くるまみち」と訓読みする)という地下鉄の出入り口近くにもあって、以前筆者はそうしたものは大阪や京都では見かけないと書いた。だが、この城北通りに架かるものは同じ例だ。また、そう言えば道頓堀や宗右衛門町通りにもあって、人が大勢集まってほしい通りには珍しくないものだ。それはいいとして、筆者はこの「城北通」の高架看板は昔から梅田行きの電車の中からちらりと見て知っていた。その頃はまだ線路は地面を走り、駅も現在のように巨大なものではなかった。この30年ほどの間に次々と阪急京都線は高架駅になり、高槻市駅の周辺は店が増えた。そうした店を抜けて東方面に家内の実家があり、またそっちは京都側でもあって、筆者はこの城北通りには縁がなかった。同じ駅であるのに、反対方向に歩むことがなかったのだが、そう言えばこの高架看板の付近は少しさびれたような別世界の雰囲気があって、なおさら用がないと感じていた。高槻には家内の実家以外にも知り合いがあって、家にお邪魔したこともあるが、その時でも城北通りは歩くことはなかった。ただし、その人からは城跡の近くに現代劇場が新たに建ったり、また阪急の駅構内に市民ギャラリー「けやき」が設けられたなどの情報を得て、後者については何度か足を運んだことがあった。その人はその市民ギャラリーで何度かグループ展を開いて水彩画を出していたが、数年前に吹田に引越した後、音信がなくなった。当時95歳とか言っていたので、亡くなったのかもしれない。また、引越す前に電話がかかって来て、長らく話をした。それは、今まで作ったさまざまな作品を全部処分するというものであった。自分では大作と思っているごくわずかな作品でさえももらい手がなく、それらを焼いたのかどうか知らないが、どう処分したのだろう。元気な声であったものの、もう覚悟を決めていたのかもしれない。筆者がもらっても置き場に困るし、かといって素人の芸術作品では誰も見向きもしない。奥村寛純氏のように、まだ誰かがほしがるものを収集する趣味の方がいいのかもしれない。だが、自分で創作する喜びは格別で、それがあるので生きておられるという人もある。30数歳も年下の筆者とは割合話が合い、お互いの家を行き合ったり、また京都の繁華街でばったり会うなどしたが、広い家で夫婦で住むのがつらくなったのかもしれない。それにしても、愛着のある物を処分するのはつらいことだと思う。筆者はどうしようか。

駅構内の市民ギャラリーの「けやき」とは「欅」のことで、これは高槻の「槻」と同じ意味だ。そう言えば市役所にも「欅」という名前の展望レストランがあって、その店長ともちょっとした知り合いだったが、もう何年も会っていない。さきほど家内に訊ねると、家内の通った高校は、今は別の高校と合併して「槻の木高校」という呼び名に変わって同じ場所にある。家内の実家の近くに高槻高校があって、その横をよく歩くが、これは私立の男子校だ。それに先を越されたために、市は「高槻高校」を命名出来ない。しっくり来ない話だが、登録商標やホームページのドメインと同じで、早い者勝ちなのだ。しろあと歴史館は、高槻城の跡地の一画に出来たのでその呼び名かと思えば、それもそうだが、市立の歴史民俗博物館がもうす少し南にあって、そことは重ならない内容を展示するために、やはり高槻城にまつわることを展示の中心にするのだろう。筆者は高槻城跡には踏み入れたことがないので、歴史民俗博物館があることも知らなかったが、さきほどネットで地図を見ていてわかった。また、現代劇場は城北通りを抜けて国道をわたり、そのまま南下してすぐの右手にあった。これが以前から聞いていた施設かと思ったが、その手前の大きなカトリック教会に驚いた。現代劇場は思ったより小さな建物であったが、それに隣接して駅により近い方に立派な教会があるのはかなり目立つ。高槻にはカトリックの信者が多いのかどうか、それだけの建物をそうした場所にかまえるのはかなりの経費がかかるはずで、それを思えば大勢の信者を想定するしかない。しろあと歴史館はその教会の前を南下し、すぐ左に折れたところにあって、市を代表する文化施設が付近にまとまっているのはよい。またその城北通りの延長となる道は、教会があるためか、一瞬筆者はロンドンのアビー・ロードを思い出し、そこを歩いている気分になった。先頃アビー・ロード・スタジオ前の横断歩道がイギリスの文化遺産になったとかいうニュースがあった。高槻のカトリック教会の前には横断歩道はない。それでも教会のファサードは立派で珍しく、思わずその道をパノラマ風に写真を撮った。筆者が歩いたのは12月26日の日曜日だ。、クリスマスが終わってはいたが、ファサードの薔薇窓の下には「メリー・クリスマス」の英語表記の看板が下がっていて、またその下の扉には花輪もかけられていた。

城北通りはわずか100メートルほどの商店街で、高槻の他の大きな商店街に比べるとアーケードもなく、かなり地味だ。だが、その道がいわば文化ゾーンに連続しているのであればその方がよい。現代劇場の斜め向いに喫茶店があって、閉まってはいたが、その看板やたたずまいはとても好感の持てる雰囲気があって、筆者の高槻観をかなり覆した。この調子なら、城跡の公園などにいつか足を運んでもいい。そう思ったのは、たとえば現代劇場の南隣の野見神社だ。現代劇場の北にカトリック教会、南に神社とは、うまく出来たものだが、もちろん教会の方ははるかに新しい。その新しい教会がなぜ同地に建てられたかは、当然高槻城主の高山右近に因んでのことだろう。右近はキリシタン大名であったのが、家康のために国外追放となり、マニラで死んだ。その右近の建てた日本建築の教会は現在の教会よりもう100メートルほど南東にあったようだが、その近くに大きな教会が建てられたのは昭和30年代のことだ。当時は付近はまだ地価が安かったのだろう。それにしても追放された右近の亡霊がその教会を設立させたように思えるところが面白い。明治維新後、日本の仏教界はキリスト教を認めないようにと政府にかけ合い、その一方で政府が戦争をするための莫大な資金を援助した。そうした排他的行為が西洋から歓迎されるはずもなく、間もなくキリスト教を認める方向に転ずるが、当時のキリスト教排斥はなかなか根強く、それが今もなお日本でキリスト教が広まらない理由にも思える。そういう風土の中、高槻のカトリック教会は特筆すべき建立ではなかったか。カトリック教会は各地にあるが、この高槻のものは、銅を葺いた丸屋根がなかなかよい。急いでいたこともあって立ち止まらずに通り過ぎたが、門を入ってすぐ左手に高山右近の白い大理石の像がある。筆者の撮った下のパノラマ写真でもかろうじてそれが写っている。また、これは先ほど調べて知ったが、野見神社内には、家康に認められた代々の高槻城主の永井家をまつる永井神社がある。その門のかたわらに蟹型の新しい石像が置かれていて、これが何のためかわからないと説明されている。その蟹型の石で思い出すのは上田秋成の墓石だが、永井神社や高槻は秋成とは関係がない。その蟹型の彫刻もいつか見たい。
元日の投稿の「意」の路上文字から始まって、高槻ネタで2、3日投稿すると書いた。今日はその最後としよう。それで、意識を集中させられた写真をもう1点掲載するが、これも始めて歩く高槻市内で見かけた。高槻は阪急の北側を走るJRを越えると上りの坂道が始まり、そのまま山辺の名神高速道路まで続く。その上り坂の初め頃、こんもりとした丘の内部に天神さんがある。正しくは上宮天満宮と呼ぶが、この神社には家内に言わせると、大昔筆者は家内とデートして一度訪れたことがあるそうだが、さっぱり記憶がない。それで、その神社の奥の住宅地を歩く用事が12月にあった。家内は神社の中を抜けて行くと早いと言ったが、坂が急なのでそれを無視し、左の道を行った。その途中で「意」の路上文字を発見し、次にそのすぐ近くで見事に刈られた植木のある家を見つけた。そうした家の写真を撮ってブログに掲載することはまずいだろうが、グーグル・アースではそれをやっている。それに筆者は住所を明記せず、また家の向い側に立っていた反射鏡に映った像を撮影したので、なおさら許されるのではないだろうか。こういう植木を育てて手入れするには数十年はかかるし、また貧乏人では無理だ。まるで現代彫刻に見えるたたずまいの植木で、家の人の趣味がうかがえる。よくある形とも言えるが、やや陰気で昭和レトロっぽい雰囲気がよい。この写真を撮った後、坂をどんどん上って行くと崖に突き当たり、左手は下り坂であった。そっちを行くと、50メートル背後で家内が叫ぶ。家内は様子がおかしいので宅配の業者に道を訊ねたのだ。道を戻ってその業者に地図を示すと、どうやら目的地には、右に折れてさらに坂を上る必要がある。そして下り坂を行くと元の場所に戻ってしまうことがわかり、結局家内の言うように神社の境内を抜けた方がよかったことがわかった。地図を印刷して行ったのに、方向音痴の筆者はそれでも間違う。だが、「意」の路上文字に遭遇し、また面白い形の植木にも出会えたのでよしとしよう。迷えば迷ったなりに楽しめばいいではないか。だが、神社の中を抜けていると、野鳥の声をたくさん聞き、また自然の樹木がもっと素晴らしかったかもしれない。同時にふたつ味わうことはなかなか難しい。いつもどちらか片方を選ぶ必要がある。そして、それに満足せねばならない。何でもないようなものに感心する筆者であるので、それでいいのだが。