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●しろあと歴史館
村寛純氏の伏見人形のコレクションが高槻のしろあと歴史館に入ったと耳にしたのは数年前だった。水無瀬で自宅を伏偶舎(ふくぐうしゃ)と名づけて伏見人形を公開していることを知ったのは、筆者が伏見人形に急に開眼して集め始めた頃で、当時すぐに見に行った。



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その後、郷土玩具をかなり収集している人とひょんなことで知り合って、その人と連れ立って出かけたこともあるし、電話で質問をさせていただいたこともある。その電話は亡くなる1、2年前のことで、声は息切れしてやや苦しそうであったが、記憶は確かで的確に応えていただいた。氏のコレクションは若い頃からのものではないだろう。大阪の小学校の教師をするかたわら、郷土玩具の面白さ、特に伏見人形に目覚め、『伏見人形の原型』という、鯛焼きで言えばあの両面の鉄板に相当する土製の型ばかりを紹介した限定本を世に出したのが1970年代半ばのことで、伏見人形の収集に熱が入ったのは昭和30年代以降ではないだろうか。当時は全国的に郷土玩具のブームがあり、氏もそうした渦中にあったひとりで、氏以前に郷土玩具を収集した人はいた。だが、氏は伏見人形のほとんど唯一と言ってよかった作り手で、伏見で今も製作する丹嘉に出入りして原型を見出すとともに、特別に珍しい型の人形を作ってもらうなど、系統的に伏見人形を集めた。それらは、埃がかぶらないようにビニール袋を被せて伏偶舎で展示し、その功績によって伏見人形研究家の第一人者としてよく知られ、亡くなる1、2年前には叙勲もされた。その直後にお目にかかって、お話をおうかがいしながらそのお顔を写生したりもした。その氏のコレクションが高槻市のものになったのは、氏が同市に近い大阪府に伏偶舎をかまえていたことからすれば妥当かつ賢明なことであった。伏見人形は京都深草のものであるから、本来ならば同地に特別の施設が出来て展示すべきだが、京都府や市にその財政の余裕はないということだろう。それに京都府総合資料館には奥村氏が集めたものよりも古い、そして数としてはそれに匹敵する朏(みかづき)コレクションがあって、奥村氏の収集を受け入れる余地はなかった。生涯かけて集めたものが没後散逸することはほぼ常識という中、氏のコレクションがそのまま高槻市の所有になったのは喜ばしい。それを見届けて氏は世を去った。
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 氏の収集は2万点ほどという。この市場価値がどれほどかとなれば、伏見人形はネット・オークションによく出るし、また丹嘉でも同じ形と色合いのものが作られるので、計算はさほど困難ではない。1点5000円とざっと見積もれば1億円となって、これは妥当な価格ではないだろうか。それを寄贈するのは、今でも自宅で展示して来たのと同じように公開してもらいたいという思いによる。氏ほどではないが、それなりに伏見人形を集め、資料的価値の大きい個人コレクションが日本にはまだ何人もあると想像するが、それらは恐らくどこにも収まらず、本人が亡くなった後は、遅かれ早かれ古道具屋に持ち去られるに違いない。それはやがてほしい人の手にわたるのであるから、土人形は割れない限り、どこかで大切にされ続ける。それに、何でも公的機関に収まっていいというものではない。無料で寄贈するとはいえ、どこでもそれを引き受けるとは限らないし、そうした引き受け機関はほかにも寄贈品があって、郷土玩具だけをいつも展示することは出来ないし、また学芸員が交代すれば紹介の機会が減ったりする場合もあろう。2万点の人形を一堂に展示することは出来ず、氏の収集が全部一度でも公開されるのは数十年以上はかかるのではないか。それでもなお、奥村氏が自分の収集を散逸させないためにどこかに一括寄贈しようとし、その願いが案外近い場所で実現したことは、氏の人形に対する執念が通じたと思える。ある人から聞いたところによると、氏のコレクションをほしがった県がいくつかあったようで、それほどに地方には展示用の箱ものがあっても展示する中身に不足しているのだろう。高槻市はしろあと歴史館を平成15年に建てた。その3年後に氏のコレクション展が開催され、亡くなったのは平成21年夏であったから、寄贈はちょうどよい時期に行なわれた。しろあと歴史館が建つという情報がなければ氏は収集をどこへ寄贈しようと考えたであろう。生きている時からコレクションがそれなりに有名でなければ、生き受け手も現われにくいから、収集品は出来れば公開や貸し出しをして存在を広く知ってもらうに限る。奥村氏はそれをやっていたことがよかった。
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 高槻は家内の実家や家内の兄弟姉妹が全員住んでいるので、昔からよく知っているつもりであったが、これが案外そうではなかったことを昨年12月には痛感した。筆者が知る高槻は、家内の実家周辺と、京大の温室のある古曽部辺り程度で、そのほかはまるで知らなかったし、またそこはどうせ特筆すべきものがあるなどとも考えなかった。大阪市内と京都市内に挟まれたベッド・タウン程度の認識だ。それは実際そうなのだが、高山右近の歴史もあり、それなりに古い歴史の蓄積がある。そうしたことを紹介する公的施設が、しろあと歴史館だ。教育委員会の建物が隣接し、また斜め向いには商工会議所があって、付近は駅前とは全く違って落ち着いたたたずまいだ。家内によれば昔は高校があって、家内はそこに通っていた。それが取り壊されて文化施設が出来たのは、元は高槻城があった場所という、歴史的に重要な地区だからであろう。このしろあと歴史館は企画展のある時は入場料が必要だが、普段の常設展は無料で、しかも撮影も許される。昨日掲げた干支の兎の人形は係員に許可を得て撮ったもので、今日掲げるものもそうだ。奥村氏と大阪の玉村氏の収集したものが若干展示されていた。玉村氏はしろあと歴史館を拠点に活動していたボランティアで、会社員をしながら郷土玩具を30年ほどかけて集めた。やはり郷土玩具ブームに染まったひとりだ。3500点を寄贈したという。しろあと歴史館は円形の建物で、1階にはふたつのコーナー、2階にはもっと小さい規模のワン・コーナーで、白や朱、黄、緑、青など原色の絵具で彩色した郷土玩具は正月らしい雰囲気に溢れて、やはり見て気持ちがいい。庶民のささやかだが、本当に願って求めているのはそういう暖かい雰囲気であろう。それが今は世の中が飽食かつ原色氾濫となって、もっとグロテスクなものに人気が集まり、人々はより刺激の強いものを求め、多少の出来事には驚かなくなっている。そして、そういう世情に応じて、よりセンセーショナルな表現をする者が歓迎されるが、病んだ社会のどこかに質朴な思いを抱いてそういう表現をする者がある。筆者のような年齢になると、どれを選ぼうが自由であって、社会が全体的に病んでいるかどうかはどうでもよく、自分に関心のあることに目を向けているだけでいいと思う。世間に無理に合わせなくても、それなりに世間の空気を吸っていればそうなりがちであるし、またそうなろうがなるまいが、自分は自分でいいではないか。流行めいたことに合わせる必要を思わない。また、社会が病んでいるとしても、それは今に始まったことかどうかだ。先日のTVでアメリカでホームレスになっている若者をルポした番組があった。そうした社会問題は日本に波及しているが、アメリカの識者は1950年代にすでにドメスティック・ヴァイオレンスの問題が始まっていたとし、筆者が思っていたことを裏づけていた。シャングリラスのヒット曲「もう家には帰れない」を以前採り上げたが、その歌詞内容は10数年前の世相が社会問題化したものと捉えると、誰しも納得が行く。ま、何を言いたいかと言えば、たとえば父が娘を妊娠させるといったひどい話は1950年代のアメリカでは増加し、その一方、当時の日本では郷土玩具のブームを用意もしていて、社会の色合いはいつの時代も暗黒面とそうでない健康的とも言える部分を併せ持っていて、何に目を向けるかは、その人それぞれの境遇、本質、意志によるのであって、そのどれを選ぼうが、他人がとやかく批判出来るものではないということだ。早い話が、この社会をどう評価してどう見るかは、絶対的に正しい判断はあり得ず、自分が思い描いたようにある。そして他人はそれに共感出来るが出来ないかであって、共感者が多いからその人の考えがより世相を代表した正しいものとも限らない。
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 そういう思いは、何でもありの中から自分の好きなものを選択するという、バイキング料理のようなところがある。時代はますますそうした様相を呈して来ていて、ネット世界はその最たるものだ。検索でキーワードが引っかかって、たまに間違ったように筆者のブログを訪れて、2、3行は読むという人は少なくないと思うが、つまりはそのように知識や情報を断片的に吸収し、またそれで充分という時代になっている。これは筆者が他人のブログをそのように読むところからも言える。ある人の書くブログが面白く、その全文を読むということは筆者にはない。その点から推して、こうして書く筆者の文章の全部に目を通す人があるとは信じがたい。また富士正晴のことを書くが、富士の家にはたまに若い読者が押しかけて来たが、みな富士の文章をまともに読んでいなかったらしい。それはよく理解出来る話だ。同じことは、他人の文章を無限に気軽に読めるようになったネット世界ではなおさらだろう。無限の中からたまに気まぐれに検索して引っかかった文章を読む。それが現在人の姿だ。その論で行くと、わざわざ電車に乗って知らない施設に足を運ぶことは、かなり強い意志があってのことだが、これだけ展示施設が各地に林立すれば、客は好きなものに接すればいいとしても、館としては客の奪い合いにもなるだろう。しろあと歴史館に奥村氏のコレクションが収まったという話題は、郷土玩具好きなら誰でも知っていることだが、その展示を見に行くのはかなり限られた数ではないか。そういう筆者も平成18年の「伏見人形とその系譜」展には行かなかった。毎年何度も降り立つ高槻駅であるのに、またそこから5分ほどの距離にあるというのに、そこに通ずる道を歩いた試しがなかった。こういう不思議と言えば不思議なことが人間にはよくある。奥村氏のコレクションはすでに何度か見たという思いもあったのは確かで、またそのコレクションが昭和の新しいものを中心とするので、ありがたみに乏しいという思いも作用した。今回のミニ展示は、小さき規模ながら伏見人形のだいたいの様子はうまく説明していて、丹嘉に保存されるような原型も数点並べられていたのはよかった。氏はそれら原型をどのように収集したか知らないが、丹嘉近くの同じ伏見人形店が店を閉じる時に分けてもらったのであろう。当時はそうした型がほとんど無数に処分され、土と化した。それほどに伏見人形は大量に作られ、日常的なものであったのが、今では見る影がない。
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 しろあと歴史館は高槻の歴史を概観するためのもので、江戸時代を特に重視するものではないが、高槻城のほかには西国街道の芥川という宿場町が有名であったこともあって、その紹介に重点を置いたものになっていた。ざっと見ただけだが、枚方の鍵屋資料館と共通する展示が目立ったように思う。淀川を挟んで向い合う枚方と高槻であるのでそれも仕方がないし、また鍵屋のような江戸時代そのままの宿としての建物を持たない高槻としては、鍵屋とは違ってもっと歴史を遡らせて高山右近も抱えるという自負があって、鍵屋よりははるかに大きい展示面積の建物を作ったというところだろう。筆者が思ったのは、たとえば枚方の鍵屋とこのしろあと歴史館をリンクさせて、お互い紹介に務めることだ。枚方と高槻は京阪バスで結ばれているが、それだけのことで、交流らしきものはほとんどない気がする。鍵屋には大阪市内から船に乗って出かける観光コースがたまに実施されるようだが、しろあと歴史館でも大きく紹介されていた淀川を上下した三十石船は、川底を浚渫しなければ運行出来ないという理由があるにせよ、京都側はほとんど積極的に観光目的にそれを活用しようとしない。伏見港の整備はしたが、その周辺の船の運行で茶を濁している程度で、これが鍵屋まで行けば、大阪市内と鍵屋と往復する船とつなぐことも出来る。それは京都大阪の双方にとって観光資源になるはずで、そこにしろあと歴史館など、周辺の文化施設を絡ませて他府県の人が訪れた時に足を延ばしやすいように工夫すれば、諸施設がもっと生きて来るのではないだろうか。そういう切り口はいくらでもあるだろう。たとえば伏見人形は伏見深草のものであり、三十石船とは大いに関係があった。それによって大阪に運ばれ、そこから日本全国に散らばって行ったのであるから、しろあと歴史館は本当は三十石船の起点となった伏見とつながる必要がある。それを阻んでいるのが、現在の地方行政で、これをもっと大きな視野でひとまとめにするような何らかの仕組みが今後は必要なのではないか。日本は観光立国として生きて行くことを決めていて、その本拠地が京都になると一昨日のニュースには書いてあった。その京都は金閣寺と清水寺、嵐山だけでいいはずがない。また、そうしたところで売られるお土産品は、みな陳腐な工場製品で、日本全国どこで売られるものと何ら変わらない。もちろんご当地ものと称して、金閣寺キティちゃんや清水寺ミッキーマウスがあるが、それらに寄りかかる商売がいつまで安泰だろうか。素朴な土人形というものがもっと脚光を浴びてよいし、それは売る努力をしていないだけに思えるし、またそうした努力の中からまた新しい郷土玩具的なものも生まれて来ることは期待出来ないだろうか。ゆるキャラのブームが大学にまで波及している昨今、地方自治体も同じ動向に走り、そしてそれを題材にした特徴ある土産品を生み出すべきに思える。そして、そういう時に大きな参考となるのは、やはり伏見人形なのだ。キューピーやミッキー・マウスが生まれるよりはるか以前に生み出された伏見人形は、元祖キャラクターであり、それを育んで来た京都は、まだまだ本格的には知られない文化が蓄積されている。そして、そういう文化論や芸術論を展開出来る人は大学にはいない。無名の職人が携わったものは、無名のままに放っておいてよいということなのだろう。そして、そういうものを好んで大切にする人はいつの時代にもごく少数はいて、そのひとりが奥村氏であった。
by uuuzen | 2011-01-03 17:07 | ●展覧会SOON評SO ON
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