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●意の中の蛙
絵のような景色が嵐山に出現した。すぐに雪が止むと思っていたのに、昨日は終日降り続き、夜にはわが家の裏庭の沈丁花の幹がひどく曲がってしまった。蕾をたくさんつけていたのに、この調子では花が咲かないかもしれない。



昨日は朝9時にゴミ出しをして、その足でカメラを持って駅前や渡月橋の見える中の島公園に向かった。歩いている人はひとりふたりで、写真を撮るには絶好の機会だ。下のパノラマ写真は右手奥に白木の渡月橋が見えるが、雪が降りしきり、全く墨絵のような風景で、こんな光景は珍しい。とても冷たく、指の感覚がなくなって来る。また足元が悪いので、この写真を撮ってすぐに引き返した。長靴があればいいのに、気になりながらまだ買っていない。新雪を靴で踏むとキュッキュッと音が鳴る。そして靴はやがて内部に水が染みるから、筆者は雨の日と同じく、雪の中を歩くことは好まない。今朝目覚めると、雪は昨日と同じ状態ながら、今これを書いている10時には陽が射して来て、この調子では半分は溶けそうだ。寝床で俳句をいくつかにねってみた。そのひとつをこの画面の右下のつぶログに今掲載した。ほかに思いついたのは、「寝床から 這い出て見るや 雪布団」「雪積もり どこもかしこも 寝正月」「雪の中 小鷺間近に 飛ぶ初日」といったところで、今年は去年以上に俳句作りをしてみようか。年賀状はまだ届かないが、そう言えば今年は切り絵の図柄に俳句を添えた。語呂合わせになっているが、この語呂合わせは俳句の世界では最初から用いられたもので、そのような言葉遊びの面白さが元来俳句にはある。詳しくは知らないが、芭蕉においてはそれが影を潜めるのではないだろうか。もっと真面目で真剣なものになったと言えばよいか、それはそれで発展の一形態だが、言葉を5、7、5に嵌めるということが元来遊びなのであるから、俳句は遊びの精神が基本にあって、それが全面的に表われているものが面白い。そうした遊びは心の余裕でもあって、人を和ませる。笑いに通じていて、精神の健康にもいい。筆者はそんなことをよく思うので、切り絵にしてもそういう意識が出ていると思う。不真面目と謗られることも、実際葉作者が大いに真面目にやってのことである場合があって、それは真面目を意識し過ぎて、真面目だけが取り柄になっている全くつまらないものよりは、はるかにいいと思う。
●意の中の蛙_d0053294_11525516.jpg
 さて、正月なのでそれらしい話題を書かねばならない。そのために用意したネタがないではない。明日や明後日は高槻のネタを書く予定でいるが、今日もそうだ。詳しくは後日に述べるが、先日高槻の見知らぬ通りを歩いていて、路上に面白い書を見かけた。そのうち「意」の一字を下に載せておく。アスファルト上の書で、誰でもわかるように車に対する注意書きの一部だ。書かれたばかりで、字の太さを決めた細い線が何本も見えている。写真をネガに加工したところ、地面が白い紙のようになって書き初めらしくなった。この書体を誰がどこでデザインしているのだろうか。全国の統一基準があるのだろうか。なかなか特徴的でいい。筆者が「意」に意識したのは、考えがあってのことで、それについて書き始めると別の話題として長くなるのでここでは書かないでおく。ともかく、この「意」は含蓄がある。今年最も意識する一字としておきたいくらいだ。上から順に「立」と「日」と「心」から出来ていて、「立つ日の心」とは、何だか自分が正月に誓いを立てるようで、これまた書き初めらしい。だが、この字は「音」と「心」だ。「心の中に溜まっている」という意味で、まさにこのブログにはふさわしいではないか。心の中に充満している思いは吐き出さねばならない。これは金でもそうだ。溜め込むばかりでは病気になり、使い道もなくなる。あるいは病気を治すために使う羽目になるというアホらしいことに陥る。金欠病とよく言うが、金満も病気だ。と、悔し紛れに書いておこう。だが、筆者のように溜まった尻からこうして書いていると、そのうち書くことがなくなりそうだが、今のところは無限に書くことが出来る気がしている。富士正晴は、亡くなる2、3年前かに、もう書くことが亡くなったと宣言した。なかなか凄い腹のくくり方で、それほどに同じようなことを書くことを拒否していたと言える。それは書くことが生活を支える、つまり売文行為であったからでもあるが、筆者のこのブログは無料のくたびれ儲けであるから、その分緊張感がなく、したがって誰も喜ばないという図式がある。かと言って有料にする方法もなく、それがあっても誰も読まないから、ブログはしょせん素人の戯言ということになるしかない。
●意の中の蛙_d0053294_11575228.jpg
 年賀状が今届いた。去年届いていなかった人が4枚来ている。あまりが数枚あるのでそれで書けばいいが、そのうち半分は印刷を失敗したもので、それで送らねばならない。それは正月早々失礼に当たるが、郵便局が開いていない。そう言えばここ数年の年賀状が数枚ずつあまっている。余分を見越して買っておいたものだが、今年は去年より10枚減らした。その減らした分がやはり足りなくなるようだ。仲のよい友人ならば、昔のあまった年賀状に書いて出すという悪ふざけも冗談で済むが、あまった年賀状が懸賞への応募に使うこともネット社会になってからはぴたりとなくなったので、始末に困る。何の話だったろうか。そうそう、「意」だ。これが年々減退するのが自然というもののようだが、自分は自分の意識の仲から生涯出ることが出来ないから、「意」の減退があってもそれを明確に自覚することは出来にくい。それで他人から指摘されるなどして、老化をいやでもわからせられる。「意」をいつまでも若いまま保っていたいと思ってもそれは無理な話で、それでは体が持たないだろう。体が老化するとともに意識もそうなるのがいい。だが、この老化は悪い意味だけで捉えるのもよくなり。去年中旬90代半ばで亡くなった人の四十九日の法要に参加したところ、70代の僧がまるで落語家のような口調で面白い法話を30分ほどした。それがとても見事で、またしっかりと宗派の宣伝も含めていたが、筆者が一番印象に残ったのは、人間長生きすると、いいこともたくさんあるが、それと同じほどいやなこともたくさん見ることになるという話だ。これは一見正しいように思えるが、はたして誰でもそうか。物事は思いようであるから、若い間は確かにいやなことと思っていることでも、老いて来るとそれをやり過ごす術が身につくのではないか。となれば、それはいやなことではなく、ごく普通のことを思えるだろう。つまり、老いるといやなことはなくなり、いつも穏やかな気持ちになれるのではないか。またそうならなければ体が持たず、急死する確率も高くなる。また、その人生におけるいやなことは、他人の行動とは限らないという見方は当然ある。もっと哲学的に、たとえば自分が食べたり排泄したりすることがいやになるとか、動物の生というものが根本的にいやなことの塊であると思う場合もあるだろう。そういう時にはどうすればいいか。自分の小さな「意」の中だけはそういう問題はなかなか解決出来ない。そこで先人の考えを本で知るということにつながる。あるいはこういうブログが、他人にとってそうしたことの慰めにならないとも限らない。くたびれ儲けに過ぎない行為であっても、そこには何らかの「意」味があると思いたい。新年は切りのいいところまでまた去年末どおりに連鎖的なあれこれ書くつもりでいる。
by uuuzen | 2011-01-01 11:58 | ●新・嵐山だより
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