砂時計がどういう意味で登場するのかと思いながら見た。3年ほど前に妹から借りた全24話の韓国ドラマで、早くビデオ・テープを返そうと思っ立って、今年の夏に毎日1話ずつ鑑賞した。
家内は去年2度見たが、その時かたわらでたまに画面を覗き見していたので、おおよそどんな内容かは知っていた。韓国のTVドラマ史上、歴代2位だったか、空前の視聴率を稼いだこともあって、ぜひ見ておくべきと思った。見終えた後、すぐに感想を書くべきところが、そのままになってしまった。年を越すと書かなくなる気がするので、どうにか年内に書いておこう。さきほどネットで調べると、BS朝日で今年だろうか、春から秋にかけて放送されたようだ。日本の韓国ドラマ・ファンの間ではかなり知られたものになっているのではないだろうか。韓国ではとっくに放送が終わっているものが、かなり後れて日本で紹介されるのはいいとしても、どの放送局でいつといったことが、よほど情報に精通していなければわからない。また筆者のように衛生放送を見る環境にない者にとってはますます疎外されている。それでもっぱら京都放送で放送されるものだけを見ているが、それでは人気のあったものが放送される確率がかなり低く、見るものは偏りが過ぎることになる。そこでたいていの韓国ドラマを録画している妹にごくたまにお勧めのものを貸してもらう。この『砂時計』はそうして借りた。大阪に住む従兄が韓国ドラマ・ブームを嘲笑し、女や子どもが見るものと高をくくっていたが、誰かに勧められてこのドラマを見たところ、すっかりはまってしまい、それ以降は話題作をそれなりに楽しんでいる。つまり、このドラマは恋愛ものや若者相手のトレンディ・ドラマを嫌う人が見るに耐える内容で、その意味で他の韓国ドラマとはかなり違った評価をされるのではないだろうか。また、韓国で空前の人気があったとしても、日本では国情の違いからそれはほとんど期待出来ない。そこで、このドラマを見る面白さは、韓国の30年ほど前の現代史を、韓国人の目を通じて再確認するところにある。そしてそれは当時の日本とはあまりに違って、歴史的事実でさえも作り話に思えて来るだろう。
70年代から80年代半ばにかけて、つまりソウル・オリンピックまでの歴史の縮図を描いたこのドラマは、1995年に製作された。日本では同じように政治を批判したTVドラマが作り得るだろうか。日本でもかつてあったような時代が韓国ではかなり後れてやって来て、そのことを軸にTVドラマに仕立てるのは時代後れであり、見るに絶えないという意見を抱くものがあるかもしれない。だが、日本と韓国は別の国であり、経済発展に差があるからといって、政治やその他あらゆるものが、日本でかつて生じたことを韓国が後れてなぞっていると見るのは大間違いだ。また、どっちが幸福な国であるかというのも愚問で、人間はどの国家においても、愛や憎しみに捉えられて生きて行くしかなく、それは政治や経済とは別の普遍性を持っている。そこに注目するのであれば、このドラマは7、80年代という特殊な韓国の事情を無視しても充分成立する物語を描いており、現在の日本で見る価値がある。こう書けば、韓国ドラマお決まりの恋愛ものに現代史を重ね合わせたものが想像され得るが、その部分は大きいとしても、それより深く迫って来るのは男同士の友情だ。また、頭脳と体力、あるいは生い立ちに応じた人生の歩むべき道があって、どういう職業であっても、そこには腐敗もあれば真面目もあるという描き方をしているが、概して国家権力を持つ者が最も腹黒いという見方を貫いているところ、よくぞこうした権力批判のドラマが作られたと思う。水戸黄門が正義の味方といった安直な内容のドラマとは全く別物で、悪い奴らの暗躍は見ていてげっそりさせられるところがある。だが、それは韓国の政治の暗部として誰でも知っていることであり、拷門も含めてそうした権力者の悪政を描いておかねばと思ったところに、このドラマの良心的な態度が見える。しかも最高度の視聴率を稼いだことに、韓国民のまともな精神を見る。また、こうしたドラマが一旦作られると、同じ時代の似た内容を扱ったドラマは当分の間作られないだろうし、またこのドラマに対する反動というほどではないが、トレンディ・ドラマや内容のうすいドラマが量産され始めたのかと、うがった見方をしてしまう。たとえば『冬のソナタ』はこのドラマの7年後だが、『冬のソナタ』を見慣れた目からすれば、こういうドラマが作られていたことが意外であるだろう。だが、このドラマを先に見て『冬のソナタ』を見れば、なおよく平和な民主主義が韓国で広まったことを実感する。つまり、このドラマは1995年によくぞ作られたも。この現代史を踏まえて置かねば、それ以降に経済発展に応じた内容のドラマもなかったことが見えて来る。それは言い過ぎかもしれないが、韓国ドラマが国家のあらゆるものに目を向けて物語を紡いでいるとして、その発端にこのドラマが果たした役割は大きいという気がする。
このドラマは役者がみな非情に達者で、また若い頃の姿が見えるのが興味深い。主立った登場人物を順に書くと、チェ・ミンス演ずる主人公のパク・テスは、遊郭を経営する母の手で育てられ、兄弟はいない。この生まれ育ちから想像出来るように、テスはヤクザの道に進む。つまり、このドラマはヤクザものと分類してよい。テスは転校し、高校生の時に神童と言われるほどの秀才カン・ウソクと無二の親友になる。ウソクを演じるのは、ペ・ヨンジュンの『初恋』に登場したパク・サンウォンだ。また、そのドラマで登場した元ミス・コリアのイ・スンヨンは新聞記者役を演じ、ドラマの後半では出番が多い。不良と秀才が仲よくなる設定は現実的ではないと考える人が多いかもしれないが、ウソクはとても貧しい家の生まれで、人から偏見を受けるテスとは内面で通ずるものがあった。また、そういう経済事情を抜きにしても、不良と成績優秀な者が友だち同士になることは全く不自然ではないどころか、きわめて現実的に思える。このふたりは友情を育み続けるが、生きる道が違って行くのは当然で、またそれが正反対になっていくあまり、ついには最終回では非情な展開となるが、そうなってもなお、ふたりの間には友情があったと見るべきで、このドラマは結局は、不良からヤクザになったテスの末路と、秀才で健気なウソクの社会的成功の対比を描いて人々に教訓を与えているところがある。ただし、そう簡単に割り切れるものではないところがさすがで、先に書いたように、テスは心が弱かったので堕落して行ったのではなく、むしろウソク以上に男としての、そして愛する者を助けることに命を捧げ、人間的には器の大きい人物として描かれる。それが犬死にのような形で世間から葬り去られるのは、一介のヤクザには信じられないほど強大な力を持った本当の悪なる存在があるからで、その代表として政治家や中央情報局(KCIA)が登場させられる。こうした連中は、自分の手を汚さずにヤクザを使って敵を潰す。そこに社会的にのし上がりたいテスが利用される形だ。また、政治にはお金がつきものだが、それを手にするのは財閥や大企業の主だ。その収入源として土建業やギャンブルがあり、そこにヤクザが絡む。こういう構図は日本でも同じであるから、このドラマは現代政治を抜きにしても比較的わかりやすいのではないだろうか。また、政治家は裏で動くという描き方がもっぱらなされ、物語を進めるのはヤクザと大企業の会長、そして貧しい農夫の父の遺言にしたがって検事になったウソクの三者で、恋愛の主題は会長のひとり娘ユン・ヘリンとテスの間で設定される。
ヘリンは大金持ちのひとり娘だが、大学生の時に民主化運動に携わって逮捕されるなど、父にとっては悩みの種でもある。そして、父は商売仇の差し金によって娘が誘拐されようが、どうせ嫁にやる者なので助けないと言うほどの金だけがすべてという人物で、政治家に取り入りながら蓄財に余念がない。だがそれは、政治家やKCIAの手にかかればいとも簡単に瓦解されられる砂上の楼閣のようなもので、破産して死んでしまう。そして、父を嫌っていたヘリンは父の会社の建て直しに目覚め、父を嵌めた政治家に復讐しようとするが、それを常に陰で支えるのがテスだ。だが、これはドラマを見なければ複雑でわかりにくいが、ヘリンはテスを敵として誤解し続け、最後は自分を助けたことで人殺しまでしたテスが、ウソクの手で裁かれる場面に遭遇する。ヘリンほどの賢い女性がなぜ、一途なテスを誤解したのか。見ていてはがゆいことこのうえないが、そこは若い女が父の亡き後、会社を立て直す苦労を思う必要があろう。また、テスは一ヤクザからどんどんのし上がって会社の社長に上り詰めるが、そこにも政治家やKCIAの導きがあった。そういう連中は、自分たちにとってつごうよく動くヤクザならば、誰でもあってもいいわけで、いとも簡単にヤクザが刑務所から出されたり、また逆に無実の者が入所したりする。そして、テスのようなヤクザはどう転んでも生き延びることは困難だが、政治家はよほどのことがなければ刑務所に入らず、また入っても数年で出て来る。そう考えると、最も賢い生き方は政治家になることで、ヤクザは馬鹿な連中がなるということだろう。また、検事という生き方をこのドラマは美化していない。ウソクはとんとん拍子に検事になるのではなく、試験に落ちたり、また軍に志願し、兵士となって光州に赴き、そこで市民に向かって発砲するという経験をする。その経験はウソクに深い精神的な傷を負わせる。、このドラマでは光州事件は別に描かなくても充分筋立てが出来たのに、あえてそうしたのは、現代史を概観するという目的と、ウソクとテスの行動の対比を際立たせるためには、光州事件におけるふたりの行動を描くことが便利であったためだ。光州事件は2、3回で描かれたが、それだけを抽出して膨らませれば別のドラマが充分出来たほどに、光州事件だけでも筋立てとしては盛りだくさんだ。
脇役と言っていいのかどうか、テスの格好いい生き方とは別に、精神が腐り切ったヤクザが登場する。それは高校時代のテスの友人のイ・ジョンドだ。この俳優は『風の国』でもいやな男を演じているが、見ていてこれほど憎らしい、またヤクザっぽい演技を見せるのは並みの才能ではない。このドラマではテス以上に記憶に残ると言ってよい。このジョンドはテスとは同じ親分の下にいたが、野心家のジョンドは平気で誰でも裏切る。そして人殺しも平気だが、そんなジョンドを操るのがKCIAで、この連中の考えていることはドラマからははっきりわからない。その思いはテスも同じで、何が目的かと質問する場面がある。すると、国家の安寧という返事をするが、確かに金儲けが趣味ではなく、ヤクザを動かしながら、大企業の会長が力を持ち過ぎないようにと、狙った者を潰すことに使命を感ずる人種があるのだろう。その意味で、このドラマで最も不気味な存在は本質がわからないKCIAだ。テスとジョンドの親分は、『ホジュン』に出て来た猟師役のイ・ヒドで、このドラマでは渋い、そしていい役を演じている。また、ヤクザは対立するヤクザがいるが、その親分も登場し、同じように親分としての貫禄と包容力のある人物として描かれる。これはヤクザ礼讃ではなく、親分となるほどの人物は人望があるべしという常識的な見方だ。ジョンドも親分にのし上がるが、ウソクと親友になるほどの純粋な精神を持ったテスは、いわば古いヤクザ気質からジョンド一派にはかなわない勢力であったとみなすべきだろうが、このドラマでは『ピアノ』で描かれたように、日本のヤクザ映画のように、義理と人情をより持つレス一派を美化して描く。そして、ジョンドはテスによって殺されるが、それは表向きはヤクザの抗争に過ぎず、世間ではごく単純に報道され、すぐに忘れ去られる事件だ。だが、このドラマでは、そのテスの行動の裏にどういう純粋な思いがあったかを描く。それでも殺人には変わりはない。先に教訓と書いたが、いかに格好よく見えても、また実際に人の心に格好よく記憶されても、ヤクザの末路は悲しいものだ。だが、勉強して検事になったり、また政治家になっても、そこには汚れた過去がまとわりつくことがあり、誰も完全に純粋であることは不可能だ。重苦しい内容から、このドラマは日本でさほど評判にはならないだろう。だが、現在の韓国がこういうごく間近な政治史をうえに構築され、そこからさまざまなTVドラマが作られていることを一度は確認しておいていい。そうそう、砂時計はヘリンの父親がヘリンに示しながら人生を象徴的に語る時に登場する。そこでは、金儲けにしか関心のないヘリンの父も、現実のはかなさをよく知っていたことがほのめかされる。挿入歌としては、図太い男の声で歌われるロシア民謡が使われている。それは日本の昭和3、40年代のドラマの雰囲気を漂わせる。チェ・ミンスの演技は今回初めて見たが、ペ・ヨンジュンでは計れないほどの多彩な男優がいることを知る。他の俳優も、ここでこんな演技をしていたのかと大いに納得させられ、脇役が韓国ドラマではとても重要であることを再確認する。