ブログを始めた日に作ってまだ全然投稿していないカテゴリーのひとつに『最近よく聴く音楽』がある。このタイトルはあまり気に入っていないので変更する予定があるが、今日は取り合えずまだこのままにしておく。

それで実は、自分が今よく聴く音楽などブログに書いても他人にはどうでもよいことなので、このカテゴリー自体をやめておこうかという気も一方にはあるが、それでも音楽(あくまでもレコードやCD)について何か書きたいと思うから、さてどうしたものかとブログを始めて以来ずっと何をどう書くか迷っている。自分自身が他人がどのような音楽を好きになってそのことについて熱弁をふるっているのを見てもほとんど何の関心も湧き起こらないから、繰り返すが、個人的な音楽感想文などほとんど意味はないと思う。それでどうすればそういう気持ちからではなくて音楽について書くことが出来るかと考えているが、選曲の基準や内容の一定の取決めを設けることなど出来そうにない。そのために書きたい気持ちはあってもなかなか踏み出せないでいる。ところで、昨夜は物凄い大雨で、その音で深夜に目が覚めたほどだが、今ちょうど正午だが、とてもからりといい天気だ。こんな夏のいい天気には毎年決まって思い出す曲がある。そして実際にレコードを引っ張り出して針を落とすかと言えばそうはしない。もういつでも頭の中に再生させることは出来るからだ。それでいてレコードが不要かと言えばそうではなく、手放す気はない。またCDでも同じ曲を所有しているが、こっちはあまりありがたみがない。さて、その曲とはタイトルに書いた「YES IT IS」だ。これをこのカテゴリーの第1回にしようと急に思い立った。そしてすぐにワープロのスイッチを入れてキーをこうして叩くことになった。
この曲を初めて聴いたのは中学2年生で、ラジオからであった。ちょうど40年前のことだ。ビートルズはこの曲以前に好きな曲がもうたくさんあったが、この曲だけはどうにも不思議な感じがして、今もその思いは続いている。当時発売された『ヘルプ!』というLPには収録されず、この曲を聴くにはドーナツ型のシングル盤に頼るしかなかった。そのジャケットは緑色の背景にビートルズの4人が写るもので、ジョージだけが別の方向に目を向けていて、それまでの流行歌にあるようなジャケット写真とは全く違った変な構図の写真だ。それは構図が崩れているというのではなく、新しい感覚のそれで、中学生でもそのことはよくわかった。このシングル盤は1965年の発売で、A面は映画の『ヘルプ!』にも使用された「涙の乗車券」となっているが、当時のラジオのディスク・ジョッキーかあるいは本で読んだのかもしれないが、本当は「YES IT IS」をA面にする考えもあったと知った。このA、B面の指定はおかしなもので、レコードとしてはどちらも全く同じに見えるからどちらがA面でもいいが、ラジオ曲に売り込むにはどちらかをA面に指定する必要がある。もっとも、ビートルズの人気が翌年以降もっと決定的になった時、シングル盤に収める2曲ともに大ヒット間違いなしという自信を得て、裏表どちらもA面扱いが行なわれるようになった。この「YES IT IS」はそんな時代より少し前のシングル盤であるので、明確にB面曲として世に出たが、不思議なもので、一旦そう指定されるとみんなA面の方ばかり賛美してB面はお供え物のような扱いだ。そのためにラジオでかかる回数はきわめて少なくなり、そのために現在でもこの曲は埋もれたビートルズ曲の扱いを受けている。またジャケットを見てもわかるように、「涙の乗車券」の方はちゃんと日本語に訳してしかもレタリング・デザイナーの手によって特別の書体として大きく印刷されている。一方「YES IT IS」は中学生でも簡単にわかる「はい、そうです」の意味で、これでは訳しても日本語の題名にはなりにくい。いや、まずならない。もっと格好よいタイトルにする必要がある。だが、「YES IT IS」をどのように格好いい日本語のタイトルに置き換えることが出来るだろうか。これはこのまま片仮名で表記するしかないように思える。当時中学生の筆者としてはそう思ったし、この考えは今も変わらない。「涙の乗車券」の原題もそうとうに変わっているが、「YES IT IS」はもっと変で、こんなタイトルの流行歌が欧米にかつてあっただろうか。
ビートルズは騒々しい音楽ということで中学校では非難の対象になった。というより、ビートルズの音楽がどういうものかを正しく知る者がごく少なかった。歌謡曲と違って洋楽と呼ばれた海外の流行歌をラジオで聴くのはごく限られた少年のすることで、それ以外には日本にはもっと以前にプレスリーゆずりのロカビリーが大いに大人の間で幅を利かせていて、そうしたファンを熱狂させる音楽は良識派からは頽廃的とみなされて青少年にはふさわしくないとされていた。ビートルズの音楽とロカビリーとの関係は全くなくはないが、ビートルズはもっと洗練された何かを携えて登場した。ロカビリーに心酔していた大人の一部はビートルズ・ファンに移行したかもしれないが、それでもビートルズはそうした大人よりもう少し下の世代から支持された。その意味でロカビリー・ブームの落とし子のように見られ、そうした音楽を聴くのは不良と意見されたのだろう。しかし、当時の不良はビートルズなど全く聴かなかった。どのような音楽であれ、本当に音楽を好きになる者に、いわゆる当時の意味で言う不良はいなかった。この当時の意味の不良というのも語弊があるが、簡単に言えば勉強せずに悪さばかりをして少年院送りになるような連中のことだ。そんな不良でもそれなりに良識的なことはあって、現在のわけのわからぬ変ないじめ事件の首謀者とは少し違っていたが、ま、こういう話はここではひとまずどうでもよい。ビートルズがロンドンでは普通の真面目な青年とは違って、いわゆるはみ出し者で、前述の不良に近い存在に近かったことは中学生でもよくわかった。ただ音楽というものがあったので、そうした自堕落な人間になることを免れて、そして成功を収めた連中という見方をしたものだ。つまり、好きになって打ち込める対象があれば、単なる不良にはならずに人々を大いに喜ばせられる人気者の存在になるということだ。この中学生時代の筆者の視点は深く刻印されて今に続いている。
学校ではバッハやベートーヴェンに始まる西洋のクラシック音楽が芸術であると教えられて、音楽室に行けば必ずそうした大作曲家の顔写真がずらりと並んでいた。この点、今はどうなのだろう。ベートーヴェンは確かに大作曲家に違いない。だが、そのこととすべからくベートーヴェンの音楽を誰しも愛好すべきということとは別問題で、ベートーヴェンを深く知るにはベートーヴェンが生きた時代の当時のヨーロッパ事情やあるいはドイツ語もよく学び、音楽の歴史をそれなりに知る必要があるのではないか。このことは中学生の時に漠然と思い、納得出来ない事柄であったが、今もその思いは変わらない。ベートーヴェンのある音楽だけを何の前知識もなしに今ある人に聴かせた場合、その人が本当にその音楽に内在するありとあらゆる芸術的なことを理解するかと言えばそれは全くその反対で、おそらく奇妙な音としか感じられないのではないかと思う。これは少々言い過ぎかもしれないが、ベートーヴェンの苦悩や芸術観は時空を越えて常に存在するはずの真空の中にとどまっていると考えることは、筆者にはかなり滑稽に思える。芸術をそのような真空状態に押し込めて聖なるものと崇める考えはどちらかと言えば筆者は賛成する方だが、日常の卑俗な音楽とは対照的な位置にあるものの代表としてクラシック音楽を奉るほどに、学校で音楽を教えられる子どもたちは混乱を来す。なぜなら音楽室に楽聖の肖像が掲げられるが、歌うのはもっぱら唱歌であり、それが芸術とされるものとどう関係するのかは教えられないからだ。素朴に歌を歌うことは楽しいし、みんなで輪唱したりするのも実に面白い。そんな記憶は誰にでも共通してあるだろう。だが、もしそれが芸術的行為ならばビートルズだってそうだろう。中学生の筆者はそう思った。それは今も変わらない。
聖なるものの研究において音楽がどのように研究対象になっているのかいないのかはわからない。典礼音楽というものがあるから、そうした研究は一方では行なわれているはずだと思うが、さて実りが多いのかどうか。楽聖の肖像を子どもたちに常時示しておきながら、日本の音楽教育の中からベートーヴェンやそれに続く大作曲家のような才能がはたして登場したであろうか。こういう問題はここで述べている論点からは外れるかもしれないが、それでも義務教育における西洋クラシック音楽の教え方のつまらなさは他に例がないほどのように思える。そこには妙に権威を崇拝させる圧力がある。ベートーヴェンの音楽を偉大だと思わないと言えば、それは無知の証拠であり、野蛮とされかねない暗黙の視線がある。そのため敏感な子どもは大人になってこうした西洋のクラシック音楽とはまず無縁な生涯を送る。しかしそれで正しいのだ。音大に行って自惚れだけは一人前の人間を量産している日本のクラシック音楽の「業界」などほとんど非生産的で閉鎖的な世界に思える。そうした行為の集積や閉じた空間のどこにどういう芸術が存在し、またそれは一体誰のためのものなのか。着飾ってホールにクラシック音楽を聴きに行く人々にとっては、それがあたかも聖なる儀式に等しい場として機能しているのだと思うが、真に聖なるものがそこにあるかどうかは大いに疑問だ。ベートーヴェンを演奏する大半の者がベートーヴェンとは似ても似つかぬ生涯を送り、その弟子がまた同じことを繰り返す。ちょうどキリストとキリスト教との関係と同じだ。中学生の筆者はすでに新興宗教などが大嫌いで、今もそれは変わらないが、無限定に師を崇めるような団体なり人々を嫌悪していた。そうした狂信を恐ろしいと思っていた。
ロカビリーを嫌悪した良識派はそこに痙攣と叫びによる忘我状態を見たからかもしれない。そうした統率が取れていないものは厳格な形式で書かれたベートーヴェンの曲とは比べることすら汚らわしいというわけだ。簡単に言えば野蛮と洗練という対比だ。けれどもおかあなことにクラシック音楽でもカラヤンがビートルズと同じような人気者的な見方をされていたことは確かで、それをもっと簡単に言えば格好よい者にはファンが群がるということだ。ビートルズを格好よいと思う心とベートーヴェンをそう思うのとは同じ地平にあるのではないか。そしてすでに歴史的に権威づいているベートーヴェンを尊敬の眼差しでもし見る中学生がいるとしたら、筆者にはそれは鼻持ちならない奴に見える。こんなことは不可能だが、もしベートーヴェンとビートルズが同時代にいるとしてまだどっちも権威を得ていないとして、はたしてベートーヴェンにビートルズ以上のファンがついたかどうかはそうとう怪しい。べートーヴェンの音楽よりもむしろそこに付着している揺るがないと思っている権威に心酔している音楽ファンが多いのはないかという疑いが筆者には中学時代からある。自分で見つけた気に入ったものというのは大切なものだ。そしてそれは大人になってからではなく、もっと幼少時代に遡るものである方がよい。大人になれば不純な思いがかなり混じっている。それが自分で気がつかないか、あるいは知っていても知らないふりをしているだけだ。それで幼少時にベートーヴェンを好きになるということはあり得るだろうか。あり得るのは間違いない。ベートーヴェンは大人になってから音楽を始めたのではないからだ。すでに幼少の頃からやっていた。そのことを考えると、ベートーヴェンの音楽ないしベートーヴェンが日常聴いて演奏していたであろう音楽を幼少時に感動していなければなかなかクラシック音楽の純粋なファンにはなれない気がする。自分のことを言えばそういう環境とは全く無縁ではあったが、すでに数歳の頃から毎日ラジオが鳴っていて、あらゆる音楽をそこから聴いていた遠い記憶がある。母が内職をしていてTVも家にない環境であったからだが、あらゆる音楽をたとえ貧弱なラジオにせよ、毎日聴いていたことはその後の筆者に大きな影響を与えていると思う。きっとベートーヴェンも鳴っていたはずだ。だが、中学生になって好きだと言ってくれる同級生の女子がいるような生活の中でビートルズは突如としてラジオから耳に飛び込んで来た。
こんな話をしていてはとてもきりがないので適当に切り上げよう。イエス・イット・イズ! 中学生の頃は毎年夏休みになると大阪市内から母の姉のいる京都の淀に2週間近く遊びにやらされた。そこには高校生の従兄がいて、ビートルズのドーナツ盤も少しはあり、また同時期のポップスのレコードもあった。ベンチャーズやクリフ・リチャードだ。そしてビートルズのドーナツ盤の1枚にこの「涙の乗車券/イエス・イット・イズ」があって、どういうわけか筆者はこのB面が好きで、開けた窓から日中の入道雲が湧き上がる青空を見上げながら、ステレオで何度も繰り返し聴いた。自分ではこのレコードを所有はしていなかったが、同級生が持っていて、聴きたくなればよくその友だちの家に行ったものだ。その同じレコードが京都に遊びに行ってもあったので、何をすることもない昼下がりはレコードを聴いて一緒に歌い過ごした。窓を開けた下には朝顔の葉が繁り、その表面を触るとうぶ毛がシャワシャワとしていた。万年筆の青いインクを一度その葉の表面にぼとりと落としてしまったことがある。何日もその葉には黒っぽい染みがついたままになっていた。そんな遠い夏の記憶がこの「イエス・イット・イズ」から蘇る。この曲は1965年2月中旬にわずか5時間で収録が完成したというが、夏ではなくて真冬であるのが意外だ。だが、ビートルズはその直後に映画『ヘルプ!』の撮影のためにバハマに飛んでおり、この曲に夏の印象があるのは案外そのバハマ行きへの期待が関係しているかもしれない。いや、筆者のみがこの曲を聴いて夏を連想するのかもしれないが、それでもジョージが弾くトーン・ペダル・ギターの音色はビートルズの曲としては珍しくこの曲でのみ効果的に使用されていて、その表情豊かな揺らぎのあるメロディは夏のあらゆる情景を連想させるにもって来いのものだと思う。ジョン・レノンが痙攣と眩暈を生じさせるようなうるさいロックン・ロールを好んで演奏する一方でこうした実に叙情的とも言える曲を全くさらりと作曲して歌ってみせたことは、ほとんど筆者にとっては天才が行なう奇跡に思える。中学生の筆者はそう考えたが、今もそれは変わらない。その歌声はベートーヴェンの歓喜の歌のようにみんな手を合わせてどうのこうのといった高揚感とは無縁の単なる個人の叫びに過ぎないものだが、結局のところ最後の最後に残るのはそうした個人の切なる叫びでしかない。そしてそれが聖なるものではないと誰が断言出来るだろう。イエス・イット・イズ! そういうことを教えてくれたのは学校の音楽教育ではない。イエス・イット・イズ! 自分の全くの心の空白の中にいつの間にか忍び込んで大きな位置を占めた音楽、ビートルズによってだ。イエス・イット・イズ…