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●見かけた植物、その1
い物と運動がてらにスーパーにほぼ毎日出かける。比較的近所にも1軒あるが、大雨でない限り、徒歩で往復1時間以上かかるところにあえて行く。いつも同じ道を歩くが、植物の変化が楽しい。



ところで、今年の嵐山は例年になく紅葉が美しいとニュースで聞きながら、最も美しく紅葉する亀山公園あたりには行くことがなかった。10年ほど前の秋は、生まれて初めて見るほどの美しい紅葉を嵐山で堪能した。数日間、いつも昼になると10分ほど歩いて紅葉を見に行ったが、そのことを思い出すだけで、もう紅葉は見なくてもよいと思うほどだ。そして、今年の紅葉は、その時に見た場所には一度も歩いていないものの、とてもその時ほどではなかった気がする。紅葉の代表は楓だが、わが家の裏庭には、数年前に種子が飛来し、空いていた植木鉢に育った楓がある。年々大きくなっているが、それが紅葉したのを見たことがない。買った隣家の裏庭にはもっと年数の経った楓が2本植わっている。樹形が全くでたらめで、先日かなり剪定して整えた。小さくはあっても、こういう古典的な木が庭にあるのは気分がいい。そう言えば植えたい木はもっと別にあるが、小さな庭ではかわいそうだ。最近は食べられる実の出来る木がいいなと思い始めている。先日は隣の地区の自治会長にそんな話をしていて、梅は何年で実が出来るのか訊ねた。すると、桃栗3年柿8年、梅13年という返事があった。13年も待つ必要があるとは、もっと早く植えればよかったが、13年はあっと言う間だろう。ただし、筆者はその時まで生きているだろうか。梅の木は横に広がるので、裏庭に植えるとそれだけでいっぱいになるが、自宅で梅の花を見たいものだ。また、1本だけ植えても実がなるとは限らない。実のところ、来年の2月頃に梅を種子から育てようと、数か月前から準備をしている。そのことに関しては来年書くが、筆者のこだわりがわかると思う。さて、紅葉は今年は興味が持てなかったが、散歩中に見かけた植物について書いておこう。
●見かけた植物、その1_d0053294_9451462.jpg
 スーパーへの途上、畑が3つある。そのうちのひとつは、畑に沿って狭い側溝がある。筆者はその畑に来ると、まるで子どもみたいに、道の真ん中から急にその側溝に移動してその上を歩く。バランスを崩すと1メートルほど下の畑に落ちる。そのスリルがいい。片側は道であるから、そっちに体を振れば落ちることはないので、危険でも何でもないが、もう片側は落下の危険があるというのがいい。そしていつも思い出すことがある。10代半ばの頃だ。叔父の家に筆者と同年齢で宇和島出身の女性がふたり住み込みで働いていた。そのうちのひとりはとてもませていて、また向こう見ずであった。叔父の家からは100メートルほど先に海辺があった。そしてある夏、その海岸で工事が始まった。大きな鉄骨が運び込まれ、どんどん何やら形づくられて行く。きれいな砂浜がなくなって行くことがわかってさびしい思いをした。ある夜、彼女とその海岸を散策していると、急に彼女は海に張り出した1本の長い鉄骨の上を歩き出した。幅は20センチほど、長さは30メートルほどか。水面まで4、5メートルの高さがある。それに、突端まで行くと、真下の海はかなり深いはずだ。彼女は鼻歌混じりに両手を広げ、バランスを取りながら綱わたりをするように素足でそこを歩き始め、あっと言う間に突端まで行って姿が小さくなった。真っ暗ではないが、夜だ。足元はよく見えないはずなのに、まるで平気であった。臆病な筆者はとてもそんな真似は出来ず、岸辺で待っていた。それに危ないからやめろと言った。だが、海育ちの彼女は、仮に海に落ちても平気で、むしろ夏のことでもあり、泳ぎたかったのかもしれない。筆者は全く泳げず、今も足の届かない水辺は恐い。彼女が歩いた鉄骨は、湾岸高速道路の基礎になった。叔父の家は人手にわたり、またきれいだった砂浜には降りられないようになった。それどころか、頭上をビルのように背丈が高い鉄とコンクリートの塊の道路がずっと彼方までさえぎり、その上を走る車は激しい音を下に降り注ぐばかりで、海のかけらさえも見ることは出来なくなった。何という自然の破壊だろう。そんな道路を作る必要があったのか。日本のどこにでもあったような砂浜は、みなそうして鉄とコンクリートで塞がれた。畑沿いの側溝上を歩く時、筆者は必ずその40年以上前の彼女が歩いた鉄骨を思い出す。それに比べるとその側溝は全く安全でアホらしいが、散歩の中では唯一スリルらしきものを味わえる瞬間なのだ。
●見かけた植物、その1_d0053294_945555.jpg
 その側溝の末端部分をさえぎる形で、畑の端に今年は見慣れぬ草が生えて来た。農夫が植えたのかもしれない。その草が筆者の行く手を少々阻む。毎日往復でその草に触れながら側溝上を歩くため、しまいには草は筆者に遠慮して側溝を覆わないようになると想像するが、いっこうにその気配はない。風にゆらゆら揺られながら、筆者の足元を優しくなでる。2、3株植わっていて、11月に入って、そのうちの1株に花か実らしきものがたくさんついた。間近で見ると、スズランの花のような形でかわいい。何と言う名前の植物かと思ってネットで調べると、どうもホウキグサのようだ。草を刈って束ねると箒の代わりになるところからそのような名前がついた。だが、ホウキグサは秋には黄色や赤に染まる。筆者が見るものは、一部黄色にはなったが、今でもまだ緑色と言った方がよい。それにとても柔らかい草で、束ねても箒代わりにならない。ホウキグサとは思いながら、別の植物かという気もしている。またホウキグサはよく育つと、全体が丸くなるようだが、筆者が見るものは全然その気配がない。今年初めて見かけたが、気になるとあちこちで目につくものだ。まず、その畑から数十メートル離れた家の玄関先に2株ほどあった。こっちは全体が黄色くなっている。また、桂川沿いの畑の隅にも1株見つけたが、それはかなり赤く、形からもホウキグサだ。この謎めいた草はふわりとして面白い。こんなになよなよとしていて大丈夫かなと思うが、かえって風になびいて折れたりすることがない。ただし、筆者が毎日触れることには我慢がならないかもしれない。だが、その側溝上は筆者が先にいつも通ることにしていたのであるから、新参者はこの草の方だ。
 さて、スーパーに行くにはいつも同じ道を往復すると書いたが、すぐ近くに別のスーパーが2軒あり、それらにもたまに立ち寄る。そういう日は、部分的には別の道を歩くことになる。そして、その道沿いにはもう30年も前から馴染みの印刷屋があって、たまに主人と顔を合わせて立ち話をするのだが、その印刷屋の斜め向いの月極駐車場の片隅に、2、3年前から名前の知らない大きな花を咲かせる木を見かけた。今年も同じ場所に同じように咲いている。その様子は、まるで夢に出て来るような不気味な花と言えばよいか、あまりにもストレートな、いかにも花という形の花で、筆者にはさっぱり面白くないが、そのことでかえって気になる。花の形はクレマティスに似ているので、最初はその品種かと思った。だが、どうもそうではない。葉がまず違う。それでネットで名前を調べようとして、ある画面を見たところと、何とそこには筆者が見たのと同じ花の色と形の植物の写真が出ていた。そんな偶然と幸運があるとは信じがたい。その花を最初見かけた時と同じほど驚いた。花の名前は皇帝ダリアと言う。なるほど堂々として背丈があるので、ダリアの中でも皇帝と呼ばれるほどはある。そして、ダリアだとわかって納得した。ダリアは秋の花で、このように大型で咲くからだ。だが、筆者が見慣れたダリアは八重咲きで、このように一重ではない。金島桂華の若い頃の代表作に「葡萄とダリア」がある。ダリアはいつ日本に入って来たのか知らないが、大正時代にはもう馴染みであった。皇帝ダリアはどうだろう。筆者は木に咲く大きな花は好きだが、大味な皇帝ダリアを庭に植えたいとは思わない。その花を見ていると悪夢を思い出しそうだ。「皇帝ダリア」は7文字なので、俳句にする時には、正式な名前で6文字の「コダチダリア」を選ぶ方が便利だろう。そうして一句作ってこの画面右下の「つぶろぐ」に投稿しておいた。秋の花については明日また書くつもりでいる。
●見かけた植物、その1_d0053294_9462944.jpg

by uuuzen | 2010-12-18 09:47 | ●新・嵐山だより
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