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●徳川美術館
力に屈服したみたいで惜しいという意見が今TVから聞えた。大阪道頓堀にあった有名な屋台のたこ焼き屋が、市所有の土地を不法に占拠しているということで撤去を命じられ、罰金つきの強制撤去の前に自主的に立ち退いたのだ。



●徳川美術館_d0053294_16131246.jpgその店の前をよく通ったものだが、いつも行列が出来ていたほどで、収入は付近の店並みかそれ以上であっただろう。市は最高裁まで戦い、不法占拠だと認められたために今回の強制撤去を申しわたしたが、長年その場所で営業している店は、そう簡単に引き下がるわけにも行かなかった。昨夜のTVではその店の従業員に対して罵声を浴びせる男性が映った。不況のさ中、法律を無視して利益を得る店に憤りを感じる声があるのも理解出来る。その店の行為を許せば、道頓堀の他の場所でも同じように営業する店が出ないとも限らない。だが、今回の措置は見せしめの意味合いが大きいのではないだろうか。土地の不法占拠による商売はどこにでも見られる。それがあまりに多いので黙認しているだけであろう。それでたまに宣伝効果が大きいところを狙う。今回はまさにそれではないだろうか。市は公平でよくやっているという意見も出るであろうし、そうなれば市職員の一方での醜態をかわすことも出来る。筆者が思ったのは、名物にもなっているその店に土地を貸して、少しでも市の収入にする案で、出来れば入札にすればいい。その場所は店の撤去後、即座にプランターが並べられて花壇と化した。それが何とも似合わず、寒い季節になお寒さを伝える。道頓堀は雑然とした雰囲気がいいのであって、人が多く集まる方がよい。それでどの店も営業出来る。たこ焼き屋の撤退に対して、惜しいという声と、けしからんという声の比率がどれほどかと思うが、権力に屈したという意見はいかにも大阪人らしくていい。これは東京から見ればいかにもいいかげんな大阪を体現しているが、いいかげんがあっていい。何でもかんでも法律や条例で縛ると、かえって反動によってより悪質なことが地下に潜りがちになる。そのためにまた法律や条例と、政治家はいつまでも自分たちの仕事があってつごうがよい。理想は政治家が皆無な状態だ。つまり、法律は不要だ。それこそが、人々がみな信頼し合っている姿だろう。信頼がないところほど、書いた何かで決め事をする。
 大阪は江戸から遠く離れていたおかげで、幕府の監視はあまり行き届かなかった。それをいいことにと言えば何だが、大阪には自由の気風が昔からある。商売が発達して、大阪は幕府を支える、あるいは脅かすほどの巨万の富を蓄えたが、そうなれば幕府はますます大阪憎しで、いろいろといちゃもんをつけてそれを帳消しにしようとした。それは借りた者が借金を踏み倒すことで、学校でも家庭でも悪いことだと教えられたはずだ。ところがそれを国が堂々とやった。これでは示しがつくだろうか。幕府はそういうことをして生き延びて来たが、その方法はまるで現代のヤクザと同じに見える。商人が決めたルールに則ってまともに儲けたお金を、武士は町民のように働かないので生活が苦しくなり、最後は脅して借金を踏み倒すというのでは、大阪人が幕府に反感を持って当然だろう。武士は自分たちが一番偉いと思っていたが、それは武装しているからで、その点もヤクザと何ら変わらない。大阪は町民がつながって自治でうまくやって来た。そこには上から指図されたくないという思いがあった。これは京都も同じと言える。だが、京都には公家がいたから、事情はまた違う。上方とひとくくりに言っても、多様なのだ。それは現在に続いているが、東京人からすれば関西でひとくくりだ。また、情けないことに、こっちもそれを受け入れて、いつの間にか関西の呼び方に慣れてしまった。それはさておき、道行く人へのインタヴューで権力に屈した云々という意見が出るほどに大阪はまだ江戸時代からの気風が残っている。大阪人の筆者がザッパ好きになったのも、そこからも説明出来るかもしれない。それもさておいて、富士正晴の随筆を読んでいると、TVはよく見るが、徳川幕府が何でも正しいという結末の時代劇ばかりと批判的に書いていた。そこにも反権力と言わないまでも、江戸や東京に馴染みがうすい思いがあるだろう。また、ある自治会の会長と先日話していると、日本人のお上意識を吐き捨てるように意見していた。そういう思いの人が自治会長を務めていることが面白い。だが、京都や大阪も東京と同じようになって来て、今では法律や条例で決まったことは守りましょうという考えが強い。それは当然なのだが、そうした法律や条例が出来る前に、もう少し別の方法がないかというのが大阪人の考えだ。人間の生活に、人間を超えるような書いたものがあっていいはずがないという思い、またどんなことでもそうした文章で決められるとは限らないという思いだ。あるいは、決められたことがいつも正しいとは限らないではないか。時代も人間も動いているのであって、時代にそぐわない法律はたくさんある。また、それらを逐一改めるには、今の数倍の役人が必要になるだろう。そんな税金の無駄使いは出来ない。
●徳川美術館_d0053294_16135881.jpg
 さて、昨日までで「関西文化の日」に出かけた施設については書き終わった。スキュルチュール江坂を見た後は、御堂筋線の地下鉄に乗って真っ直ぐに南下し、天王寺の市立美術館に行った。そこで企画展『住吉さん』を見た後、地下鉄に乗って天六のとあるミュージアムに行き、閉館の5時まで見た。残念ながらカメラの電池をポケットで温め続けたが、同館では撮影する電力が残っておらず、写真が1枚もない。そのために同館について書くことは差し控えよう。同館の前を何年も前からよく通りながら、またある人から噂を聞きながら、入ったことがなかったが、無料公開日に合わせてようやく見た。面白い施設なので、またいつかここで報告したいと思う。そうそう、ひとつ書いておくと、同館には大勢の人が来ていて、帰りのエレベーター内で小学生の子ども3人を連れた40代の夫婦を見かけた。夫婦は完全に元ヤンキーで、女は金髪に染め、男は龍の刺繍を背中に入れたジャンパーを着ていて、身なりはかなりくたびれていた。男は腕っ節がよさそうで、トラックの運転手といった雰囲気があり、顔はいかにも暴力団風であった。ところがその男は子どもへの躾が見事で、エレベーターから先を争って降りようとする時、それを優しく小声で諌めた。他人に迷惑をかけずに、少し我慢して先を譲るという態度だ。それを叱るのではなく、面白い表現で子どもたちに語りかけていたし、また1階に着くまでの間、その男が話す内容は実にウィットに富んでいた。その子ども連れの夫婦とはその30分後に、同館が位置する日本一長い商店街の、その中央辺りで擦れ違った。子どもたちは笑顔で父親にまとわりつき、とても仲のよい家族に見えた。どう見ても生活は楽ではなさそうだが、無料観覧日に家族揃ってそのミュージアムに遊びに来たことからして、教育上なかなか好ましいことだ。顔つきや身なりとは裏腹に常識を持っている人は、大阪にはまだまだいる。日本が全部東京化すれば日本はもうおしまいだろう。大阪はせいぜい下品であってよいではないか。上品で冷酷なことよりどれほどそれはましか。また長い前置きになった。以上のことから筆者が徳川美術館をどう思っているかが想像出来るだろう。この美術館に付属する庭である徳川園に関しては以前別のカテゴリーに書いた。その時、勢いに続いて美術館について書いてもよかったが、その気になれなかった。だが、「関西文化の日」について書き終わった後であるし、せっかく加工した写真もあるので、区切りのためにここで書いておこう。それは、昨日スキュルチュール江坂の庭を主題にした現代彫刻について書いた時、徳川園を思い出したためでもある。
●徳川美術館_d0053294_16142633.jpg
 徳川美術館は門が立派で、御所を思い出した。もちろんそれほど大きくはないが、国政を司った幕府の最大の大名の持ち物を展示するものであるだけに、風格があって当然だ。ここはまた愛知では代表する国宝や重文を所有し、いわば名古屋城とともに江戸時代を味わうための代表的な施設だ。筆者が訪れた時は『尾張徳川家の名宝-里帰りの名品を含めて-』と題された企画展をやっていた。これは名古屋開府400年、徳川美術館・蓬左文庫75周年記念展で、この美術館の代表的な作品を見るにはいい機会であった。キモノ姿の女性がかなり多く、茶会があったのかもしれない。同館は、名古屋城二の丸御殿にあった茶室を原寸大に復元して館の中に設置しているが、そこでは茶会は開くことは出来ない。復元はいいが、鉄筋コンクリートの建物の中ではヴァーチャル感が強くて白ける。さて、徳川は江戸が本拠であるのに、なぜ名古屋にこの施設があるかと言えば、財団法人の徳川黎明会は東京目白に昭和6年(1931)に創設され、古美術品をその4年後、つまり今から75年前に徳川家の大曽根別邸に作られた建物で収蔵されたためだ。その意味で、名古屋は関西より関東に属する気がするが、名古屋人もその方がいいと思っているに違いない。どっちつかずの名古屋だが、首都につく方がいいに決まっている。古美術品のほかに古典書籍も持って来られ、それは蓬左文庫に入った。これは正門を入って右手に建物がある。左手は徳川園への出入り口で、正面は徳川美術館の新館で白い建物だ。鑑賞者はそこから見るが、建物内部と感じる短い廊下によって自然に蓬左文庫へとつなり、全室見終えるとまた新館の正面に出て来る構造になっている。下にそのパノラマ写真を掲げる。展示は大量にあって、自分の趣味に応じて展示品の前で時間をつぶせばいいだろう。この美術館の収蔵品で最も有名なものは何と言っても平安時代の『源氏物語絵巻』で、これが美大生によって模写されたニュースは何年か前にNHKで放送された。本物の展示があるかと期待したが、学生による模写であった。だが、古びて絵具が剥落したままを模写しているので、実物とほとんど区別がつかないだろう。模写と言われて見ると、なるほど少し雰囲気が新しく、色も浅いように感じた。描かれた当初の形での復元模写もされたと思うが、絵具の剥落がある方が、ありがたみがあるように感じるのが面白い。また、この絵巻は小豆色がきわめて効果的に使用されていて、その色合いは復元が難しいだろう。昔の絵具の味わいは、質がよかったためか、あるいは経年変化によるためか、風格があって、その感触を味わうだけでも実物を見る価値がある。この絵巻は源氏物語の全部の帖が揃っていない。にもかかわらず国宝となって、切手に何度か採用されるほどに有名で、よくぞ徳川家に伝わった。また、他の帖は他の大名家の所有であったと思えるが、徳川だけがまともな形で伝わり、他は散逸して作品は行方知れずだ。
●徳川美術館_d0053294_1615788.jpg
 能装束を多数所有し、また同じ染織関係では家康が来た小袖があることで有名だ。辻が花の有名な小袖も展示されていたが、これは昔京都で見たことがある。家康が着たものは特別に大事にされ、完全な形で伝わっている。それだけ神格化されていたためだが、辻が花の小袖はかなり大胆で柄が大きくて目立ち、おおらかな仕事ぶりが伝わる。染色は元来そういうものであるべきだが、家康以降、また女性の小袖はとかく緻密で型にはまったものに傾斜して行く。それは徳川時代の厳格な決まりを一方で思わせると同時に、都会文化が江戸に確立したことを示す。里帰りした作品がどれであるのか、またどこから里帰りしたのかよくわからないまま次々と部屋を巡ったが、新館から次の部屋に行く途中、窓の外に小さな枯山水が見えた。わずかな空間をそういうように用いるのはなかなかよい。だが、突き当たりのブロック塀がいささかつや消しで、どうにか隠せないかと思った。展示は陶磁器や絵画、書籍、また嫁入りの道具、刀など、盛りだくさんで、京都国立博物館のかつての常設展示に似る。茶室の復元と同じように、障壁画を復元して殿様が座る部屋を復元したコーナーがあった。その金ピカ具合は、『源氏物語絵巻』とは全然別の色感で、いかにも武士らしい威厳があった。また、武士の魂である刀は、信長が使用したものや、家康が所有していたものなど、由緒ある国宝揃いで、筆者はほとんど関心はないが、刀を見るといつも妙にその気分が長く心に残る。それは絵画を見た印象とは全く別のもので、一種の恐さだ。そういうものを常に携えていた武士が、町民に君臨して周囲を睥睨していた姿は見たくないものだ。武士でもろくな人間はいなかったはずで、また町民でも優れた人格者がいた。そういう矛盾が頂点に達して幕府は崩壊したが、国際的な時代の趨勢でもあった。今は武士に代わってどういう人種が一番偉そうにしているだろう。やはり為政者ということになるだろうが、家康のように神格化される者はもう出ないだろう。それでいいように思う一方、こう毎年のように総理大臣が交代するでは、いっそのこと、総理大臣は町の自治会長と同じように、1年交代という法律を作った方がすっきりとしていい。それでも100年に100人でしれた数だ。
●徳川美術館_d0053294_16153918.jpg

by uuuzen | 2010-12-17 16:18 | ●展覧会SOON評SO ON
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