ぜひとも見たいという思いでこの展覧会に出かけたのではない。「関西文化の日」で無料で見られることがわかって、金島桂華展の後、立ち寄った。

市バスは1日乗車券が500円で、これは3回乗れば元が取れる計算で、せっかく外出したからには京都以内一周の形で展覧会を梯子することにしたのだ。11月14日だったか、堂本印象美術館の後、同じく無料公開日だった立命館国際平和ミュージアムに行き、その後わら天神のバス停から乗って岡崎神社前で降りた。その間30分ほどか、バスの中でぐっすりと眠った。展覧会を1日にいくつも見ることがもう疲れる年齢になっている。岡崎神社前から5分とかからないところが観峰美術館だ。この美術館で以前開催された3回ほどの企画展については書かなかった。バティック展、イカット展、そしてカリグラフィ展で、最後のものは西洋の書と言ってよく、またとても珍しい企画なので、この美術館での開催はふさわしかった。イタリア人だったろうか、中年の女性が講師となって、製作光景のビデオが上映されていたが、日本でカリグラフィの教室を開いているようであった。日本人はアルファベットのフォント・デザインにも才能を発揮して国際的に活躍する人があるから、古い時代のカリグラフィも文句なしに器用にこなすだろう。金箔も使用した豪華な西洋の飾り文字は工芸と言ってよいものだが、日本の金箔の方がまだ繊細で、きれいな仕事をする人がいるかもしれない。だが、そうしたカリグラフィは、中世の羊皮紙を使った写本において発達した文字装飾と文字の書体であり、やはりイタリア人で、伝統をしっかりと身につけた人にはかなわないはずで、日本人がそれを模倣すると、イタリアの中世の香りとは隔絶した、国籍不明のものになると思える。それはともかく、1000年以上も前のそうした技法や書体をそのまま今に伝える人がいて、まだそういう文字やその装飾の技術を発揮する場のあることが驚きだ。特別な造本の装丁といったところに需要があるのだろうが、普通の紙に一種のイラストのような感覚で書いて作品とすることが出来るので、筆者も暇があれば学びたい気がする。一方、バティックやイカットはインドネシアの染織で、この美術館で開催される理由がよくわかならいが、原田観峰は世界のあちこちを旅行したようで、そうした際に収集したものかもしれない。あるいは、誰からから借りて来たかだが、そのようなことは書かれていなかったように思う。染織品はさほど場所を取らずに保管出来るし、おそらく同館の収蔵品ではないだろうか。バティックやイカットと言えば国立民族学博物館で大規模な展覧会があり、また作品も多く所蔵するから、それに比べると、観峰美術館で開催されるものはもっと小規模でぜひとも見ておきたいというほどではないが、染織関係の展覧会は筆者の仕事に関係するので、つい見ておこうという気になる。
今回はオボリジニの絵画で、これも国立民族学博物館に比較すると点数が限られる分、わざわざ足を運ぶまでもないと思った。だが、コンパクトな展示であるだけにかえってよくわかる感じがあった。それでも、1、2階の作品展示の壁面ののべ面積は、街中の画廊の数倍はあって、それなりにまとまった作品の量だ。帰りがけに売店でこの展覧会の図録を見た。最初の展示ウィンドウにある熱帯性の植物の乾燥して黒くなった丸い塊の果実がひとつあって、それが何で何のためのものかよくわからず、売店にいた係員の女性に質問した。すると、展示場に一緒に戻ってくれたが、彼女にもわからなかった。その実が図録に載っているかと思ってページを繰ったのだが、どこにも説明がなかった。絵画の道具に使うのか、あるいは食べ物なのか、その実の名前も忘れてしまった。図録には展示されていた絵画作品のすべてが載っていて、製作は確か2002年とあった。つまり、8年前に同じ内容の展覧会を同じ場所で開催したのだ。チケットには「Part Ⅱ」とあるので、「Part Ⅰ」の作品とはだぶりがないように今回は作品が選ばれたのかとも思えるが、2回目の展覧という意味だろう。これは、展示された絵画がこの美術館の所蔵品のはずで、8年ぶりであれば筆者のように初めて見る人も多いであろうし、また8年前に見た人は大半を忘れているはずであるから、もう一度開催してもよいと考えられたのであろう。また、まとまった数の作品を持っているのであれば常設展示が実際は好ましいが、この美術館ではほかに展覧するものがあるからそれも無理な注文だ。また、蔵入りさせたままにするのではなしに、よその美術館に貸し出しして、作品の交換展示も出来る。ひょっとすれば先のバティックやイカットはそうして借りて来たものかもしれない。あるいは、アボリジニの絵画をたくさん所有しているのであれば、インドネシアはオーストラリアの北であるので、バティック、イカットはやはりこの美術館の所有の可能性が大きい。他にどんな展覧会があったのか、企画展は年に最低1回はあるようで、これは美術館という名目上、する必要があるのだろう。また、書道に関する企画展があるのかと思えば、筆者の知る限り、観峰以外の日本の書は展示されたことがないように思う。まして前衛の書は最初から念頭にないだろう。東京には書道美術館があるが、そこでは絵画も展示するし、またこことは違った充実がある。

この美術館のひとつの大きな特徴は、毎回映像を見せることだ。今回のアボリジニでは数か所でそれぞれ別の映像を見ることが出来た。どれも1、2分立ち止まって見たが、上映時間を記してしなかったのが残念だ。おそらくそれら全部見るとたっぷり半日は必要ではなかったか。2階の窓のない暗い大広間では、映画館と同じほどの大きな画面にオーストラリアの自然やアボリジニの生活が映し出されていた。それはビデオ・プロジェクターを使用して大きく拡大するため、光源不足から映りは全体にとても暗かったが、広大な国土と自然を映し出すにはそうした大きな画面がちょうどよかったかもしれない。これは例外的に10数分ほど椅子に座って見た。大地や空を多く映し、きれいな映像詩といったふうで、時間があればもっと見たかった。この映像はどこかで販売しているDVDではなく、この展覧会に出品されている絵画を収集する際に専門家を伴って撮らせたもののようで、ドキュメントとしては完成度が高いように思えた。他の場所での映像は、絵画の製作光景、また画家へのインタヴュー、あるいは大昔から岩場に描き続けられているアボリジニの絵画の説明をアボリジニ自身がインタヴュアーに向かってするといったものなど、アボリジニについて多角的に理解が及ぶような方策が採られていた。このことは、みんぱくでもよく行なわれることで、ひょっとすればみんぱくから借りた映像かもしれない。ともかく、絵画だけを並べるのとは違って、映像を同時に見ると、より理解が及ぶ。もちろん絵画は人や風土を表現するが、狭い日本にいてはオーストラリアの自然は理解しにくい。その広大さは特に京都盆地に住む人には想像を絶するほどであるだろう。そういう土地での文化、芸術というものは、日本に住んでいては誤解しやすい。そのため、アボリジニの絵画を一瞥しただけで、「みんな似ている」とは「未開の人々の作品」といった印象でくくってしまう。いや、こう書いていて筆者自身がたぶんにそうであるから、その戒めとしてあえてそう書くものだ。絵画鑑賞の助けとして現地の映像を併せ見るというのは、たぶんに絵画を「理解する」という、教育的な観点で捉えることを意味しているが、絵画だけを見て「感じる」ことが時として的外れになることがある。的外れでもいっこうにかまわないのだが、狭い日本が世界の常識あるいは中心と思っていると、何かを確実に見落とすことがあるのと同じように、ある絵画を深く感じるには、それが生まれた風土をある程度実感する必要はあるし、それは映像が手助けになる。
さて、今回のチケットを見て「Aboriginal Dreamtime Legends」とあって、「アボリジニ」が英語であることを初めて知った。筆者はよく語呂合わせをし、また家内や息子相手に家族だけに通じる言葉をよく用いるが、それが習慣になってしまうあまり、たまに本来の正しい言葉を忘れる時がある。たとえば「順風満帆」をTVである有名人が「ジュンプウマンポ」と間違って発音していて、それが面白いのでそのまま真似したりすることだが、これが過ぎると、いざという時にその間違いが口に出そうになる。そういうことから、「アボリジニ」は「アボジリニ」とよく混同し、今までに後者で書いたこともきっとあると思う。もっとも、それほどに筆者にはアボリジニの芸術に関心がうすいのだ。また、「アボジリニ」は韓国語の「アボジ(父)」から思いついたのであろう。だが、英語であるとわかったからにはもう間違うことはないが、今度は「アジリボニ」とか「アリボジニ」とか言ったり書いたりしてしまいそうだ。それはともかく、「アボリジニ」が「SHEIK」を「酋長」と訳す時のように、一種の差別的な響きを持った言葉であることは知っていた。今改めて見ると、「Aboriginal」は「ab」と「original」の合成語で、「ab」は「離れる」の意味であるから、「Aboriginal」は「オリジナルを離れる」という意味になる。辞書を引くと「未開の」と訳してあって、これは「オリジナルではない」すなわち「模倣」との意味ではなくて、「オリジナル」をさらに遡った混沌とした状態にあるという意味と考えてよい。「オリジナル」は、その混沌からある一定の方向性を持った文化の始まりにたとえられる言葉で、「アボリジナル」はいわば「オリジナル以前」だ。「Aboriginal」から「アボリジニ(Aborigini)」という民族を示す言葉が生まれたはずだが、英語に発する「アボリジニ」をオーストラリアの先住民が呼ばれて喜ぶはずもないということで、本当は彼らが自分たちを表現する言葉が好ましい。この点はエスキモーとイヌイットの対比を思い出す。だが、ここがややこしく、またもやに霞んだように思えるのは、先住民は多くの地域ごとに言葉が違っていて、どの部族(と言っていいのかどうかわからないが)の言葉を代表させるかという問題がある。そしてその多様性はアボリジニの絵画にそのまま表われている。たとえば去年大規模展があったエミリー・ウングワレーのように、画家として独立し、部族的特徴を脱した表現に代表されるものから、限られた数色の土絵具を用いて代々描かれて来た素朴な図像を表現をする場合、そしてそれら両者の中間的なものや、またほとんどお土産品と化した、つまり悪い意味での民芸品的なものまで玉石混交で、どれが真にアボリジニ的なものかの判断は難しい。実際はそれら全部がアボリジニの絵画であって、それだけアボリジニは生活が白人に同化し、古くて純粋なものを分化することが不可能になっている。これは現在のバティックやイカットも同じで、日本のキモノもそうだと言える。

会場に入って左手にウィンドウがあって、まずそこに2枚の地図のパネルがあった。オーストラリアの地図で、今回のアボリジニの絵画が描かれた地域をだいたい示している。それは大陸の中央部の北部だ。それ以外の地域でもアボリジニが住み、絵は描かれていると思うが、多彩なのはその北部に散らばる各地域なのだろう。図録を買わず、またメモを取らなかったので、どの地域にどういう画風の絵が生まれているかを説明出来ないが、ウングワレーは確実に今回の展示にあった10種ほどの画風の中から生まれて来た才能と言ってよい。その意味で今回の展示はウングワレーよりももっと無名的で、その地域の誰が描いても似た傾向になるのであろう。だが、誰もが絵を描くとは限らないから、ある部族のおそらくひとりから数人が、その部族を代表する画風を表わしているだろう。また、その画風は、ある程度代々受け継がれて行く。それは文字を持たず、その一方で伝えられて来た神話があるからで、絵画はその絵解きのように機能し、ある時代にある画家が自分の個性を目いっぱい表現するということはあまり許されていないのではないか。だが、それも怪しい部分があって、売れるとなれば白人が喜びそうなものを量産することもあろうし、また白人の好みにしたがって画風を現代絵画風に変化させる場合もあるはずだ。そのため、アボリジニの絵画にはどこか白人文化に汚されてしまった不純なものも多少は混じる気がするし、そうした安易な作品は今回の展示にもわずかに混じっていたように思う。ただし、それも含めてアボリジニであり、そういう一種の捉えどころのなさがおおらかさに転換して見える瞬間はやはりあって、安易に見えるものでも、それを筆者が簡単に模倣して描くおとが出来たにしてもそれは意味あることではない。また、そうした安易に描かれたような外国人相手の土産絵と呼ぶべきものでも、現地の香りはふんだんに保っており、その香りは逆立ちしても京都からは生まれないもので、たとえなものではあっても、現地で買い求めて来た価値はそれなりにある。筆者の好みは土絵具を使って描いたもので、ウングワレーのように西洋の絵具で描いたものはあまり面白くない。土絵具で描いたもののルーツは1万年か2万年前か知らないが、とにかく人類最初の絵画と言ってよいほどに古い、レントゲン絵と呼ばれる、動物や人の体内を見透かしたような線描画が、岩陰にアボリジニによって描かれていて、その壁画の一部を消してしまう形でその後もどんどん描き足している事実を映像で知った。日本で言えばキトラ古墳の壁画の上にどんどん別の絵を加えるような行為で、古いものを破壊するとはとんでもないという意見が出そうだが、アボリジニには先祖に敬意を表しながら、今の自分たちがそこにつながっていることを確認する意味でも、そうした壁画に何かを描き足す。そうして重なった絵画は、西洋の絵画の概念では捉えられないもので、この過去と現在が同居した合作はとても面白いと思う。遺跡がどんどん過去の上に堆積するのと同じように、絵画も物理的に積み重なっていいではないか。そこには様式のそれなりの統一があり、文字を持たない民族が、絵画でいかに思いを伝達するかがよくわかる。
骨のように、内部を空洞にするとそれが楽器として使えることを人は大昔から知っていたが、アボリジニはユーカリの木を用いてその巨大なものを作る。その様子が2階の大きな画面で映し出されていた。ユーカリの林があり、そこに踏み入れたひとりが、たちまちある1本を根元から切り倒した。それやかなり無謀で環境破壊を連想もするが、それは早合点で、アボリジニは見て少し叩いただけで、その木の内部が空洞化しているかどうかを判別する。空洞は白蟻によって作られるが、そうした木はもう枯れているから、切り倒してもどおってことはない。そういう木を選んで太くて長い縦笛と呼んでよい楽器ディジェリドゥーを作る。白蟻が内部をすっかり食べ尽しているので、ほとんど内部は手を加えずともよい。ディジェリドゥーを鳴らすのはかなりテクニックは必要なようだが、大きな笛であるから、音は低く、よく響く。それはオーストラリアの大地にまことによく似合っていて、その大らかな音は、彼らの絵画の味わいに通じている。また、その音は部族の合図や連絡に用いられたかもしれない。映像では、水辺での漁の様子も伝えていた。オーストラリアは内陸の何もない砂漠や平原のおMe―時が強いが、案外自然は変化に富み、それぞれの地域に根差してアボリジニが生活して来たことがわかる。その芸術が紹介されてまだあまり年月が経っていないように思うが、それほどの入植した白人が無視し続けて来たということだろう。それが贖罪の意味からか、アボリジニの人口が激減し、多彩な文化のかなりの部分も消失してしまってから保護が唱えられている。それはオーストラリアにすれば観光の資源にもなるからであろうし、またアボリジニが風土にぴたりと沿った生活を営んで来たことが改めてわかったからでもあるだろう。今後はウングワレーに続く世界的に有名な芸術家を輩出する時代に向かうはずだが、その時、無名の祖先が描いた絵が常に規範となり続けると思える。アボリジニが完全に白人化しない限りは。