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●『金島桂華の世界』
命中の堂本印象は、自分が建てた美術館で他の画家の展覧会が開催されることを想像したであろうか。一昨日、この美術館が新たな段階を向かえ、印象以外の画家の作品を展示するようになったと書いた。その最初となったのが今日取り上げる金島桂華だ。



●『金島桂華の世界』_d0053294_1353015.jpgぜひ見たいと思い、関西文化の日の無料公開日に出かけた。桂華の企画展は今回が初めてではないだろうか。京都ではそうだと思うが、筆者が知らないだけか。華鴒(はなとり)大塚美術館の所蔵品を見せるもので、この美術館についてネットで調べると、岡山にあって、1994年に繊維業者が設立し、2006年に「大塚」の文字を含めた。「大塚」と聞くと、徳島の大塚国際美術館を思い出すが、関係があるのかないのか。また、「華鴒」は桂華に由来するかと思えばそうではないようで、収集した絵画の画家の名前に「華」の一字を持つことが多いためだ。筆者が桂華を意識したのは30年以上前になる。「金」と「華」が何とも豪華で、また「カナシマケイカ」にはKの音が3つもあって、その硬質の響きに独特さを感じた。だが、展覧会が開催されないので、全貌がわからない。また、今とは違ってネットで作品の画像が簡単にわかることもなかった。わからないままに何となく気になる画家であり続けたから、今回はまたとない機会と思い、また、なぜ印象の美術館で開催されるのかという疑問も抱いた。本来ならば近代美術館で大企画展があってよさそうなのに、それがないところ、半ば忘れ去られた画家かという思いも持った。また、桂華は印象の弟子筋に当たるためかとも思ったが、そうではない。桂華は岡山出身で、大阪に出て日本画を学び、19歳で京都に出て竹内栖鳳の弟子になった。その期間は2年ほどで、その後東京に出た。栖鳳に学んだ者は京都画壇ではあまりに多いので、桂華もそこに含まれるのは意外でも何でもないが、印象との関係はどうなのか。印象は桂華の1歳年長で、ふたりは同世代だ。だが、印象は栖鳳の門下ではなく、栖鳳の弟子であった西山翠嶂の教えを受けた。当時は現在と同じように、美術学校で学び、大きな公募展に出品して有名になるという道がすでに開けていたが、そうした道を栖鳳やその師の幸野楳嶺が作った。印象は醸造家の生まれで、金持ち育ちであったと言ってよいが、事業が失敗したため、印象は最初西陣織の図案を描くことに従事した。楳嶺もそうした経験があり、明治の京都の日本画家は、京都に染織業が盛んであったことに経済的に大いに救われた。印象は図案を経て日本画を学ぶが、画塾に入って師に就くという、京都画壇の本道からはやや外れた生き方が、後年の抽象画などの伝統に囚われない活動につながったと思える。
 父の事業の失敗から身を起こすという、その活力によって多彩に開花した才能は、画壇の本流に携わる者から見れば、軽佻なものと思えたことも、なきにしもあらずではなかったろうか。こうして書きながら、川端龍子を思い出す。龍子は雑誌の挿絵を描くことから出発し、やがて展覧会場での大画面主義に進む。そうした達者な技術を誇るような龍子の絵をあまり好ましく思わない日本画家はいて、その龍子に認められる姿と同じようなものを印象に思わないでもない。それは筆者の全くの想像だが、そういう一種のはぐれ者としての位置が、印象に自分の美術館を建てさせたと思えるし、その姿は、西洋の画家に劣らない、真の意味での独創性の獲得への自覚を促したのではないだろうか。同じように行動してそのまま西洋に住んだのが、藤田嗣治だが、藤田とは違って印象が京都に留まったのは、同世代ながら、東京と京都の差であったとも思える。その意味で印象は藤田ほどに世界に打って出る気概がなく、京都画壇に独自の位置を占めることを思った、京都の日本画の伝統に対する前衛であった。そうした印象の美術館で桂華の作品を見ることは、違和感があると言ってよい。だが、印象は前衛ばかりを目指したのではない。今回はミニ展示として印象の作品も多少展示され、桂華との違いを確認するには便利であった。ふたりの違いは画題にはなく、筆法にあるだけと言ってよい。その意味で、桂華の作品が印象の美術館で展示されることには何の違和感もない。なぜ展示されるに至ったかだが、チラシを読むと、桂華は大正12年(1923)に、それまで村上華岳が住んでいた衣笠村の家に移り、生涯そこを拠点にした。その家とは、現在の北区平野八丁柳町で、これは平野神社前の西大路通りを西にわたった地区で、歩いたことはないが、その辺りを北に100メートルほどの道を西に進むと、立命館大学の国際平和ミュージアムがあって、それから想像するに、閑静な住宅街で大きな家が立ち並ぶところであるのは間違いない。衣笠という項目で印象と桂華は結ばれるというので、印象の美術館での開催があったのだ。だが、印象は自分の美術館を持ち、桂華がそうではなかったところに両者の生き方と作品の差があるだろう。そして、印象は存命中ならば桂華の作品展を開催させることを許可せず、桂華も拒否したと思うが、市の所有となってしまえば、市はさまざまに活用するし、実際今回の企画展は評価出来る。ちなみに印象は東丘社という画塾の主宰者となったが、そこからは岩澤重夫が出た。岩澤の大きな展覧会は9月に高島屋で開催され、それを見たが、このブログでは感想を書く機会がなかったのでここでわずかに触れておく。岩澤は金閣寺客殿の障壁画を60面ほど完成させて亡くなったが、その仕事もまた衣笠にまつわると言ってよいし、また印象の障壁画の仕事とも関連して考察すべきところがある。一方の桂華は衣笠会を持ち、芸術院会員にまで上り詰めたが、そこからどういう後進が育ったのだろう。
 桂華は印象のように前衛に走ることもなく、花鳥画一本で最初から最後まで押し通したところがある。だが、これは今回の出品作を見ての話で、そこに代表作が含まれているのかどうか知らない。私設の美術館が所蔵する作品の展示であるから、小品が中心ではないだろうか。実際今回は60点弱の出品のうち、大正9年の帝展に出品された2点の大作「葡萄とダリア」あたりが最も古い作で、戦前の作は1割に過ぎない。そのため、後半期から晩年の作が桂華の完成した画風とみなすことになるが、どの画家にもあるように、そうした時期の作は、一種の硬直化が見られる。その硬直化こそがその画家の到達した持ち味とみなすのだが、鑑賞者は、前期の作と比べてどう違って来たかということを考えるから、その変化具合が納得行く場合と、そうでない場合があって、ここに鑑賞者によって当の画家の評価が分かれる。「葡萄とダリア」は以前二度ほど見たことがあるが、今回、他の作品と一緒に改めて見ると、作風の変貌ぶりが興味深い。画題は特異でモダンだ。ダリアという洋花を文人画で馴染みの葡萄と対にしていることや、また画面下部に描かれる鶏は脚にも羽毛が生えて、若冲の鶏を見慣れた目からはぎょっとさせられる。この作品は他の京都画壇の若手が当時描いた画風と同時代性を如実に示し、大正時代のエネルギーに満ちる。ここを出発としてその後どう展開するかが課題であったろう。ちなみに、1986年に新しい京都国立近代美術館で開催された大正時代の京都画壇に絞った企画展「京都の日本画 1910-1930」では、桂華の大正7年の2曲1双屏風「叢」が出品された。「葡萄とダリア」にも描かれるホロホロ鳥に、モミジアオイや里芋の葉、葉鶏頭を描き、異国風、琳派風が伝わる。同作から「葡萄とダリア」への変化は、ぼかしを多用した同時代の感覚に染まった様子が伝わるが、そのぼかし表現は、印象はもっと深化させ、重要な技法のひとつとするのに対し、桂華はきっぱりと用いず、どの部分もくっきりと描くようになる。その意味で「叢」での仕事が後期につながって、画家の持ち味として開花し、「葡萄とダリア」はの画風は例外的であったと思える。
 戦前の作品には素描も含まれた。それらは見事なもので、本画の冷たさとは違った着実で的確な目と腕の冴えがある。そうした素描あっての本画で、本画以上に素描には見所があると感じた。あるいは、そうした素描であるのに、本画になぜ硬直性があるのかとも思った。小品と言ってよい寸法の花や動物、静物の絵が並んだが、どれも間近で見ると、岩絵具の質感が心地よい。技術的には小野竹喬の晩年の作とは違って、もっと完璧に細部の筆致に留意が見られる。だが、人間の手で描くものであるから、コンピュータ・グラフィックの線や面を見慣れた目からすれば、「あら」と言えるものが含まれるのはやむを得ない。その「あら」こそが画家の個性だ。だが、そうは見ずに、それを技術的未熟と見る人はあるだろう。この話に深入りするとややこしくなるので、これ以上立ち入らないが、桂華は、細部の筆致を重視した画家で、画面のどの部分にも同じ比重で完成度を求め、その強固性を求める意識が、画面の硬直性をもたらしたと思える。それこそが桂華の持ち味で、そのどれも金属で出来た彫刻のように画面に定着する鳥や花、葉、枝を見ていると、陶磁器を味わっているような錯覚に陥る。実際の鳥は羽毛があってもっと軽やかで温かく見えるはずで、花もまたそうだが、桂華の手にかかると、どれもが凝固した剥製のように見える。これはそのように描きたいと思ったためか、あるいは老齢化に伴う硬化であったかの判断は難しい。あるいはそうした画風は他の戦後の日本画にも共通して見られるモダンさの表現と強く関係しているとみなすことも出来るが、そうだとすれば、戦後の日本画は大正時代ほどの革新さがなく、衰退に向かう一方であったと言うことも出来るだろう。そして、そういう状況をいち早く感じ取ったのが印象で、早々と抽象画に進んだとも思える。戦後の平和な日本の中で、画家は使命をどのように見つけるかが難しくなったのではないか。現在はなおさらそうで、京都画壇という言葉はほとんど死語に近いだろう。絵は何も日本画に限らない。有名になるには、また時代に求められる作品を生むには、漫画やイラストであっても、またコンピュータで描いた絵であってもかまわないようになっている。そういう中でも一部の者は日本画を描き続けるが、桂華の絵がどのように指標になっていることかと思う。桂華の絵は切手にも採用されたことがる。切手趣味週間の1枚で、阪神大震災の年であったと思う。例外的に寄付金つきであった。その絵は桃色を中心に黒いプードルが描かれていた。昭和初期の作品の部分図だと思うが、犬や猫を描いてもなかなかの才能を見せた桂華であった。代表作を並べる展覧会が見たい。
by uuuzen | 2010-12-07 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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