隣の旧字が「鄰」だが、見慣れなければ「憐」のことかと思ってしまう。「無憐菴」と書くと、非情な人物の住まいのようで、これはこれで面白い。
無鄰菴の表門から入ると、右手に洋館、左手に母屋があり、それらに対峙する形で茶室が離れて建つ。洋館の方ががっしりとしているので圧迫感があり、建築面積が大きいように感ずるが、母屋の半分もない。洋館は敷地内の南西隅に明治31年に建ったが、これは母屋の2年後で、当初からその計画があったのだろう。山県有朋は30歳くらいでヨーローッパを視察しているから、その思い出もこの洋館には反映しているのだろう。だが、細長い三角形で1000坪近い面積の南西角に建てられ、付け足し感が強い。あるいは、洋館の2階から無鄰菴の全体が眺めわたせるので、あえてそんな場所に建てられたとも思える。ともかく、いかにも和洋折衷の別荘で、日本庭園として見ればかなり変わったところがある。入園者は時計回りに園内を一周するので、最初に母屋、最後に洋館を見て門から出るのが正しい鑑賞の仕方であろうが、筆者も含めてたいていは最初に洋館内部を見たようだ。洋館は2階建てで、日本の蔵のような扉が開け放たれていた。表で靴を脱いでスリッパに履き替えて中に入るが、内部はストロボを使わなければ写真を撮影してもよい。1階は1室で、四方の壁はむき出しのレンガのままだ。そこにまず、庭を造った小川治兵衛の肖像写真が飾られ、庭師としての経歴の説明パネルがある。それを見ながら、無鄰菴の敷地の9割以上は庭であり、庭が見所であることからすれば、山県有朋よりも小川治兵衛を称える思いが京都市には強いことを思った。これが無鄰菴の最も大きな印象だ。元老であった有朋と、一介の植木職人であった治兵衛を比べることは、明治であればとても許されないようなところがあったろう。有朋の資金があってこそ、治兵衛の活躍の場も与えられたから、大富豪がいなければ、歴史の残るような名園も出来ない。その意味から、まず有朋ありきのはずだが、政治は形となって残りにくい。それに有朋の歴史的評価も微妙に反映しているだろう。案内パンフレットは3つ折りになっていて、表紙を開くと、まずこんな言葉が大きく書かれている。「あなたの隠れ家は京都・岡崎にありました」。この「あなた」は入園者のことを言っているのか、有朋のつもりなのか、微妙なところだが、巧みさとどこかいやらしさがあって、いかにも現代に似合っている。
洋館の1階には、続いて壁面には治兵衛が手がけた京都の庭の写真が飾られ、最後に山県有朋の肖像写真があった。部屋の中央には展示ケースがあったが、何を展示していたのか記憶にない。壁面の庭のカラー写真は、窓から入る光によってみな色褪せていたが、実際はせいぜい10年ほど前のものであるにもかかわらず、この建物の古さを示しているように錯覚させて、新しい写真よりも味わいがあった。それは治兵衛の肖像写真が明治の古いものの複写であることとどこか釣り合ってもいたからだが、治兵衛の顔が今ではあまり見られない寡黙で真面目なもので、いかにも京都の職人らしい雰囲気に満ちていたこととも呼応していた。なお、この肖像写真はウィキペディアに掲載されているものと同じだ。そこでまた思ったのは、この治兵衛の顔と有朋の顔を見比べると、いかにも前者は自分をわきまえ、しかも頑固一徹な感じ、後者がどこか狡猾で、あまり誉められた人格ではないようであることだ。両者は同じ明治人でありながら、生まれと役割を全く違えたため、別の人生を歩んだが、入れ替わっていた可能性があるだろうか。有朋は治兵衛のような植木職人にひょっとすればなれたかもしれないが、治兵衛は有朋にはなれなかったであろう。政治家になっても権謀に負けたと思える。そのことからすれば、有朋はやはり傑出した政治家であったというほかないが、明治の政治家は現在とはいろんな意味で違っていて、それが悪い意味で捉えられる場合と、その反対の場合がある。だが、政治家がいかに汚れた金を手にしようが、それこそが政治であるという考えからすれば、有朋は一級の人物であったろう。何が言いたいのかと言えば、現在の政治家で無鄰菴のような別荘を持つことの出来る人物はまずいない。その分、政治が清廉になり、言い替えれば小振りにもなったと言えるが、そのことで、国民全体の生活が向上したかと言えば、これはまた別問題だ。明治期のような国家の大変換の時代はもう日本には今後ないであろうし、安定しながら衰弱していく予想のもと、かえって大物政治家と目されるような人物が出ない方がまともでいいとも思える。ただし、毎年総理大臣が掃除される大臣のように入れ替わるというのでは、それもまた税金の無駄使いであり、いい加減にどうにかならないかという思いもある。有朋は1000円札の顔になった伊藤博文ほど知名度はない。そのことからもどのような評価が現在下されているかが想像出来る。有朋の顔は後の岸信介に似ていて、非情さがあらわなようで、筆者は好まない。
無鄰菴は「庵」であるから、名前からすればもっと小さな隠れ家を連想するが、有朋にはそんな小さな夢はなかったようだ。だが、この名前を気に入っていたようで、長州出身の有朋は、最初に同地に無鄰菴を建てた。これは庵にふさわしいものであったかもしれない。だが、隣家がないという意味合いからして、敷地はそれなりに大きかったかもしれない。田舎でしかも明治のことであれば、庭園好きであればそれは可能でもあったと思える。有朋は明治24年、つまり岡崎の無鄰菴が建つ3年前に二条鴨川沿いに無鄰菴を建てている。そこは今は大阪のがんこ寿司店が経営しているが、筆者はそこが出来た当時、もう20年ほど前に一度行ったことがあるきりで、庭のことをあまり覚えていない。東山を借景として、そこだけでしか味わえない雰囲気があるので、庭好きは一度は見ておくべきだろう。食事した人は誰でもそこを歩くことが出来るので、他のがんこのチェーン店にはない贅沢さがある。がんこはよくぞそこを買ったものだと思う。ただし、庭の手入れを考えると、料理の儲けだけで賄えるのかどうか。洋館1階の説明に、有朋が東京の椿山荘も別荘として建てたとあった。有朋は次々と大きな庭つきの建物を作ることが好きであった。それが今に伝わって利用されていることは、金が回り周ってみんなのものになることを示している。つまり、有朋の評価があまり芳しくないとしても、結果的にはいいこともしたということだ。ただし、それは有朋がいなくなった後、それらの別荘を保存しようという人々の思いがあったためで、そこには作庭家の才能があってこそとも言える。名勝になるべき存在が、経済の論理で破壊されてしまうことが少なくないはずで、その点からすれば京都のふたつの無鄰菴が残されたのは幸運であった。有朋が岡崎の無鄰菴に住んだのは何年ほどであろうか。今でも買い物には不便なところにあって、明治時代ではどのように生活していたかと思う。入園者は母屋に上がることが許されていたが、また靴を脱ぐのが面倒で、縁側から内部の写真を撮ることにとどめた。その写真を撮りながら、嵯峨の瀧口寺を思い出した。2階はどうなっていて、そこから見る眺めの写真をあればよかったなと今になって思うが、その景色を想像することは出来る。有朋は普段はこの母屋に住み、庭を眺めていたであろう。そこでどのように国政を考えていたことか。今ならとても許されない弾圧をいろいろと行ない、気づけば隣に誰もいないということになってはいなかったと思ったりもする。
洋館の2階は日露戦争の前の外交方針を決めるための会議に利用された部屋があって、そこは立ち入ることが出来ず、蔵のような分厚い扉の外に立って見つめるだけだ。カーテンが閉じられて、中はかなり暗いので、ストロボがなければうまく撮影出来ない。狩野派の勇壮な金碧画が壁に嵌め込まれ、有朋の好みの絵画がうかがえる。当時のまま残されているこの洋館のその部屋で、有朋や伊藤博文らが談笑したことを思うと、今さらながらに京都にはさまざまな歴史が堆積していることを知るが、当時彼らはまさかこの別荘が一般公開され、当時なら近寄ることすら許されない庶民が見ることを夢にも思わなかったであろう。ヨーロッパの王宮が美術館になっているのと似るが、その比較からすれば、日本の富豪もたかが知れている。その意味で、有朋がどのように国費をいいように使ってこうした別荘を各地に持ったかなど、小さな問題に思えて来る。出来るならば太閤秀吉のようにもっと大きなことをすればよかった。だが、明治はもうそんな時代ではなかったか。今はもっとそうなっている。京都が観光で生き残って行くには、いずれ歴史的名勝となる新しい施設を今後も作っていくに限るが、古いものを手入れするだけでも莫大な経費が必要で、とてもそんな余裕がないというのが実状だ。弾圧のない民主主義の成熟は、その意味でさっぱり創造的ではない。そんな中から何百年も親しまれる本物の芸術家が生まれるだろうか。それはさておき、無鄰菴は別荘であるから、洋館も含めて建物は酷使されなかったはずで、階段の手すりや窓ガラス、窓枠などは、みな有朋が見たままのはずで、そのあまり使用されていない状態を見るだけでもこの空間に踏み入れてみる価値はある。特に2階の踊り場から表門を見下ろすと、樹木が生い茂ってそれはよく見えないが、そのことが隠れ家であるとの思いを再確認させる。また、窓ガラスは気泡入りの古いもので、それもよい。同じようなガラスは京都市内の寺にはまだまだ残っているが、割れると新しいものにその部分だけ取り替えられて、味気なさが増す。古いものを味わい深いまま保つことは大変なことだ。洋館は庭を一周して来た最後に、その外観をゆっくり眺めることが出来る。細部の金具の装飾が当時の凝ったもので、それらも腐蝕すると同じものを作るにはとても高価になるだろう。雨樋の一部は新しいものに取り替えられていたが、色合いなど、それが目立たないように処理されていた。