僧侶を思わせる演奏というのは、名前による暗示かもしれないが、名を体を表わすというのは案外洋の東西も同じであろう。今日取り上げる「ラウンド・ミッドナイト」の作曲者セロニアス・モンクもそう考えていたのではないだろうか。
ここ2週間ほど、毎日パソコンでモンクの同曲を聴いている。筆者のボロ・パソコンでもCDを聴きながら、こうして文章を書いたり、ネット・サーフィンも出来る。いつもはラジカセで聴くが、3階に持って上がったままで、それをまた1階に持って来るのが面倒で、パソコンで間に合わしている。さて、モンク(MONK)は「僧」の意味であるから、モンクはそれを多少は意識したのではないだろうか。このカテゴリーでは去年11月はウテ・レンパーの曲について書いた。その時彼女の歌う「‘ROUND MIDNIGHT」がとてもいいので、いずれこの曲について書くつもりでいたのが、早いものでもう1年経った。紅葉が終わる頃で、そのさびしさにこの曲はよく似合うが、ジャズのスタンダードとなって、1000ほどのカヴァー・ヴァージョンがあるそうだ。ウテ・レンパーのヴァージョンはその最新のものに属し、また取り立てて讃美するほどのヴァージョンでもないのだろうが、オーケストラのアレンジとウテの声が色っぽくてよい。この曲を初めて聴いた時はいつだたったか、また誰の演奏であったか、全く記憶にない。知らない間に知っていたほどに覚えやすいメロディと言ってよい。ひとつ思い出すことは、80年代の最初、FMラジオのとある朝の番組で、若宮テイ子さんがこの曲をかけたことだ。朝っぱらから真夜中にふさわしい曲が流れたという一種の違和感と、こういうジャズの名曲を取り上げるのは若宮さんらしいという選曲の妙を思ったが、その時に流れたのはモンクのヴァージョンではなかったろうか。モンクについては、この曲を書いたということくらいしか知識がなく、モンク自身の演奏をまともに聴いたことがなかった。初めてまともに意識して聴いたのは、先日触れたが、10年ほど前、百町さんが禅画展の図録と一緒に百町さん好みの曲をまとめた2枚のCD-Rを送ってくれた時だ。その1枚の最後にこの曲が入っている。ただし題名には(In Progress)という括弧書きがある。この「進展中」という意味は、ビートルズで言えば、「アンソロジー」の3組のCDに収められた曲のように、正式にレコードの収録される以前の試演で、完成に至るまでの変化がわかる。この「進展中」ヴァージョンは22分もあって、LPでは片面を占めるほどだが、最初に発表されたのは、LP22枚組、CDでは15枚組の「Complete Riverside Recordings」においてだ。この発売がいつかわからないが、CDはアマゾンでは6万円近くしている。この価格では熱烈なファンしか手が届かない。「進展中」のテープ発見は1980年代初頭という。おそらく82年に亡くなったモンクはそれを聴くことが出来たであろう。ボックス・セットの発売の後に、「進展中」は、アルバム『THELONIOUS HIMSELF』のCD化の際に、6分40秒の正式ヴァージョンの直前に収録された。それは長時間収録可能なCDゆえに実現した企画で、同CDではこの名曲がふたつのヴァージョン合わせて約30分連続して楽しめる。
正式ヴァージョンの録音は1957年4月5日と記録にある。39歳だ。その若さは、照明を落としたスタジオの録音機器の前に座って横顔を見せるアルバム・ジャケットに出ている。また、この写真からもモンクが帽子好きであったと言えそうだが、サングラスはレイバンだろうか。なかなか様になっている。シャツの皺が体に馴染んだ柔らかい素材を伝えて好ましい。こうした都会的なセンスはこの曲の演奏によく現われているが、ジャズはそもそも都会のものだ。黒人は田舎で奴隷の名残的な生き方を強いられるより、都会で生きる方が何らかの仕事にありつけて暮らしやすかったことの理由が大きい。このジャケットの左にT字型に白く抜いてアルバム・タイトルが印刷される。このT字はあまりいいデザインではない。「進展中」の録音は4月5日より遡るとして、それは遠くて数か月程度ではないだろうか。22分の長さは、テープを編集したもので、実際はもっと長いはずだが、モンクの声が少し入っていたり、スタジオの技術者のテイクを数える声があるなど、なかなか臨場感があってよい。うまく22分に編集したもので、饒舌になり過ぎずに済んでいる。だが、それはモンクの演奏がどれも異なるからだ。モンクは何度も演奏し直し、そのたびに少しずつ細部が変化して行く。どれも完全なヴァージョンではなく、途中で演奏を断念したり、また途中から始めたりする。全部で7テイクだろうか。どれも練習あるいは失敗ヴァージョンであるから、当時レコード化が見送られたのは当然だが、22分というまとまった長さとなり、また「正式」ヴァージョンの直前に置かれると、「正式」が「進展中」のどの部分を使い、また発展させたかがわかる。そして、「正式」もまたモンクにとって「進展中」であったこともわかる。早い話が、モンクにとってこの曲はいつまでも未完成であったということだ。この曲を最初に演奏したのは18歳頃と言われる。その20年に正式に録音したことになるが、20年の間、モンクはこの曲をどのように温め続けた、あるいは演奏し続けたのであろう。そこには、モンクの作曲法のすべてがあるだろう。当然のことながら、「進展中」は、楽譜に書かれたものを演奏しているのではない。あれこれ考えながらの、一瞬先の音を次々と決定して行く即興的な演奏だ。楽譜に曲を書いて、いつもそのとおりに演奏するということをモンクはしなかったのだろう。楽譜に書かれた曲は、練習によって手慣れたものとなる。したがって、ベートーヴェンのピアノ曲を10歳程度の世間の何もまだ知らない子どもが完全に演奏することも出来る。だが、音楽とはそれで完結し、その子がベートーヴェンと同じ水準に達するだろうか。楽譜主義と、楽譜はあくまでも建前とする主義のふたつがあるが、モンクは楽譜どおりにいつも演奏することを拒んだ。それがまず「進展中」からはよくわかるし、「正式」を聴いてなお納得する。そして、「正式」がそれなりに見事な形をしているにもかかわらず、未完成的なところを感じるゆえに、モンクという才能をわかりにくくしている。いつの時代も単純で派手で華やかさを演出する存在は多くの人に知られて大きな人気を得るが、モンクはその正反対のところに位置することが、わずかにこの代表曲のふたつのヴァージョンを聴いただけでわかる。そこには僧の禁欲さとどこかで通ずるものがある。禁欲という表現がまずければ、思索的と言い替えてもよい。だが、そういう人ほど内には激情を人一倍秘めているもので、それはモンクの演奏にも明らかにある。
この曲はモンクの演奏によってスタンダードになったのではない。「正式」を聴くと、いい曲ではあるが、6分40秒は人によく覚えられる曲としては長い。サビは2回あって、モンクは短い主旋律を次々に変奏する。その変化が楽しいが、これはその何倍でも変化させて演奏出来ることを意味してもいる。だが、それではラジオの放送には適さない。そこで必要最少限の部分に縮め、さらに誰もが覚えやすいように歌が加えられた。この曲のクレジットにはモンク以外に2名が書かれている。ひとりは最初にこの曲をカヴァー演奏して一般に広めたトランペッタのクーティー・ウィリアムズ、もうひとりは歌詞を書いたバーニー・ハニゲンだ。また、歌詞つきの曲の場合「ROUND ABOUT MIDNIGHT」と表記されるが、意味は同じだ。歌詞は、真夜中頃になると失恋の痛みと去った恋人への恋慕に浸る思いを歌ったもので、これをモンクがどのように同意していたのか興味深い。作詞家はモンクから作曲のイメージを聞き出して歌詞を書いたのか、あるいはモンクは適当にメロディに似合う歌詞を書いていいと全権を委ねたのかだ。この曲の歌詞は、曲がブルースから派生しているので、それなりによく似合っているが、モンクの演奏を聴いていると、歌詞の世界に収まり切らない創造の執念といった圧迫感が伝わる。一音ずつしっかりと聴いていると息苦しくなり、無言を強いられる。そのため、歌詞はモンクの知ったところではないといった感じだ。それが悪いというのではない。最初に書いたように、筆者はこの曲を女性が歌うのをとても好む。美人でなくても、たとえばエラ・フィッツジェラルドのようなおばさんが歌ってもそうで、この曲を完全に料理して自分のものにしている。そして、たとえば筆者が散歩しながらこの曲を思い浮かべる時、それはモンクのピアノではなく、そうしたヴォーカル曲の歌詞だ。これはモンクの才能が乏しいことを意味するだろうか。全くそうではなく、モンクの演奏は気軽に消費されることを拒否しているのだ。そして、楽譜に書かれたとおりにモンクが演奏するのではないこともあって、クラシックのピアノ曲のように、最初から最後までを完璧に記憶することにはならないし、またモンクは聞き手にそれを求めてもいない。「進展中」のヴァージョンでは、主旋律はそのままで、モンクはそれを演奏する時の、その一回限りの気分の中で、間の取り方や、装飾音を絶えず変化させる。ああでもない、こうでもないといった呻吟さが終始続き、聞き手はメトロノームのように規則正しい拍子を取ることは出来ない。
ここで思うことは、いくら即興でも、予め練習して獲得していたフレーズや和音といったものがいくつもなければ、それらが演奏途中に閃きのように生まれて来るのかどうかだ。「進展中」だけを聴いてそのことは結論づけられない。おそらく他の曲で獲得していたものがほんの少し形を変えて表われているはずで、筆者の考えとしては、即興であっても、大部分は予め獲得されていたものが、的を射た場所で再現されるとした。つまり、「進展中」は、次々と形が変わっては行くが、それらはその録音中に初めて生まれたものばかりではなく、それ以前に獲得されていたものが、新しい組み合わせとなって立ち現われて来たのだと思う。だが、それがそうであっても、この曲やモンクの価値はいささかも減じることはない。何が理想的か、つまり最も納得行く演奏かを自分に突きつけながら、モンクは「正式」ヴァージョンをどうにか収録した。だが、それは限られた録音の時間と期限にしたがっただけのことで、モンク自身は録音後にまた別のことを考えていたはずだ。モンクは、音楽は演奏するその時だけが命と思っていたのではないだろうか。音楽は一瞬ごとに消えて行く。であるから尊いのであって、録音したものを後で楽しむという考えは自分にはなかったのではあるまいか。クラシック音楽のように楽譜どおりに演奏することにおいても、演奏者の違いによって曲は著しく変化するが、モンクのこの曲はもっと自由でありながら、モンク自身は完成形を求めなかった。音楽とは完成するものではないと思っていたかのようで、その禅僧の修業めいたところが、禁欲的と言いたい。この曲に歌詞がついて有名になった一方で、モンクはそれとは無関係に、絶えずこの曲に向い続けた。それは先日YOUTUBEで、1962年だろうか、モンクがドラムスとベースをしたがえて演奏した3分ほどの白黒映像を見て確信した。その演奏は「進展中」とも「正式」とも大きく違っている。そして、映像のいいところは、モンクの姿が見えることだ。最初は右足をピアノのペダルをしきりに踏んでいるのかと思わせられたが、そうではなく、モンクは拍子を取っているのであった。その右足の目立ち具合は、苛立ちを思わせる。それは両手の動きや、間を取る時の一瞬のポーズなどにも如実に出ている。寡黙そうなモンクが、そこでは激情に駆られているようにも見える。それは内面に渦巻く一瞬ごとに繰り出す即興音を、いかにして聞える音として絶妙な形で配置するかという、真剣勝負に挑む姿で、慣れを否定した、毎回ごとに新しいことを義務として提示するという良心がほとばしっている。
ところで、先日触れたロンド・ハットン・リポートの最新号、つまり第4号に、サイモンさんはザッパの歌詞について書いていて、その中に、ザッパはいつも作詞を簡単にこなしたのではないとある。簡単に書かれたように見えるだけで、実際は苦心したということだ。作り上げられたものを見たり聴いたり読んだりするのはごく簡単で一瞬のことだが、人は作品もそのようにして作られたと思いがちだ。だが、それなりに有名になって長年伝わるものは、修練を積んだうえで、しかも創造の女神が微笑むという幸運に恵まれてこそ生まれる。モンクのこの名曲も同じだ。10代で作ったメロディをその30年後になっても演奏し続け、しかもそれは当初の演奏とはまるで違うものであったはずだ。そのことは「進展中」と「正式」のふたつのヴァージョンを比較するだけでもわかる。「進展中」が興味深いのは、名曲の仕上がる途上の姿が単にわかるからだけはない。モンクの全体がそこに凝縮され、モンクが音楽をどのように考えていたかがわかる。そして、どれだけひとつの曲にいつも真剣に対峙し、さらなる先を目指したかだ。これはいつも満足しない性質を示すとも言えるが、同じことはザッパにもあったし、どんな芸術家にも大なり小なりある。だが、その満足しない思いをモンクのこの曲の「進展中」ヴァージョンに見ると、尊敬はするが、近寄り難く、また気軽な気持ちで接し得ない思いが先に立って、正直なところ筆者はCD15枚組のボックス・セットを聴きたいとはあまり思わない。評価の高い『THELONIOUS HIMSELF』には、この曲とはまた違った味の曲がいろいろあって、それはひとつの救いのような気にさせられるが、それほどにこの曲は創造に対峙する鬼気迫る一途な思いに満ちる。その苦行僧のような態度とでも言うべき姿勢にモンクはどう耐え続け、どういう創造をその後展開したのかと思うが、この曲に感じられる深い悲しみと言ってよい思いから推して、モンクは何となく自滅して行ったのではないかと思わせられる。先の映像に戻ると、その演奏はいわばビートルズ出現前夜のもので、モンクの一番よかった時代は50年代ではなかったろうか。これは他のジャズ・ミュージシャンも同じだ。この曲が収録された時、筆者は6歳になる前であった。その古い古い昔を思い出し、そしてこの曲をそこに添えると、いかにも当時に似合いそうな気もする一方、今この年齢になって、筆者がこの曲の味わいを吟味し、その永遠性を納得出来ることになれた不思議を感ずる。年齢を重ねなければ見えないものがある。モンクが一瞬ごとにこれしかないと決定を下した行為の連続体としてのこの曲は、一回限りのものでありながら、録音によっていつ誰でも同じ感動に打たれる普遍性を獲得している。それは才能を磨き、そのうえに苦心を重ね、しかも稀な霊感が伴ってこの曲を書いたという、幸運がいくつも重なってのことであって、モンクにとってもそれは簡単なことではなかったのだ。