基壇上に柱の立つ円形の餅状の盛り上がりを等間隔に確認して、ここに建物がいずれ建つのだなと思ったのは去年夏だった。
興福寺南円堂の南東すぐの位置で、その東には売店があって、そこでは何も買わなくても無料で休憩出来るうえ、弁当を広げてもいい場所で、とてもありがたいと思ったものだ。それから奈良に何度か行った。奈良に行くのはいつも近鉄を利用するが、帰りは必ず興福寺の五重の塔の脇を歩いて猿沢の池に下り、そこから三条通りを歩いて近鉄奈良駅まで商店街を歩くが、今月3日に『花鳥画』展を訪れた際、興福寺の五重の塔西で工事が進んでいる様子に驚いた。前回に奈良に来たのはいつだったか、その時はまだ工事は始まっていなかった。去年だったか、興福寺の阿修羅像が東京で展覧され、興福寺ブームが生じていることを実感した。それは興福寺境内整備計画のための勧進だ。興福寺境内は、昔はもっと樹木が生い茂って暗かった記憶がある。平城遷都1300年に合わせて、最初に建った頃の姿に戻す計画が20年ほど前に始まり、仮に建てられていた建物が撤去され、発掘調査を経て、中金堂や回廊を再建することになった。興福寺は今から1300年前に建ったというから、平城遷都と同じ年月を経ている。ただ同然の値段で売却されることになった明治の廃仏棄釈から思えば、今回の整備計画は日本における仏教の命運を考えさせるものがある。江戸時代、興福寺にいた僧侶は春日大社の神官を兼ねていて、廃仏棄釈があった時は、みな春日大社に移って、興福寺は見捨てられた形になった。その意味で言えば僧侶は転身を果たして何ら困らなかったが、現在はどのような体制になっているのだろう。檀家があるわけでもないから、寺としての運営は阿修羅など、国宝として見せるものが多くあって、それらの入場料でまかなっているのだろうか。京都もそうだが、こうした大きな寺院の運営は一般人にはなかなか見えにくいところがあって、しかも今回のように数十年計画で境内を整備するという大規模工事となると、全国に向けての勧進だけで足りるのだろうか。
大型の寄付があったり、また文化庁の援助もあると思うが、興福寺と聞くと明治の徹底した荒廃を誰しも思い浮かべるだろうし、日本における神道と仏教の関係を思わざるを得ない。中国との関係が微妙になって来ている昨今、また外からやって来た仏教を排斥するという動きがなきにしもあらずと思うのは、あまりに心配症だろうか。明治とは違って、今はもっと仏教が人々の迷いを救う存在であるとはみなされず、信仰の対象になりがたく、観光名所か博物館のような位置づけで認識されることが多いことを思えば、いつまた仏教は不要と唱える政治家が出ないとも限らない。だが、寺が観光名所になるという考えは、世界遺産への思いが日本にそれなりに定着したことからすれば、充分に寺も市も国家も認めていることだろう。韓国がそのいい例だ。この半世紀、慶州やソウルの寺院や宮廷を整備し、観光客誘致に成功し、またTVのドラマのロケ地にも使って、相乗効果を挙げている。そう言えば、NHKで平城宮の大極殿が完成したことを機に、TVドラマが製作された。それは日本には珍しい天平時代を背景にしたもので、筆者は見ていないが、意欲は買うべきだろう。韓国では高句麗や百済を舞台にドラマが作られることを思えば、それは遅きに失した感がなきにしもあらずだが、その一因に、ロケするにもそのセットが問題という事情があったのではないだろうか。韓国と日本の行政の縦割り事情の差がどうなっているのか知らないが、日本は文化庁がドラマのロケにはなかなかOKを出さないのかもしれない。そこが国家の戦略としてどうなのか、韓国と比較して日本も柔軟かつもっと遺産をさまざまに外に向かって宣伝すべきだろう。観光客が訪れる理由は、そこが世界遺産であるといった歴史的な価値もあるが、韓国ドラマからわかるように、ドラマの舞台になった場所であれば、貧しい人々が住む一画であっても人が押し寄せる現実がある。そこをもっと日本も考えるべきだろう。とはいえ、それは政治家の手にはあまることで、またドラマ製作者も各方面に許可を得るのに面倒との理由で、野外での撮影は好まないのではないだろうか。それで、韓国からドラマの撮影にやって来るとなると、地方が大騒ぎをしている。
興福寺も整備されて創建当時の姿が蘇れば、20年や30年経てば、観光にやって来る外国人は新しく建った中金堂を他の建物と区別出来ないだろう。日本は古いものは古びたままで価値があると思うわび、さびの精神があるが、それからすれば興福寺が整備されることはどうかということになる一方、日本人はつごうよく出来ていて、なくなったものはまた建てればよいという考えでずっとやって来た。それを韓国は国家の政策としてもっと以前に徹底してやり続けて来ている気がする。日本では1300年といった、何かの大きな区切りのお題目がなければ気運が盛り上がらない。これは政治家のせいか、あるいは国民の考えか。100年単位のそんな悠長なことを言っておらずに、整備すべきものはどんどん早く整備し、観光に役立てることが大切で、でなけれな日本は中国や韓国にその面で後れを取るように思う。だが、ここで問題となるのは、寺の場合はそれが現在も機能している信仰の場ということだ。韓国ではソウルの宮廷の復元は、宮様がもういないのであるから、国費を投じて純然たる観光資源として整備することが出来る。そのために竣功も早い。日本では僧が管理している生きた施設であるうえ、また発掘調査したうえで正確なものを建てるという考えもあって、資金面と工程面でそう物事が簡単には運ばないのだろう。特に問題となるのは前者で、国家がどれだけ資金援助していいのか、それは信仰の自由の問題が絡む。韓国の寺院も同じような問題を抱えているとは思うが、韓国における仏教は日本ほど力を持っておらず、政府の援助で境内を整備する例は多いのではないだろうか。この仏教に関係する日韓の差を知ると興味深いことがわかると考えるが、韓国の仏教事情を日本の本で知ることは容易ではないと思える。日本は仏教が多様に展開し、人々の生活の隅々にまで浸透しているが、韓国では禅宗一本で、しかもキリスト教に押されて、今は年配者か田舎で信仰されていると思えるのが、韓国ドラマから垣間見える事情だ。そして、日本では仏教は浸透している割に、葬式仏教という観念が強く、ドラマで描かれることはまずない。新興宗教も含めて、日本で仏教をおおっぴらに話題にすることは一種のタブーに思うところもある。
さて、平城遷都1300年祭は平城宮跡地を中心に行なわれ、大仏の頭に鹿の角の生えた「せんとくん」が大いに物議をかもし、また一転して人気者になって、全国的に話題となった。だが、京都に住んでいると、その音は届きにくく、また宣伝も充分であったとは思えない。元来京都人は奈良を見下げているから、わざわざ奈良まで行くことはほとんどない。逆に奈良は京都に比べると田舎過ぎるから、奈良人は大阪に買い物に出かけることが多い。そして、大阪人は京都にも奈良にもよく行くし、小中学校の遠足はいつも奈良か京都と決まっている。それで、筆者はもちろん平城遷都1300年祭は知っていたが、近鉄電車で平城という駅の周囲は、ただただだだっ広い平原が西にも東にも広がり、電車の中から見ていると、とても下りる気にはなれない。そこに堂々たる朱雀門が建って行く様子は10数年前から気づいていたが、あれよあれよと言う間に遷都1300年に併せて大極殿が完成し、平城宮跡地で祭りが開催され、そして終わった。その祭りは、朱雀門や南大門の辺りで行なわれたが、復元されたそうした建物は今後もなくならないし、祭りでは何をどう見せるというのか、それが今ひとつわかりにくかった。祭りと聞けば、1970年の万博以降、建物は祭りが終われば解体されるという思いが染みついており、ならば期間中に出かけようという気になるが、恒久的な建物が建ったのであれば、人が大勢集まる時ではなく、もっとゆっくりした時に出かければいいという思いがする。だが、そう思いながら、結局なかなか行くことにならないのが実状で、祭りの期間中にさっさと行く方がいい。筆者は会期のほとんど終わりになって、平城宮跡にたくさんの人が押し寄せている光景をTVで知ったほどだ。これは奈良に行くのに、平城駅を通過する京都回りではなく、いつも大阪回りで行くことも影響している。またそれほどに、京都にいると、奈良の祭りに無関心ということでもある。平城宮跡は今後も整備が続くが、跡地を横切る近鉄電車はどうなるのだろうか。車中から見える広々とした光景はいいものだが、平城宮の立場からすればそれは完全な邪魔ものであって、その軌道の移設を含めると、完成はまだ数十年はかかるのではないだろうか。国費を使って少しずつ進められているが、完全に整備が終わった時には、外国からの観光客も大きく見込めるであろし、近鉄奈良駅付近とは違って、その副都心的に周囲はホテルや見せなどが出来て、奈良は今までのイメージを一新するかもしれない。その様子が見られるまで筆者が生きているかどうかわからない。だが、息に長いこうした整備計画は不況のさなか、なかなか夢があっていいものではないか。
興福寺の整備は平成35年(2023)まで第1期の事業が続く。これは第2期も予定されていることを示し、最終的にはどのような形になるのかわからない。第1期の完成だけでもかなり整備されて境内は立派になるようだが、それは13年後だ。それまでの間、奈良に行くたびに工事の進み具合を確認することになる。筆者が阪急駅前の変化を写真に撮るのと同じようなことをする人がきっとあると思うが、2023年と言えば、これも筆者は生きているかどうかわからない。このように奈良の旧蹟が整備されて華やかさを取り戻すのは、近畿に住む者としては心躍ることではある。そこで思い出すのは、一昨日のニュースで、京都伏見の醍醐寺で壁が液体で汚される事件があったことだ。汚れた面積を見ると、ひとりでは持てないほどの液体の量であり、おそらく若者が何人かで騒いでやったのだろう。TVでは70代の地元男性住民が、それを見ながら世界遺産に何ということをするのかと静かに憤っていたのが印象的だ。その人はいなせな感じがあって、若い頃は無茶もしたような雰囲気があったが、やって悪いことといいことをわきまえる時代に生まれ育った世代だ。それが今では大学を出ているような連中でもその分別がないことがよくある。そこに信仰心の欠如を持ち出すのは的外れだろうか。日本では仏教は盛んだが、明治以降、禅僧でも妻帯するようになって、人々が崇めるような人格者が出にくくなった気がする。その分、新興宗教が人々にもてはやされるようになった感もある。文化遺産として寺院を今後も保持して行くための経費をどう捻出するか。檀家を抱える田舎の寺ではまだましとしても、そうではない寺は観光寺院となって生き残りを図るしかない。京都がそのいい例だ。だが、観光を優先して儲けるのはいいが、それが過ぎると、庶民の一部に恨みめいた思いを抱かせる理由にもなりはしないか。
さて、11月3日の文化の日に奈良に行って、その帰りに撮影した興福寺の写真を今日は全部掲げる。五重の塔の内部は拝観出来たようで、大勢の人が周囲を取り巻いていた。そうそう、その五重の塔の正面にひとつの石灯篭が立っている。ふたつ左右に立っている場合が多いが、それは後の時代のことで、当初はこのように建物ひとつにひとつだ。そして、物の本によれば、興福寺五重の塔の正面に立つ石灯篭の一部は創建当時のものであったように思う。とても有名なもので、この灯篭を見るだけでも価値がある。この灯篭を研究し、また参考にして昭和時代に造られた石灯篭が南円堂の間に立っている。これもその方面ではよく知られる。見比べると面白い。昭和のものは、モダンな雰囲気に満ちるが、周囲の建物と違和感はない。時代に応じてこのように専門家が懸命に造ったものは、それなりに迫力を持つ。だが、その斬新でいながらモダンというのは、最も古い石灯篭から江戸時代のものまで、あらゆるものを研究したうえで築かれたもので、その意味で古いものは常に見習うべき鑑となっている。そんなことを思いながら、五重の塔の前の石灯篭が写り込むような角度を選びながら、さっさと前方を歩いていく家内を尻目に観光客に混じってシャッターを押した。ついでながら、この石灯篭は「おにおにっ記」にその姿を登場させた。鋭い人はそれがわかったと思う。興福寺境内を抜けた後の行動に関しては別に投稿する。