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●たばこを吸う子どもとからたちの実の大きさのみかん
用があると考えるのは生物学的な本能で、それは突き詰めれば長命を望むというところに発している。昨日夢から目覚めた時、朝9時になっていた。



6時頃に一旦目覚めて、また眠りに入り、その間に夢を見た。夢を見ながらこれは夢だぞと思っている半ば覚醒した自分がいた。あまりによく覚えている夢なので、久しぶりに1、2時間後にその内容そこらにあった紙片に記した。今日のブログにそれについて書こうと思い、内容とその方向、結論は数分で決めた。いや正確に言えば、書く気になったのは、結論が先にあって、それを書きたいために夢をだしにしたところがある。ところが、その数時間後にはその結論に対する疑問がさまざまに湧いて来て、別の結論に達した。それは最初に書いた効用という言葉に関係している。人間は効用をよく言いたがる。それは体にいいもの、いいことなどを積極的に摂取、体験して、気分よくなる、そして長生きしたいという思いにつながっている。それは死に対する恐怖と言い替えてよい。生はいつまでも生であることを願う。そう考えると生と死の間にはグレイ・ゾーンはなく、全く別の、対比すら出来ないもので、死は生にとって想像を絶している。それは神以上のものだ。さて、効用は夢にもあると何かで読んだことがある。夢を見ることで思いを整理しているという考えもその部類だ。人間が夢を見る理由はわかっていない。これはとても不思議なことだ。夢はコントロール出来ない。いくら目覚めている時に自意識の強さを誇る人でも、眠っている時までそれを管理出来ない。そのため、昔から人間は夢についてあれこれ考え、何かのお告げと思う場合もあったし、それは今も変わらない。だが、夢はでたらめな思いの連続で、無価値だ。無価値なものが人間にあってよい。その場合の無価値は一方で価値あるものを前提にしているが、価値あるものとは何かとなれば、たとえば効用のあるものだ。また、目覚めている時の行動、つまり社会における全行動を価値があるものとする見方だ。それは、そうでなければ社会が無茶苦茶になるという考えに基いている。自動車がちゃんと動くのと同じだ。となれば、自動車が勝手に動いてとんでもないところに突っ込むというのが夢ということになる。だが、人間の中には社会のそうした仕組み、動きを正常とは思わないこともある。言い替えれば価値がないという見方で、それが深刻になれば自殺するであろうし、またそうでない場合は世捨て人になる。あるいは仙人のような境地に至る場合もある。となれば、みんながあたりまえと思って営んでいる社会生活を価値がないと思うことには一抹の真実もあることになる。つまり、夢が無価値で、覚醒時の行動や思いが価値があるとは簡単には割り切れない。
 先に書いた結論というのは、でたらめな夢を描いたような超現実主義的を標榜する絵画は、結局は個人の中のゴミ同然のでたらめな夢に基いている点で、無価値で、見るべきものではないということだ。奇妙な絵だなとか、ぞっとする絵だなとか、それらはみな誰しも夢で見るようなものであり、驚くに当たらないではないか。驚くとしても、それはほとんど技術的な巧みさに対してだ。と、そんなことを目覚めて思ったが、その先をあれこれ考えていると、脈絡のなさ、自分が予想もしていなかったことの点において夢がでたらめなことは正しいとして、それは覚醒時の想念から紡がれたものであることからすれば、覚醒時もでたらめなことがあるのではないかと思えた。実際、自分が次にどう行動するかは自覚による行為だが、人間は時々無意識な行動をするし、自覚していると思っているのに、間違うこともある。つまり、生の中にはでたらめがある。あるいは、生も元来でたらめなものではないか。夢に脈絡がないとして、生も案外同じで、ひとりの人間が常に脈絡のあることばかりをしているとは限らない。ロボットなら、完全に無駄のないことだけを効率よく実行するが、それは夢を見ない。つまり、夢を見ることは、効率ばかりで割り切れない何かが人間には備わっているからで、現在のように効率一辺倒の社会、世界になって来ると、人間は夢を無駄と思って、それをますます意識することもないだろう。でたらめなものにかかずり合っている暇はないというわけだ。そして、そのようにして人格も行動も意識もロボット化させて何ら疑わない味気ない人間となって行く。だが、そういう筆者も夢はでたらめで、自分の頭の中で生じて毎日忘れ去られて行くだけの、意味のないものだとは思っている。ただし、夢を分析すると、自分の普段思っていることが再認識出来て、それはあながち無駄とは思えず、夢にもそれなりの効用を認めたくなる。だが、筆者が興味を抱くのは、夢が個人の頭にとどまっていなくて、それが絵や文章に表わされる場合のことだ。無意味な夢さえも意味ありげに描くのが超現実主義で、それを批判する立場にロジェ・カイヨワはあったし、筆者もまたそれに同調するが、夢のでたらめな部分を取り除いたところに、何か啓示のようなものがありはしないかと、何だか古代の巫女のような考えにも多少は同意したい時がある。簡単に言えば、それは人間は人間を全部知っておらず、夢をなぜ見るか解明出来ないためで、わからない不思議をそのまま作品として投げ出すか、あるいは占のように感じたことを適用に言うかは、無価値とばかり言い切れないとも感じる。合理主義からすればそれは容認出来ない考えで、わけのわからないもの、解明不能のものは無視してかかる、あるいはこれも適当にあしらって理屈づけしておくというのが相場となっている。そうはいっても、相変わらず人間は毎日夢を見て、時に変な夢だったなと、その日のいくばくかの時間をそれについて考える。それは日常生活にとって何の価値もないとも言えるし、その夢を分析して何か思い当たり、実際の行動につなげる人、場合もあって、夢と覚醒ははっきりと分離出来ない。
 筆者は自分の夢を逐一分析して、ある場面、映像が、どう考えてもどこに由来するかわからないことがたまにある。夢をメモりながら、各場面はたいていその原因、由来を見つけることが出来る。ただし、でたらめと言ってよいほど雑多なことを考えている日常の覚醒の中から、夢が選択し、表向きはそれら覚醒とは全然違う場面に作り変え、しかもそれを連続させてひとつのドラマのように仕立てる、その仕組みに関しては、それがどういう力に負っているのかはさっぱり理解出来ず、夢はでたらめながら、それなりの強い力の産物とは思う。そして、その力を自分の頭からうまく抽出して、絵や文章に置き換えることが出来た場合、それは他人に伝達出来るものとなるが、文章や絵は夢を曖昧になぞったもので、自分が見た夢とは同じではない。同じではないが、似たものではあるし、また似ている点で、夢同様にでたらめで、その意味で超現実主義の作品はでたらめなもので驚くに当たらず、むしろどうでもいいものということになる。何だか堂々巡りをしているが、夢が現実に見たり聞いたり感じたりしたことの反映のでたらめな結合であることからして、夢には頼らず、現実の中から作品化すべきと言いたいのだ。だが、夢によって改めて自覚することがあるから、現実から夢、その夢から現実に戻って作品化するのがいいということになる。となれば、それは超現実主義の絵画とどう違うのかという問題が生ずる。そう考えると、現実のみに準拠しているような作品であっても、そこに夢めいたものを感じることがあるし、それは実際正しい。その逆に、全く現実にはあり得ないイメージを豊富に盛った絵が、きわめて現実的な何かをそのままの形では提示出来ない事情があるために、暗示に留めた形で故意にそのように描く場合も、時代によってはあるかもしれない。だが、この考えは、夢をその時代が克明に分析し、ひとつの夢対現実の何かの対応表のようなものをある一定の社会が作り上げ、その成員の誰が見ても夢にしか出て来ないようなその奇妙なイメージから現実的な意味を汲み取ることの出来る条件が必要で、それがない場合、その絵は誤解され、単なるでたらめとみなされる。それほどに夢は時代によって読み取り方が違うものであろうし、また現代の合理主義社会では、夢にそこまでの役割を与えず、せいぜい夢判断のお遊び程度に抑え込んでいる。夢が大きな位置を占めれば社会がうまく回転せずに困るからだ。そうなると、筆者が見る夢も個人のどうでもよい戯言で、それをどう絵や文章にしようが、社会の他の人々と共有する意識の表明とはならない。そう思うからこそ、現在の作家が超現実主義的な作品を発表している場合、筆者はそれをその作家の頭の中にあるゴミ同然の廃棄物をさも仰々しく作品に祭り上げていることの滑稽さに失笑するばかりだ。それをよくわかったうえで、昨日見た夢について改めて以下に書いておこうと思う。
 夢の初めはメモりながら思い出せなかった。これはいつもそうだ。夢はいつの間にか始まるのが常のことだ。下に書く夢の内容は、叔父が登場することは理由がわからないが、それ以外は全部源がわかる。たとえば、みかんが小粒なことは、一昨日散歩道でからたちの実がなっているのを見かけた。「おにおにっ記」でからたちのことをトゲトゲラッ木と以前書いたことを思い出しながら、また島倉千代子の「からたち日記」を思い出しながら、このブログのつぶログに、そのからたちの実について一句ひねろうと考えた。だが、帰宅してからも思い浮かばなかった。そのからたちの実はみかんと同じ色をしながら、もっとひしゃげていたり、また粒の大きさもさまざまであった。その視覚が意識に残ったのだ。このように夢に出て来るものはみな思い当たることがある。だが、それは現実とは同じ形では登場しない。その理由は、思い当たる源がひとつではないためだろう。理由が複合的であるから、それらの合成として、全く違う、現実にはなかった形の映像として表われると思う。それはいいとして、ではそれらの現実を反映した合成イメージが一連の物語になって夢になる理由は何かという問題がある。それもまた現実で思ったこと、経験したことの反映であると言えるだろう。そして夢でのその一連の物語とでも言うべき映像は、現実があってこそのもので、やはりでたらめなものに過ぎないが、部分において、あるいは全体として、現実と同じように実在感を感じるのはなぜかという疑問がまた湧く。それは夢と現実がどう区別され得るかという問題にもつながる。前にこのカテゴリーに何度も書いたと思うが、現実のこうして書く意識の中に夢で見た内容を反芻すると、それは現実が夢に影響を蒙ることと言える。すなわち現実は夢に多少は規定されている。絶対的な分離は不可能なのだ。ここには、夢がでたらめであれば、現実もそうであるとの事実も見えている気がする。そして、そう思うと、現実が苦しくても、そうではない夢想を抱けば、その苦しさから逃れられるとも言える。それは、夢想するだけで少しも行動が伴わないことにおいて逃避と言われるが、そうとばかりは言えない。抑圧が激しい社会では、行動を伴うことが許されない場合は多いだろうし、人はそのようにしてとにかく生き延びることはある。筆者の夢はそのように不幸に抑圧されている人々のものとは大いに違うだろう。筆者の夢は全く散歩がらみで、散歩散人そのものの、しかも貧困の内容だ。
 筆者は誰か、たぶん家内だが、一緒に知らない街を歩いて、横丁に入っている。古い家並みで、木造の連棟が10軒ほど続いている。その半分は扉を閉じて、家の中に人がいるかどうかわからない。その閉まっている家は奥に向かうほど多くなるようだ。最も手前の家は扉を開けて、内部が丸見えだ。中年女性が商品を棚に整理している。小物のお土産店だ。床は地面と同じ高さで、セメントを流し込んで平らにしたばかりで、まだ濡れているし、しかも左官がコテで仕上げをしたうっすらとした筋が扇型に何本も見えている。その改築して様子を見ながら、筆者は他の家はどうか、それを順に調べようと考え、そのことを家内に伝え、それらをメモするように言う。隣の店はまた別の何かを売っているのだが、奥の家並みを見つめながら、筆者はこれを全く同じ場所に最近夢で訪れたことを知り、夢でしかこの場所には来れないことを思っている。通りは狭く、また他の人は見えないが、ふとそこに一台の車が入って来た。昭和半ばの古い大型のセダンで、運転手の顔は目と額だけが見え、しかも人形じみている。それを見ながら筆者は叔父と知り、笑顔で声をかける。だが、相手は知らぬ顔でゆっくりと狭い道を奥に進んで行く。確かに叔父のはずなのに、しかも何年かぶりにこんなところに会ったのに、叔父は一言も話してくれなかった。以前の叔父なら真っ先に声をかけてくれ、しかも笑顔で接してくれたのに、なぜだろう。そう思いながら、もう一方に覚醒した自分がいて、叔父はもう10年もっと前に亡くなっていて、死者が夢の中で話に応じるのは縁起が悪いと思っている。この後は少し思い出せない。また違った道を筆者はひとりで歩いている。一本道で人通りはそこそこある。前方からたばこの煙が漂って来る。それがとても不快で、その人物を追い越してやろうと、早足になる。たばこを吸っていたのは、小学生のしかも低学年だ。そんな子が道を行きながら堂々と吸っていることに驚き、筆者は背後からその子の右肩に手をかけ、たばこを取り上げながら諭す。子どもは怪訝な顔をしながらも無言でしたがうが、その顔はまるで不機嫌な中年で、たばこを吸うくらいの子どもであるから、そんな表情になってしまっているのだなと思う。数メートル進んでその子を振り返ると、黒いスーツを来たやくざ風の男がその子のかたわらを歩いていて、その子は筆者を指さしながら、非難めいた表情で何やら言っている。そして、男は筆者の方を向きながら、追いかけて来る意志を固めたようだ。それをいちはやく察知した筆者は人ゴミをかき分けて先を急ぎ。道を左に折れる。するそこは果物や野菜を家の前で売る農家で、老いた男性と女性が店番をしている。筆者は店の奥に少し隠れさせてくださいと言う。奥はうす暗く、突き当たりに台車のようなものがあって、その背後に隙間がある。そこに隠れて明るい表を見ると、黒いスーツ男が先に左手に走って去り、その後を子どもが追って行った。それで安心と思ってまた店の前に出て、老人に話しかける。「ここからは西院と○○のどっちの駅が近いですかね。」西院と○○は隣合った駅なので、どっちに近いとしても大差ないが、そう思いながらも筆者は西院と○○が隣合った駅ではなく、またそこがそのふたつの駅とは全く違う場所であることもうすうす感じている。老人はそれを察知しているのか、西院も○○もこことは全然違うと言いながら、その坂を下った左手に地下に潜る出入り口があるという。それはよかったと筆者は思いながら、いつの間にかしとしとと雨が振り、全身が濡れ始めている。それに自転車を店前に停めていて、それに乗って家に帰りたいのに、自転車のままでは電車に乗れない。さて困ったなと思いながら、これ以上濡れては困るので、とにかく坂を急いで下ろうと、自転車のかたわら、地面に置いてあった荷物を荷台にくくりつけようと、その荷物を持ち上げる。それは直方体の灰色をした石の塊に見え、また両手でやっと抱えられるほどだ。それは路上にしばし置かれていたため、雨水を吸ってポール紙がごわごわになったのだ。筆者は荷台にくくりつける前に中身を確認しようと、そのごわごわになって厚さ2センチもあろうかという箱の蓋を開ける。すると中にも水分が浸透し、果物がみんな濡れ、水も溜まっている。果物はみかんだが、どれも驚くほど小さく、パチンコ玉からゴルフのボール程度の大きさが混じっていて、しかも半分は黴が生えている。それを店の老人と覗き込みながら、老人は「あんた、安もんを買わはったな」と筆者に言う。自分でもそう思いながら、そこで目が覚めた。
●たばこを吸う子どもとからたちの実の大きさのみかん_d0053294_14530805.jpg

by uuuzen | 2010-11-21 23:59 | ●【夢千夜(むちや)日記】
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