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●発送『Hammersmith Odeon』
線図や街路を網羅したロンドンの地図本をサイモンさんからロンドンでもらい、それを片手に数日間ロンドンの各地を散歩した。



20年近く前のことだが、当時思ったのは、お金と地図があれば世界中どの都市でも歩けるということで、ロンドンの街は初めてという気がしなかった。サイモンさんは笑いながら、もう何度か来るとロンドン人より詳しくなるかもと言った。それきりロンドンには行っていないが、住むにはどうなのだろう。当時サイモンさんが住んでいたウェスト・ハムステッドにあった小さなホテルに投宿したが、経営者はイタリアのコモからやって来たと言っていた。主人は中東系かインド系が混じっている気がしたが、若くてかわいい奥さん、あるいは娘さんはどう見てもイタリア人で、コモ湖は染色で有名ですねとか話すと、よく知っているねと言われた。ロンドンにいた間、毎日地下鉄、そしてたまにバスを利用したが、美術館を主に回ったので、市内でも行ったところは限られる。そんなことを今朝思い出したのは、ザッパの新作『ハマースミス・オデオン』の発送が今週中、おそらく水曜日にあるだろうというメールがゲイルから届いたからだ。そのメールはミュージック・トゥデイが送ってくれるものとは違うので、発送日は多少前後するだろう。一昨日このブログにミュージック・トゥデイが15日発送と知らせて来たと書いた時、筆者はまだ15日は先のことかと思っていたが、それは今週月曜日であったことに今朝気づいた。先日書いたように、筆者は今日が何日で何曜日かをいつも気にせずに生きているので、こうして書きながら、今日が何日かわらないでいるが、今カレンダーを確認すると17日の水曜だ。つまり、今朝届いていたゲイルからのメールにある水曜日発送とは、今日のことだ。ミュージック・トゥデイからはまだ発送済みのメールが届かないが、今夜か明日にはあるだろう。それもあって、今日は予定を変更して、このゲイルのメールなどの紹介をしておく。このメールは予約した人全員に発送されるもので、画像メールだ。その画像をダウンロードして縮小し、以下に掲げておく。本当は画像中の文字をクリックすると、新譜『ハマースミス・オデオン』を購入する画面が現われる。筆者はいつも予約で買うので、多少割安だが、発売後は本来の価格に戻る。それがいくらほど高いのか調べたことはないが、売れ行きが悪くて在庫があれば、1年以上経てばかなり値引きされる。
●発送『Hammersmith Odeon』_d0053294_1848813.jpg

 その画像メールにゲイルの文章があって、背景はロンドンの地下鉄の路線図になっている。ぼんやりとしか映っていないが、ハマースミス駅は赤丸印がついていて、文章の4行目すぐ下にそれが見える。これはロンドン市の西部だ。この地下鉄の駅に降り立ったかどうか忘れたが、ウェスト・ハムステッドはハマースミスより少し北で、縦横に地下鉄に乗ったので、通過はしたと思う。それはいいとして、画像の一番下に3つの丸が見える。今回の新譜は3枚組で、そのディスク・デザインだ。1枚目はこの新譜が録音されたハマースミス・オデオンという劇場のあるハマースミス駅のマーク、3枚目が先日開催されたロンドンのラウンドハウスがあるチョーク・ファーム駅のマークだ。ロンドンの地下鉄駅はこのように赤丸の中央に青い帯があって、そこに駅名が白抜きされている。ディスクの2枚目は黄色地に黒で×印を入れ、左右にRが入っている。これが何を意味するのかわからないが、線路の末端にはよくこんな印がある。ゲイルの文章によると、ザッパとゲイルがロンドンのオーケストラを使って『200モーテルズ』の収録を70年代最初に行なった時、ハマースミスとチョーク・ファームの真ん中に住んだらしいが、ゲイルはその駅名を書いていないのでどこかわからない。メリルボーンやパディントン辺りと思うが、ともかくゲイルにとってはロンドンは思い出があるのだろう。今回の新譜のジャケットは、早速ファンがザッパ・ファミリーのサイトのフォーラム欄でああだこうだとうるさいようだが、ゲイルは気に入っているようだ。筆者もいいと思う。アルバムの地色に浅葱色が選ばれた理由は、筆者の想像によれば、これはロンドン地下鉄の基本色で、ホームページを見ると、どのページの背景地色もこれと同じ色に指定されている。おそらくそれを知っての、つまりロンドン地下鉄を意識してのデザインだ。また、イギリスはロコモティヴを生んだ国であるから、ジャケット裏面だろうか、それが描かれている。また、ゲイルは電車の音がラウンドハウスでは聞えると書いている。これは電車のエンジンを交換する整備地があるためだ。ちなみにこの駅は何度も通過し、名前をよく覚えている。
 ラウンドハウスでの思い出を早速こうしてわずかに報告するゲイルだが、今回の新譜はロンドンでの演奏であるから、それに合わせてロンドンでザッパ70周年のイヴェントを開催した。ゲイルの文章で面白いのは、ザッパが裸で便器に座っている有名な写真を例に挙げながら、場所をテキサスの田舎の便所に移し、壁に取りつけられたトイレのシート・カバー器の上方の壁に書かれる落書きをだしにして冗談を書いていることだ。落書きはイギリス人が書いたという設定で、「無料のカウボーイ・ハット。ラウンドハウスに集まったみんなはとてもいい人ばかりで、もうすぐ彼らの写真を見せるよ」という内容だが、トイレの紙シートは中央に大きな穴が開いているので、カウボーイ・ハットにはなりようがないが、ここからはテキサスのカウ・ボーイの頭に糞をするという強烈な皮肉のイメージが連想され、それはザッパのカウボーイ嫌いにつながる一方、ザッパの有名な便器に座る写真とも関連するということで、読み方によって深い味わいがある。また、ラウンドハウスに集まった人たちの写真はすでに発表している人がいるが、ゲイルはこのトイレの落書きという想像上の冗談に乗せて、近いうちに写真を公表するというつもりなのであろう。また、ラウンドハウスでは電車の音が聞えた云々の言い回しからは、音源も発表のつもりだろう。それで、今日筆者が予定を変更してこの話題を書こうと思ったのは、ゲイルのこのトイレにまつわる冗談の由来だ。ゲイルはどのようにしてこれを思いついたのだろう。筆者が思い当たるのは、サイモンさんが9月に発表したロンド・ハットン・リポートにおける文章「NO POO-POO JOKES」だ。この題名はザッパ・ファンならザッパのどの曲の歌詞に由来するかわかるが、これは日本語ではどう訳せばいいだろう。「下品な冗談はやめろよ」といったことになるが、「下品」は「下ネタ」の意味合いを含む。ともかく、サイモンさんの文章はザッパの歌詞におけるジョークやパロディ性についての論考で、イギリスの喜劇世界ないし、イギリス人特有のユーモア感覚を理解しなければ読み取りにくいところがあるが、結論を言えばザッパはイギリスの有名な文芸評論家からも理解されず、またイギリス人全体からもザッパの歌詞における独特の世界観はわかりにくいということだ。この件に関して筆者は別に文章をまとめて、いつかロンド・ハットンに投稿したいとも考えているが、ザッパの歌詞についてはザッパ研究家はこぞってお手上げの様子で、まともに論じたものがない。そこにサイモンさんは着目するわけだ。ザッパはイギリス娘を皮肉った歌詞を書き、それをイギリスの音楽雑誌の編集者が、ザッパはイギリスにツアーした時に、簡単に寝てくれるグルーピーがいなかったことへの腹いせと書いたことがある。その書き方からわかるように、ザッパにいささか好意的な音楽評論家でさえも、ザッパの書くあからさまな皮肉には何か反論せずにはおれないほど腹立たしいものがある。サイモンはそのところに切り込んで、その原因が何であるかと分析し、結局アメリカ人とイギリス人の気質の差といったものを炙り出す。ここには良識といった言葉が持ち出されそうだが、ザッパは非合法なことや良識に反することを言って話題を取ろうというのではなく、その良識が拠って立つところにメスを入れ、根本的に人間が囚われているタブーを自覚させ、それからの解放をほのめかしている。それはいいとして、サイモンさんのその文章もザッパが便器に座る有名なポスターについて書く。ゲイルはサイモンさんの文章を読んだのではないだろうか。そして、サイモンさんはラウンドハウスのザッパ70周年に当然出かけたと思うが、そこでゲイルと何を話したであろうか。ロンド・ハットン・リポートはゲイルから槍玉に挙げられることをかなり警戒して始められた。ゲイルの考えがもっと柔らかくなればいいのだが。

●2003年4月6日(日)夜 その3
●発送『Hammersmith Odeon』_d0053294_18485114.jpgザッパの数多い曲から思うことは、ザッパらしくない曲もそこにはあるということで、ひとりの作家は狭い枠に留まってばかりではおらず、時には実験もしてみたくなる。それは筆者自身を思ってもそうだ。若冲が最期に五百羅漢の石像造りに手を染めたことからすれば、「これも若冲?」と思わせる作品があって当然だ。その意味で『大全』にはもっと多くの作品が含まれるべきで、あるいは『一応現段階では工房作と考えた方がよい作品』と題して収録し、一般の人々に判断を委ねるのがよいのではないだろうか。それにまた、たとえば尼崎で展示されたのに『大全』に収録されない水墨画の掛軸の中には実に面白いものがあるのも事実だ。それらは若冲の画題の広範さを示すし、似た構図の作が『大全』にあることによって、若冲はいわゆる「型」を完成させて、それを繰り返す画家であったこともわかる。ほとんどそっくりのふたつの作品がある場合、出来のよい方が真作で、そうでない方が贋作だとするのは何の根拠もなく、どちらも真作であり得る。若冲はまず下絵を綿密に練って構図などを完全に決め、それを元に水墨画の場合は一気に描いたに違いない。そしてその「型」は1回しか使用されなかったこともあれば、年月を置いて数回使用されたこともあるだろう。昨日観た『ロダン展』の会場の終わり近くに面白い作品があった。それは今まで作った数々の首や腕、足などの彫刻の部分を組み合わせて新たな1点としたものだ。説明にはアッサンブラージュの手法と書いてあったが、これはどのような作家でも大なり小なり似たことはする。若冲もまたそうしたことができるように豊富な「型」を用意していたに違いない。著色画でも同じ鶏が何度でも別の作品に登場するし、そうした若冲の代表的なモチーフの鶏以外にも鶴を初め、他の動物も同じように、いつでも要望に応じられるように小さな下絵を用意していたと思う。これはあるいは伏見人形の型にも通ずる。他の画家はほとんど見向きもしなかったのに、若冲がこの伏見人形を愛好して40代から最晩年まで繰り返し描いていることは注目に値する。そしてそれらの絵はまたみなどれも同じように見えるところが面白い。文字どおり型を使用して作る伏見人形を描くに当たって若冲は下絵としての「型」を用いているから、これは二重の型使用になる。これは若冲の若い頃の中国絵画の模写修行が何らかの形で影を落としていることでもあるかもしれない。また「型」の使用は、一般には雛形と呼ばれて工芸家には常識的な手法だが、若冲の絵には確かにそうした工芸家的な視点ないし手法がある。ここで若冲論をこれ以上展開すると夜が明けてしまいそうだが、狩野氏と話したわずか20分そこそこの時間において、若冲研究はまだまだ余地があるということを確信した。さて、筆者がネット・オークションで購入した若冲の掛軸には雌雄の鶏が描かれていて、ピラミッド型構図の中央に大きく雄鶏が首を画面奥に向けて片足で立っている。つまり体は横向きに大きく絵の中心部を占めるが、顔は見えない。そして左に雌がうずくまって体と顔を絵を見る方に向けている。雄はこの雌を見ているとも考えられるし、さらに雌の向こうを見つめているとしてもよい。この視線の交差は若冲絵画の大きな特徴だ。また雄鶏は左に向かって歩いているのに首は右、つまり画面の水平面とは直角に交差する画面の奥に向けている。この絵画平面上で三次元的な直角軸を巧みに構成する心理ドラマは若冲の鶏を描く掛軸にはしばしば登場し、構図における直角関係はたとえば梅の花木だけを描いたような場合にでも表現されている。縦長の掛軸の場合では直角三角形が斜めに当てはまる基本構図が常套手法として用いられている。それは北齊の先取りとも言ってよいような分析的絵画造形精神であり、情緒に溺れない理知的な性格を強く思わせる。だが、その冷徹とも言える表情とは別に独特のユーモアがあり、強引に関連づけるならばザッパとは近い性格と言ってよい。話を戻すと、若冲が鶏の体の進行方向とは逆ないし直角方向に首を曲げて描くことは人間の場合でも同じで、『大全』には5点も掲載されている売茶翁の肖像画の4点はみなそうなっている。筆者の所有する作をあえて比較のために他の若冲作と比較言及すれば、『大全』の111図版『虻に双鶏図』が作品サイズも近く、また構図にもどこか共通性があってやや印象が近い。おそらくこの作品と同じ時期に描かれたものだろう。ただし『虻に双鶏図』は同じ構図の保存状態の悪い別作品が紫紅社本に掲載されていて、「型」の作成と使用が伺える根拠を示しているのに対して、筆者の所有するものは同じ「型」を下敷きにした別作品は今のところ発見されていない。それはアッサンブラージュ手法の元素材が別作品には存在していないことでもあって、その点で『虻に双鶏図』よりは少しは重要な作と考える。また『虻に双鶏図』は画面中央上部に一匹の虻が飛び、それを画面手前中央の大部分を占める地面にしゃがんだ姿の雌鶏が見上げ、その背後で画面奥を見つめて顔を見せない雄が添えられているが、その何とも言えない仲睦まじい雌雄の鶏の様子は俳句を視覚化した趣があっていかにも楽しい。その点、筆者のものは雄が堂々して勇士を雌に誇示しているように見える。雌はただただその姿に驚いて、ほれぼれと見つめるばかりといった感じだ。その格好よさを雌にひけらかしている雄の姿は若冲がしばしば描く鶏と共通した雰囲気はありながら、尻部の羽の描き方などは独特で一風変わっている。また、若冲としては珍しいやや横長の画面の中で、雄の鶏の重量感と二羽の画面におけるバランス感はぎりぎり保たれて絶妙さを伝える。もう1、2センチ何かが違えば画面は破綻しているだろう。その点がまた若冲の緊張感の証であり、筆者が一見して真作と思った点でもある。さて、繰り返すがインターネット・ライフをスタートさせてわずか数日でこの作品に出会った。おめでたいことに筆者にはそのことが何かの啓示に思えた。友人が古いパソコンを送ってくれるのが数日後れていたならばこのオークション出品には出会えなかったし、ヤフーと契約した後にようやく届いたモデムの設定にもっと手間取っていたならば、やはり出会いはなかった。出費は痛かったが、ひょっとすれば若冲作の新発見という話題になるかもしれず、またそうでなくても個人的話題としては面白いと考えた。充分それはこの日記のネタにもなるだろう。そして実際こうして書いている。他にはどこにもないはずの1点限りの作品を所有することで、何だか自分が昨日の自分ではない気になれたし、その気分は持続している。そうなると全く安い買い物であった。いずれ若冲論を書きたいと考えるが、そのためにはまだまだ若冲作とおぼしき作品を見つけて購入せねばならない。ああ、それには経済的余裕が先決だ。本職に励むしかない。執心、修身、そして就寝。
by uuuzen | 2010-11-17 18:49 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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