得な特別切符が販売されていることを、この展覧会を見た帰りの電車の吊り広告で知った。わが家から奈良に行くには、京都駅に出て近鉄を利用する方法と、阪急で大阪に出て近鉄に乗る方法とがある。

どちらも時間は同じほどかかる。どちらが安いか。京都駅に出て行く方法ならば、阪急が四条烏丸まで220円、地下鉄が京都駅まで210円、近鉄が610円なので、合計1040円で往復2080円だ。大阪に出ると、阪急390円、地下鉄240円、近鉄540円で、合計1180円と少し高くなるが、安くなる方法がある。地下鉄を使わず、JR環状線で梅田から鶴橋に出て、それから近鉄を利用すれば、時間はほんの少しよけいにかかるが、環状線170円、近鉄480円なので、片道1040円に下がり、京都駅に出るのと同じだ。ところが、筆者がいつも利用する方法は、阪急淡路で乗り換えて天六に出る。そこまで350円だ。そこから天神橋筋商店街を5分ほど歩き、天満駅から環状線に乗って鶴橋に行く。これならば片道ちょいうど1000円で済む。天神橋筋商店街を歩くのは好きであるし、ついでに昼食を摂ったりするので、少々時間がかかってもこのルートを使う。涙ぐましい節約ぶりだが、合理的な大阪人は誰でもそんなところがある。この最安運賃では、家内と行くと往復4000円、奈良で喫茶店や食事、また買い物をし、さらに展覧会費や図録代を含めると、すぐに1万円を越える。たまにはそんな出費はいいが、平均すると週1回は展覧会に行くから、年間かなりのまとまった額になる。趣味と思えば安いが、いずれ値上げがあるはずで、その頃筆者らは今より収入が増えることはなく、展覧会にやたら出かけるというのも贅沢になるだろう。さて、帰りの阪急電車の中で奈良までお得用切符として阪急全線と大阪地下鉄、そして近鉄は奈良周辺地域も含めて乗り降り自由の1日乗車券が1700円で売られていることを知った。期間限定だが、広告を見るのは初めてであった。家内は毎日見ていたそうだが、いつも出かける直前になって家内に行き先を知らせるので、その切符のことを思い出さなかった。ふたりで600円損したが、ま、安いコーヒーでも飲んだと思って諦める。情報不足で思わぬ損をすることがある。
平城京遷都1300年祭特別展として開催されたこの展覧会、チラシはかなり早く、春頃から入手出来た。その謳い文句に「若冲も見た」とかあって、若冲画が何点展覧されるのか期待されたが、細見美術館から「糸瓜群虫図」、それに2000年の若冲展に出た個人蔵の『玄圃瑶華』のみで、しかもこれが展示の最後に位置していた。そのことは、副題にあるように、中国、朝鮮、そして日本と伝わった花鳥画を若冲が完成したことになる。これはなかなか意味深長だ。図録は買っていないが、その辺りのことがどう論じられているのだろう。展示数は思ったほど多くなく、いつもなら使用さる廊下的な部分の壁面は展示がなかった。その代わり、展示に利用されないことが多い1階が使われたので、展示総数116点はちょうどいいくらいかもしれない。奈良県立美術館はいつも地味な展覧会を開催するので、今回は豪華なチラシから大展覧会を期待したが、実状は普段の規模と大差なかった。これは予算が限られるためだろう。今回は中国と韓国からの出品は合計3点のみで、副題はやや看板に偽りありといった感じがあるが、日本の美術館の収蔵品で充分間に合うと考えられたようだ。また、同じ時期に近くの国立博物館では正倉院展が開催中で、その展示は今回の展覧会の第1章に相当する部分をかなり覆うからというつもりもあったのだろう。ならば、例年の正倉院を、今年は花鳥画に絞って展示品を選んでもよかったと思うが、収蔵も企画も管轄が違うこともあって、そう簡単に事は運ばなかったであろう。それにしても、平城京遷都1300年祭特別展と銘打つには、かなり間に合わせ的な展示で、これは日本の経済の低迷ぶりをよく示している。100年に一度の特別展ならば、もっとどうにか出来たのではないだろうか。経済の低迷は真っ先にこうした文化面に現われるが、それは日本がまだ文化的には2、3流の国であることを証明もしている。文化で腹はふくれないという政治家の考えだが、はたして腹のふくれることを第一義に考えて政治が行なわれているだろうか。また、なぜこうした特別展の内容に花鳥画を選んだかだが、奈良と言えばシルクロードで、これは10数年前に大きな催しをしたので、別の角度から、そして国立博物館が専門とする仏教美術とも一線を画した内容というところあたりから浮上したのであろう。今さら花鳥画とはと思わないでもないが、一度根本的なところから捉え直しておくのは無駄ではない。そういう観点から今回は企画されたのではないか。そして展示品はそれなりにうまく系統立てられていて、花鳥画という概念を知るにはとてもいい機会であった。ただし、そういうことに関心のある者からすれば代表作は出ていたとしても、やはりもっと充実した、目新しい作品がほしかったというのが結論だ。
2部構成で、もらって来た目録によると、第1部は「唐・統一新羅の花鳥画・花鳥文様と日本での受容・展開」、第2部は「宋・元・明・高麗・朝鮮王朝の花鳥画と日本での受容・展開」で、第1部は23点の出品、そのうち6点がMIHO MUSEUM、4点が白鶴美術館から借りたものだ。中国や朝鮮では王朝が交代するたびに美術品が大量に失われたので、かえって正倉院のように日本に古いものが伝わっている。そのため、第1部は身近なところから借りてお茶を濁したような印象があっても、必ずしもそうとは言えないところがある。最初に展示されていたのは、中国から借りて来た1988年に出土した唐の壁画「鳥語花香仕女図」だ。女性の上半身が荒い壁面に描かれ、その上部にかなりかすれた鳥が一羽飛んでいた。花鳥画の観点から言えば、そこをよく見るべきだが、花鳥画は当初こうした人物図とともにあったものが、次第に分離して来たことをこの展示品は示す。花や鳥を描く絵は今ではあたりまえのように考えがちだが、まだそんなに歴史は長くない。そんなことを言えば人類の歴史もそうだ。キリストが生まれて2000年そこそこであるから、普段見慣れている美術品の歴史もまだその程度なのだ。これは考えるたびに不思議な気がする。それ以前に美術と呼べるものがなかったのか。あったとしてもごく素朴なもので、その発展はごく狭い地域ごとに隔離された状態で、しかも数千年は同じようなものを同じように作った。大きな文明、よく言われるように四大文明の時代になって、造形ということに国家の威厳や特徴、時代性がそなわり始め、人類はそうした造形物を発掘品によっておおよそ知ることになり、またその後の美術の歴史も系統立てるようになったが、筆者はそうした古代文明よりはるか以前に、痕跡は残っていないとしても、人類が全く別の文明を形成し、そこには現在の人類が知らない造形の歴史もあったのではないかとよく思ったりする。それはある意味では四大文明以降現在までの美術品を見飽きたという思いと、たった数千年程度の歴史しかない美術というものがあまりにもちっぽけなものに見えるからだ。これはある意味では人間に飽きていることによる。そのため、全く違う空間に、思いもよらないほど大規模な美術の歴史の堆積があるのではないかと考え、そういうことをよく眠っている間の夢に見る。だが、筆者のこの思いはこれから10万年後の人類が抱いているかもしれない。10万年経った時、おそらく現在の人類は滅びて、別の新人類が世界を闊歩しており、その中の美術好きが地層深く、現在の美術品のかけらを発見し、「今のわれわれとは全く異なる文明がかつて存在し、そこにはこんな美術品が存在したのだ」と狂喜するかもしれない。その時、花鳥画という概念もきっとあるとは思うが、花も鳥も大きく様変わりして、現在の花鳥画とは似ておらず、筆者が夢見る、見飽きたものではない珍しさを内蔵している可能性がある。なぜ、こんなことを書くのか、今自問してみたが、筆者はロジェ・カイヨワの晩年のように、自然が内に秘める、誰も見たことがない石の内部の絵模様に思いを馳せる境地に至りつつあるのだろうという気がする。また、そういう思いに至るのは、正直な話、もうあらゆる美術品を見たので、何に対しても驚かなくなったからだろう。もちろん誰しも全美術作品を見ることは出来ないが、見たことのないものであっても、その近隣のものを知っているので、さほど目新しくはないのだ。そして、その意味でも今回は目を見張る作品がなかった。
花鳥画と聞けば、必ず絵と思いがちだが、第1部では金属の器が目立った。鏡や器などの器具の装飾に文様が表現され、そこに山水や人物とともに花鳥画のごく初期の形が見受けられる。壁画は別として、紙や絹に描かれる絵は素材が脆弱で、千年持つことは稀だ。だが、同じ時代には同じような文様表現が行なわれたはずで、器に表現される小さな文様から、たとえば壁画の様子をある程度うかがことは出来る。そのため、第1部は花鳥画的断片から当時さらに色鮮やかに随所に描かれたであろう絵画を想像するしかない。そこで面白いのは、文様という言葉だ。文様と絵とは違うという向きがあるだろうが、器には現代の写実的な絵画のようなものが描かれることはまずない。それらは単純化された文様である場合が普通で、それを古代の人は写実と思ってもいた。先の壁画「鳥語花香仕女図」は、文様と呼ぶには女性の顔には表情があり過ぎるが、誰かと特定出来ない匿名性の、時代特有の顔である点では文様的と言ってよいし、かすかに見える鳥もまさにそうだ。つまり、そうした一種無名性、あるいは普遍性とでも言うべき表現から出発して、たとえば写実に接近し、また揺り戻し的と言おうか、若冲のようにきわめて文様的な絵が生まれて来たということは、花鳥画というジャンルは、もうあらゆる可能性を試し、大きな輪を描いて閉じて来たとも言える。これは花鳥画だけではなく、絵画というものがそうだ。アルタミラの洞窟壁画には、写実的ともまた文様的とも言える牛の絵がたくさん描かれる。絵画はその1点に集約されると言ってよく、先に書いたように、10万年後に新人類が出現して新たな文明を始めて美術の歴史を展開したとしても、おそらくこれまで人類が培って来たものと本質はほとんど差はない。早い話が、花や動物をどのように組み合わせてどのような形で描くかは、時代時代の好みにより、どれが優れているか劣っているかはない。変化はその時々の人々の好みの反映に過ぎず、より図案的か、より写真的かに傾くだけだ。そう言ってしまえば身も蓋もないし、また実際は国が分かれ、風土の差もあって、美術が造形のみの純粋な試行錯誤によって歴史が定まることはない。そこにはむしろ迷信やまじない、縁起のよさを願う人々の思いが絡み、それが造形の方式を規定する。そういったことは、特に中国では大きく、それが文化的植民地の朝鮮や日本にそのまま移植され、一辺境種を生み出した。その系譜をざっと概観するというのが今回の展覧会で、視点はもちろん日本にあって、辺境地から見た花鳥画の歴史の変遷の展示だ。
日本を中国の文化的辺境とみなす意見には、日本では同調する向きは少ないだろう。現在のような日中の政治的摩擦のある時代からすればなおさらだが、漢字を簡略化して平仮名や片仮名を生み、それらの混合で日常の言葉を使っている現在の日本を思えば、その文化は中国からもらったものをそのように簡略化して根づかせ、しかも簡略化したものであると思ってもさほど間違いではなく、実際それは花鳥画というわずかなものを抽出しても言える。これは西洋の美学者から見れば、日本には見るべきものがなく、単に中国のおまけみたいな存在ということになるが、その一方で、日本の風土が生み出した和風化を特別視すると、また評価が変わって来る。この点に関して筆者は簡単に結論めいたことを言うつもりはないが、たとえば中国が漢字の膨大さによってかえって身動きが取れなくなったことを思えば、簡略化の動きはひとつの独創に思えるし、日本は中国とは全く違った何かを持った国と評価したいが、一方で中国が膨大な漢字を簡易な形に作り変え、日本の平仮名や片仮名に似たような字体を作り出していることを見れば、やはり侮りがたいものを持っていると思ってしまう。ここで若冲を持ち出すと、若冲はそこまで考えていなかったと思うが、日本的な、つまり簡略が行き届いた平明な表現の花鳥画を生み出した点において、中国にはなかった個性を完成させたわけで、そのことをまともに中国の花鳥画の歴史が俎上に載せて評価するのかしないのか、そこがとても気になる。つまり、今回の展覧会のテーマを中国が取り上げた時、若冲がどういう立場で扱われるかだ。おそらくさほど重視されないだろう。とすれば、中国は日本を侮って、全く取るに足らない辺境の地とみなしていることを今さらながらに証明すると思うが、そういう中国に未来があるのかどうか、そのところも気になる。だが、この問題が、中国が西洋と接して、日本以上に立体表現にかけては古い歴史があり、たとえば若冲の平板な表現に関しては、日本から見る以上に複雑な歴史的背景を持っていることだ。確かに日本は今は中国以上に欧米の文化に親しいだろうが、歴史的に見れば中国の方がはるかにそうであって、日本はやはり辺境の地に過ぎなかったという事実だ。今回の展覧会はそこまで突っ込んだことを示そうというものではなかったが、花鳥画ひとつ採り上げても、そこには過去から未来へと続く、日本、朝鮮、中国の三国の差が明瞭にわかるのではないかと筆者は思う。そして、そこから見えるのは中国に何から何まで学びながら、どうにか独自性を生み出した、また生み出すしかなかった日本や朝鮮の辺境性であり、その辺境性がかえって大きな力となって中国に対峙している姿なのだが、中国の巨大さは、それをもゆうゆうと飲み込んで、独自の新たなものを生み出す可能性を持った途方もなさだ。ここにはかなりの悲観論が含まれるが、物事はそう簡単ではなく、辺境は辺境の強みがあって、それが歴史の大きな場面を担うのは、さまざまな芸術が示している。
今回はあくまでも中国、朝鮮、日本という東アジアでの花鳥画の変遷と主題にした展覧会であったが、その一方で中国は西洋画めいた花鳥画の歴史もあり、それが日本とどう関係するのかという視点はほとんど含まれなかった。それをやろうとすると、今度は西洋の絵画も持ち出さねばならなくなる。花鳥画という言葉に代表される味わいは誰しも漠然とながら感じるものがあり、その範囲で作品を選ぼうとすれば今回選ばれた作品で充分だろう。だが、花鳥画は花と鳥の組み合わせといった言葉尻に単純な捉え方では片づくことではなく、東アジア独自の絵画観がそこにはある。それは西洋の人間主体に物事を考える思想とはまた違って、自然をひとつの主体として見つめ、そこに人間が内蔵される姿を思う。その意味からすれば西洋には花鳥画は存在しなかったし、実際ルネサンスの写実的な絵画でも人間はリアルに描かれても花はきわめて文様的で、あまり重視されているとは言えない。人間に神の姿を見るか、自然にそれを見るかの差とも言えるが、西洋画を持ち出して中国の花鳥画を論じることの難しさはそこにあるとも言える。やはり花鳥画の概念はアジアのもので、それが今の日本にどれほど受容されている、またこれからもそうであるかは、かなり怪しいとも言えるが、筆者のように老いて来ると、花や鳥によく目が行き、自然の美しさやその謎めきを日常思うことは多いから、花鳥画はまだまだ滅びないように思える。思いつくまま休みなしに書いて来てこんなところにたどり着いた。筆と墨をもう日常使わなくなった現在、今回の展示品はすべて過去の異物に見える若者もあるだろう。だが、自然に親しみ、それに少しでも沿った人生を歩みたいと願う限り、花や鳥に思いを託す画家は絶えないはずであるし、全く新しい画材による花鳥画は今後生まれ続けると思える。ただし、筆者はそれを見ずともどんなものかはおおよそ想像がつく気がする。過去を無視して新しいものが生まれるはずはなく、その過去をよく知れば新しく生まれるものに恐れを抱くことはない。