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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『おんな 立ち止まらない女性たち 1945-2010』
会はあらゆる分野にあるが、写真家協会があることを今回の展覧会で初めて知った。その創立60周年記念で、戦後から現在までの女性をテーマにして、4つの章に分けて150点ほどの写真を展示した。



●『おんな 立ち止まらない女性たち 1945-2010』_d0053294_114788.jpg同じ写真を全部収めた本も出版され、それを見れば充分なようだが、会場で本を見ると、縮小されている分、迫力がない。写真はものにもよるが、細部を楽しむものもが時にあって、それは大きく引き伸ばされるほどよい。また、本に印刷すると、印画紙の微妙な階調が必ずと言ってよいほど消し飛ぶから、写真も出来ることならば実物を見る方がよい。さて、タイトルに「おんな」とあって、これは見たいと思った。どんな美人の写真があるのか、それが楽しみで出かけた。9月の19日で、当日は平安神宮の神苑にその後立ち寄り、そのことは以前に書いた。今回の展示は女性の逞しさを表わすもので、草食系男性とは違ってまずます自己主張するようになって来た日本の女性に焦点を合わせる。江戸時代ならば女性は単に「女」と表示され、個性がない存在と見られることが多かった。生むための道具と言ってよい。それが変化し始めたのは戦後だ。そしてここ20年ほどはもっと加速化し、賃金の面でも男と変わらないようになった。それで女性としてはつまらない男に振り回されるより、ひとりの生活を楽しむ、あるいはそのようにして30代半ばでも過ぎると、今さら給料の少ない男などは全く眼中になく、20ほど年齢が上でもとにかく金持ちか、あるいは10歳ほど年下の言うことをよく聞く忠実な若い男がいいと思うようになる。これは動物的に見てもきわめて正しいので、筆者は何ら文句はない。筆者が女性でもそうするだろう。だいたい男が男であるという理由でふんぞり返っておられる方がおかしい。男は他の男より秀でた何か特別な能力を持たねば女から好かれないというのは実に正しい。そのために男は競争する。これは膣内に入った精子の競争と同じで、男は本能的に何に対しても競争する意識がある。それを女がかたわらで見て、勝者にぞっこん惚れるのは、種の保存から見て理にかなっている。ところが、試験管ベイビーが可能となった途端、精子の競争がなくなり、どんな精子でも子孫を残すことが可能になった。筆者は医学的な詳しいことは知らないので、これは的外れを言っているかもしれないが、試験管の中に男は射精しないから、試験管ベイビーは本来の精子競争とは別のところで受精が行なわれる。それは不自然ではないか。そして、そのことで何かおかしなことがいずれわかって来るのではないかとも考える。試験管ベイビーは今はあたりまえに行なわれるようになったが、そのことと同時に女が逞しくなった気もする。生物の世界では、雄がいなくても雌だけで子孫を増やすものがあるが、人間もそのようになりつつあるのかもしれない。男は膣に射精せず、何かで精子を抜き取られて、それが冷凍保存され、自分の知らないところで子孫が増える。それはアメリカでは普通に行なわれていて、独身女性はIQの高い男性の精子を高額を支払って膣内に入れてもらう。そうして生まれた子が父探しをすることが頻繁に生じているが、愛とは何かを考えさせる。
 結婚はしたくないが子どもはほしいという女性がある。動物には、雄は産みっ放しで、子育ては雌がやる場合が多い。それと同じかもしれない。国家とは社会という意識が崩れ、自分本位の社会になって来たので、結婚しなければ生活が安定しないという女性は少なくなって来た。そのかたわらでやはり子どもを抱えると仕事は大変で、しかも離婚してまだ20代となると男と遊びたいのはもっとも、つい子を放ったらかしにして男と遊びに回り、やがて子を見捨てるという事件が頻発する。これは今に始まったことではなく昔からあった。男は肉体的に女を満足させる必要があり、それを怠るとある日妻がどこかの男と消えるという事態にもなりかねない。その場合、世間はひどい女と罵るだろうが、反面夫が頼りなくて妻を満足させられないからそうなったのだとも思う。そういう事態を思えば、気弱な男性は最初から女が恐くて、ますます草を食むだけとなる。そして、そういう男性はそのまま放っておかれるから、まずます結婚出来ない人が増え、人口が減る。学校でも競争、社会に出ればもっと過酷で、しかも一方で女を獲得するにも競争、おまけに結婚すればもっと猛烈にその渦中に放り込まれるし、家族サービスもせっせとせねばならない。女好きな男ならいいが、そうでない場合はとても女と一緒になる姿は想像出来ず、いっそ女になった方がいいと思う男も増えるし、実際TVではそんな男か女かわからない芸能人が毎日どのチャンネルにも出ている。それはさておき、逞しく戦後を生きて来た日本の女が今後どういう方向に行くか。そのことまでも今回の展覧会は示そうというのではない。写真は記録であるから、過去がどうであったかを示すだけだ。だが、半世紀以上の流れを見ると、10年かそこら先はだいたい想像出来ることでもある。この調子で行くと、日本は女が肉食系になって、男が女から選ばれるのが常識化する。いや、実際そうなっている。持てない男は徹底的にそうであり、持てる男は複数の女を次々と相手にする。力の差によってこうなるのは仕方がない。それは女にも言える。美人には男が群がるが、そうでない女は結婚がおぼつかない。だが、精子バンクに頼るとまだ自分の子を持つことが出来る。その点男もそうだと言えるが、能力のない男の精子をどこの女がほしがるだろうか。女は産む存在であるということに価値があり、美人かどうかはどうでもいいことなのだ。やはり女が男を選ぶことには変わりがないではない。
 子孫を残せば後はあまりの人生で、それはあってもなくてもいいようなものと言える。ところが高齢社会になって、そのあまりの人生の方が圧倒的に長くなった。子どもが70歳になって90代の親の面倒を見る。あるいは子どもの方が早く死ぬということが珍しくない。かつては子をたくさん産んで、誰かに家を継いでもらい、自分の老後も見てもらうというのが常識であったが、今はそれは珍しくなって、うまく行って子どもがまともに育って家族を持つで、とても余裕を持って親を最期までしっかりと面倒を見るということは出来にくくなった。こうなると長命のどこがいいのか、また医学の発達に何の意味があるかと思ってしまう。そこで思うのは人生の意味とやらになる。生きて何が面白いのかわからない人が増え、年間3万人以上が自殺する世の中だが、それは簡単に言えばさびしいからだ。さびしいとはつながりを持てないことで、これはもちろん人間的な心の通いだ。それがなくても孤独を感じずに気楽に生きる人もあるので、孤独やそれから続く自殺は一種の病気と考えてよい。そこで大切なことは、はたから見て孤独であっても、本人は至って元気で楽しいという心がまえだ。これは誰でもよくわかっていながら、常に満たされるとは限らない。だが、そこに男と女がいて、両者が支え合うということを考えればどうか。あるいは、男と男、女と女でもいいが、今回の展覧会の主旨からすれば、女の逞しさを男が称えるということであるから、女の活力を多少なりとも草食系の男が見習えといった雰囲気も漂う。また、男と女はお互い補完的な存在であるから、男が弱くなれば女が強くなるいしかない。役割を分担しても問題ではなく、男もどんどん家事を手伝って、妻が倒れた時に慌てずに済む訓練をしておいた方がよい。さて、話がなかなか展覧会の感想にならないが、今回の展示は時代を遡るほどに筆者には面白かった。古い人間であるから当然とも言えるが、古い時代の写真は厳選されているが、最近のものはまだ評価が曖昧で数も多いためだ。また、新しい出来事は週刊誌を見ているような気にさせられ、こういう展覧会で展示するのは時期早尚に思える。それでも今の20代からすれば1980年の「竹の子族」の写真を実感出来ず、そうした写真を筆者がそれ以前の写真を楽しむのと同じように味わうだろう。
 「戦後復興の時代1945-59」、「高度成長の時代1960-79」、「成熟と停滞の時代1980-95」、「多様化の時代1996-2010」という4つに分けられ、だいたい一写真家当たり1点の展示だが、ふたつの章に取り上げられている写真家もある。筆者が知る名前は10分の1程度だろうか。写真家に詳しくないが、写真に興味のある人はこれらの人選が妥当で、またそれらの写真家の代表的作品であることを知るだろう。筆者は1951年生まれであるので、これらの写真全部の時代感覚を味わうことが出来るが、懐かしいのは第1章であることは当然だ。50年代の終わりはよく記憶していて、そういた記憶を強く呼び起こす写真を見ると、何だか人生が終わったような妙な気分になる。たとえば、東京のどこであったか、広い道路を出前の容器を提げてこっちにわたって来るレストランのふたりの女性を捉えた白黒の横長写真があった。都会ではあるが、高いビルはまだなく、道路も埃っぽい。あちこちの看板の文字も古めかしいが、その光景は筆者が10歳になるまでの大阪にもあったものだ。東京のその場所には行ったことはないし、また今訪れても全く違う光景に変貌しているが、同じ時代の都会に暮らした記憶が、その東京の都会の日常を生々しく想像させる。こうして書いていて、筆者はその写真のその後のふたりの女性の行動、撮影者の姿など、あらゆる光景があらゆる角度で想像出来る。それは映画を見て来たことなどによる想像力の増加があってのことだが、そうした想像力は時として味気ない。すべてわかってしまった気になるからだ。そのためにもう人生はそうした記憶しかない、つまりいつ終わってもいいようなものに思えて来る。生きる望みは未知なるものに関心を抱くことが出来ることに大きく負うが、1枚の写真から過去の自分を思い起こし、そしてその写真が代表するその空間に流れたあらゆる光景が想像出来るのであれば、もう何を見ても同じことだ。後は想像の繰り返ししかなく、それは退屈ではないか。そこで先の写真をまた思い出すと、筆者の脳裏にはありありとその光景が生きたように映写され、その気分に浸ってこれを書くが、そうした写真はひとつのきっかけに過ぎず、それがなくても同じ気分を味わえる自分を知っている。それが今まで生きて来たことの記憶で、それが人生の意味なのだろうが、さてそれは人に伝えることは出来ず、自分の脳裏に映っているだけだ。それをかろうじて示すのはこの文章になるが、この文章は今であって、その過去ではないし、また文字であって映像ではない。では個人の記憶映像とはどういう意味があるのだろう。
 展示された写真を見ながら、いったいどれほどの人がまだ生きているかと思った。だが、生きていてもそれは写真とは直接の関係はない。写真は過去のある時点の姿を写すだけであって、それが現在どうであるかは何の関係も持ち得ない。写真に写っている人が生きていようが死んでいようが、見る人にとっては関係がない。だが、こうも考えた。今回展示されなかったが、ある写真家の写真集に、とても美人を見かけたことがある。その写真は戦後すぐだったと思う。農村の田植えをする女性の顔のクローズアップだ。浜美枝のような美人でそういう女性が東北の田舎にいることがとても不思議に思えた。遺伝からすれば、現在の美人が過去にほとんど全く同じ顔で存在してもあたりまえだが、時代特有の表情というのがある。たとえば江戸時代の庶民の顔は現在とは相当な開きがある。そのことから思えば戦後すぐの東北の農村に映画女優並みの美人がいるとは信じがたい。女は特に化粧もするから、なおさら時代色を顔に反映させる。にもかかわらず、その菅笠をかぶって絣のキモノを着た若い女性はめったに見ないほどの美人であった。その写真を今思い出しながら、筆者は何とも言えない満ち足りた気分になる。美人はそのように思い浮かべるだけで気分がよくなる。そして、その美人がその後どうなったかを考えると、ごく普通に暮らし、老婆になって死んだはずだが、そのことと写真に写っていることとは関係がなく、写真は独自の価値を放っている。そして、その価値が筆者が思うように、女性の本質として男を楽しく思わせるのであれば、これ以上の写真の意義はないとも思える。美人ははかないとよく言うし、実際その写真の美人が苦労して田植えをしている姿をあまり想像したくはないが、それでもその顔には侵しがたい何かが満ちている。それもまた女の逞しさかもしれない。あるいは人間のと言ってもよい。その写真を撮ったのは男性であるし、やはり女の魅力をそのように引き出すのは男であり、世の中は男と女が補完的に存在して、お互い励まし合っている。今は逞しさの点において女性が勝るとしても、男でもそれなりの捨て身の逞しさは持ち合わせている。今度は「おとこ」と題した写真展を期待したい。だが女性が訪れるだろうか。やはり「おんな」という字面には底知れない何かが宿っている気がする。
by uuuzen | 2010-10-08 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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