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●こんぴらの石碑の列
に名前を刻むと、それが撤去されない限り、また、石材が硬質ならば数百年は持つ。神社仏閣には柵によく寄進者の名前を書いたり、刻んだりしている。



篤志を広く人に知らせるのが目的で、寄付された側の感謝の表明でもあって、これと似たことは西洋でもある。また、金額に応じて名前の文字に大小があったり、据え置かれる場所が目立つかどうかの差があったりする。大きな額を寄付する人ほど尊敬に値するという考えから、これは仕方がない。だが、寄付を受ける側がそうしたことを決めるのであって、最も地位が高いのは神社仏閣を治める人だ。つまり、寄付をしないどころか、それを全額もらう人が一番偉い。この仕組みがわかると、誰でもそっちの側に回りたくなるだろう。江戸時代には僧侶の数がやたらと増えるが、それは食うに困らず、働かずとも生活が保証されたも同然であったからだ。昨日のTVで東京の多摩川の河川敷きの林のようになったところで生活している70歳の男性を北野武と友近が訪問する番組があった。ホームレスと言えばいいのだろうが、小屋が建っていた。その中には発電機で使用する冷蔵庫などの電化製品もあり、また近所のスーパーを清掃する代わりに期限切れの野菜などをもらうから、食べるには困らないらしい。収入ゼロでも至って元気、働かずとも生きていけることを実証していた。50歳でそのような生活に入ったというが、それまでエンジニアをしていて、手先は器用、そこらに落ちているものを拾って来て修理して使う。衣服は新品同様のものがたくさん捨てられていて、それを拾って来る。猫をたくさん飼っていて、あまり孤独でもないようで、ロビンソン・クルーソー以上の文化的な生活だ。20年もそのような生活をしたことは、もう悟りの境地にある人で、昔の禅僧の生活を思った。乞食に混じって長年生活した禅僧があったが、それほどの修行をしなければ人間がわからないというのはある意味では真実で、僧侶には元来それくらいの覚悟と実行が伴って当然であった。ところが妻帯を許され、誰の家よりも立派な寺院に住むようになると、ちょっとした会社の社長と同じで、後はいかに金を集めるかを考えるだけとなる。昔は寺院は悩める者が駆け込んだり、不幸な人が住持になったりしたが、今は悩みの相談室はネットでも利用出来るし、不幸な人はさっさと自殺する。つまり、寺のすることがほとんどなくなった。お経を唱えることが残っているが、自分で唱える人はいるし、今は録音テープもある。また僧侶の中には記憶しておらず、経本を見ながら唱える者もある。
 先の番組では年収がどうのこうと言っていて、ある評論家が300万円を越えると生活はほとんど変わらないと発言していた。これは本当だと思う。持ち物の質が上がって行くだけで、得られる便利さはほぼ同じだ。年収が多い人はそれを車や家や衣服の上質さの向上に回す。だが、立って半畳、寝て一畳という言葉があるように、人間には元来広い生活空間は必要ではない。広いほど掃除も大変で、それが面倒であるから専門の人を雇うことにもなる。つまり、抱えるものが増える。これは壮年の場合はまだいいが、老いて来ると面倒だ。どうせ自分が死ねば後はどうなるかわからない。大事にしていたものはきれいさっぱり処分される。そういうことを筆者は何度も目の当たりにして来ているから、本やCDも自分の目が黒い間に納得の行く形で処分した方がいいと思っている。そこで思い出すことは、金をたくさん儲けて子孫に残してもほとんどろくなことにはならず、また本を膨大に残したところで二足三文で処分されるだけであるから、親としては子に何を遺すべきかだ。それは人間の本質中の本質であるから、古来賢人はいろいろ考えて来た。そのひとつに儒教では徳という言葉があって、それを積むべしと言う。これはどういうことか。「徳のある人」のことを「得のある人」と思っている人が今はほとんどではないか。それは簡単に言えば金をたくさん儲けている人で、TV番組にしばしば顔を出す芸人やタレントだ。評論家もそれに加えてよい。「徳を積む」が「有名になる」ことと同義であれば、大多数の人は立つ瀬がない。儒教ではそのようなことを言っているのではないが、そうとも言えないのが、最初に書いた神社仏閣にまとまった額を寄付する行為だ。これは儒教とは直接の関係はないが、誰かのために何かをすることは徳を積むことで、寄付はその代表的な行為だろう。儒教では親を敬うべしとになっているから、他人はさておいてまず親や身内を大切にすることが徳と捉えられるが、親や子のない人は身近な人へとなって、自分とは違う人のために何かいいことをするのが徳ということだ。これは昔の一時期「小さな親切」という言葉ではやったことがある。それ以前は小学校で「道徳」としてそんな行為をせよと筆者らの世代は教えられた。学校でのそういう教育をその後疑問視する意見が大勢を占め、道徳教育がなくなり、徳の意味を知らない世代の方が多くなった。それが日本のあらゆる面の荒廃につながっていると言えば、またブーイングが激しく湧き起こるが、親から順につながって国家に忠誠を強いるシステムとして利用される儒教はとにかく不評で、今後もそれがもてはやされることはないように思える。
●こんぴらの石碑の列_d0053294_9241165.jpg

 だが、徳を積むという行為は人間であれば本質的に憧れがあるように思える。これは儒教に関係なく、他人のために何かいいと思えることを積極的にすることだ。先に述べた70歳の老人はスーパーの前を掃除していることで、捨てるような野菜をもらって食いつないでいる。たとえばその清掃だ。今は清掃も人を雇ってせねばならない時代であるから、スーパーにすればその老人が掃除をやってくれるのはありがたい。老人が見返りを求めてそのような行為をし始めたかどうかは知らないが、それはなかったように思う。たとえばスーパーのゴミ箱をあさった後、その周囲を掃除したといった行為から始まったのだろう。それは汚れたところは掃除する、自分の汚したところは自分が責任を持ってそうするという思いがあってのことだ。この掃除は最も尊い行為のひとつだ。人間にとって本質的なことだ。そうしなければ病原菌が増え、健康を損なう。そうでなくても、きれいに清掃された空間は気持ちがよい。神社仏閣はその代表だ。人が多く集まる場所ほどそのように常に掃除に気を配る必要がある。老人がそれをしているのは、徳を積む行為にほかならない。ところが、そういう意識が稀薄になっているのは、公衆トイレを見るとわかる。特に女性のトイレがひどいとも聞く。電車の中で自分の顔に化粧品塗りたくってお絵描きには勤しんでも、トイレでは誰も見ていないので汚して平気という若い女性は少なくないだろう。女性が化粧するのは、本当は内面も外面も醜い存在であるからと時に筆者はこの年齢になって思うことがあるが、女性が浅ましくあってほしくないという男の願望が、女性に化粧をさせるとも思える。さて、浅ましいという言葉が出たが、これは人によって受け留め方が違うはずで、先の70歳の老人の生き方こそそう思う人が多いだろう。人の情けにすがって生きていて、また何ら生産的ではないからだ。だが、生産的な生き方をしている人でも、それが人間界でどれほど役に立っているかは誰にも数値的に推し量れない。本人が役に立っていると思い込みたいだけで、代わりの人間はいくらでもいるし、その人でなければ出来ないことなどそうあるものではない。むしろ生産的なことは、周囲を汚染したり、害を及ぼすということも多い。少なくても生産側はそういう意識を常に保っておくべきで、それが徳につながる。
 前述の番組では北野武が老人の生き方をそれなりに評価したような言葉を発していた。それは本心であろう。人生どう生きたところで、いつかは死ぬから、それまでの間は会社に縛られないように生きても全くかまわない。その点、北野武は自分になぞらえて発言したのだと思う。芸能人は明日がどうなるかわからない。それを言えば会社員もそうだ。今は何も保証がない時代になった。頑丈な生活の保証は神社仏閣くらいなものかと思えば、案外そうでもなく、後継ぎがなくて閉鎖されるところもある。人間は脆くてはかないから、なるべく頑丈なものに憧れる。それが金であったり知恵知識であったりするが、お金も書物も本人から手が離れるとまずそれはうまく引き継がれない。そこで徳を積んでおくのがよいということになる。これはその行為をみんなが見るということを前提にしている。あるいは、徳を長年積んでいる人は自ずとそれにふさわしい表情になって、人から慕われるということか。また、人から認められたいから徳の行為を行なうというのでは徳ではない。汚れているところを、誰が見ていなくてもそっときれいにしておくという行為の積み重ねではないか。消極的に言えば、路上に簡単にゴミを捨てる人にはなるなということだ。さて、そこで思うのは、神社仏閣にある寄進者の名前が書かれたり、また石柱などに彫られたりしていることだ。江戸時代のとっくに忘れ去られた庶民の名前を京都の神社仏閣ではよく見かけ、時に立ち止まって見入ってしまうが、そこには当時の人の信心深さと、仮にそうではなかったとしても、寄付したことの現実を見て、筆者は心に温かいものを覚える。筆者はそんなまとまった金額を寄付出来る身分ではないが、金持ちがそういう行為をする仕組みは今後も続いてほしいと思う。半ば強制的にでもそういうことが行なわれるのはよい。3月下旬にこんぴらに行った時、参道の両側に立派な石碑がびっしりとほとんど隙間なく立っていることに気づいた。正確に言えば前回訪れた時から知っていたが、今回は同じ寄進者の名前が5枚の石碑となって並んでいる様子を確認した。それは毎年の意味ではないだろう。何年かおきにまとまった金額を寄付したに違いない。そしてその額をふと思ってみた。背丈ほどもある立派な石なので、その石材と文字の彫刻代、それに運搬して据え付ける手間など、全部合わせると寄付金の100万と同じかそれ以上要するに違いない。こんぴらには莫大な寄付があるということだが、昔から多くの人がいろいろと祈願する際に訪れる、愛着のある、また由緒ある場所に自分の名前が刻まれた石碑が長年参拝者の目に触れると思えば、広告料としても安い。伏見稲荷大社のあの千本鳥居と同じで、神社仏閣の集金システムはまことにうまく出来ている。それは伝統の力でもあって、明日から自分も真似しようと思ってもそう簡単にことが運ばない。金のない庶民はせいぜいそうした石碑や鳥居の前を通り過ぎ、たまにはゴミでも拾うのが関の山だ。それもまた徳を積む行為である。
by uuuzen | 2010-10-21 09:04 | ●新・嵐山だより
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