議会(Congress)という単語はザッパの1968年のアルバム『We're Only In It For The Money』の「The Idiot Bastard Son」に含まれていた。
そこでは風刺的なニュアンスが込められていたが、その思いが17年後の『検閲の母に出会う』につながったところがあるだろう。今回のアルバムのブックレットは、表紙がカラー写真で、その題名が「フラッシュバック 1985 ザッパ対議会」だ。そこにも議会に対決する姿勢が見えている。1985年はザッパ45歳、気力が充実する年齢だが、それでもその堂々たる態度は、バンドのメンバーに指示をしたり、ステージで観客相手に話したりする間に培ったもので、日本でも同じだろうが、自分がその頃はどうであったかを思い出すと、感心することしきりだ。そうした物怖じしない態度はエンタテイナーの必須条件とも言える。となればそのエンタテイナーの最高の存在が口だけで生きている政治家であり、ザッパは議会で討論になった時、自分の武器である音楽を使うことが出来ず、相手の専門である口だけを頼りに一発勝負で挑戦したのであるから、ライヴ・ステージに立つ以上に緊張したのではないだろうか。政治家がエンタテイナーというのは、日本もかなりそうなっているが、それはアメリカが世界の先端を行っていることに倣ったためだ。そして、元俳優のレーガンが大統領になったのは、実に正しいことであったとも言わねばならない。日本でもタレント議員があたりまえになったが、見栄えがよく、TVによく出ているタレントほど票を集めて当選する。そうしたタレントの政治力がたいしたものでないことはわかっていても、それでも普通の政治家があまりにだらしがないので、むしろタレント議員がたくさん当選して、国会中継がお笑いの場になった方が、毎日退屈せずに済むと思っている年配者も多いだろう。民主主義国家では誰が大統領や首相になったところで、国ががらりと変わらない。と、こう書くのは呑気なことだ。ヒトラーの例にあるように、国民が大きな不満を抱えている時、政治家はそれを巧みに利用して、国民が知らぬ間に遠いところまで連れて行く。とはいえ、それを政治家のせいにするのもおめでたい話だ。自分たちが選んだ政治家ならば、その行動の責任は国民にある。だが、みんなで選べば恐くないで、妙なところに国が進んでも、国民はだまされたと勝手なことを言ったりもする。その意味で、民主主義はザッパの言うように、素晴らしいシステムかもしれないが、危険もあるということだ。
今回のアルバムのジャケットはベン・シャーン風のイラストになっている。写真をもとにしたもので、その写真はブックレットの中に掲載されている。その写真の権利はザッパが持っているが、そのままをジャケットに使うのは許可が下りなかったかもしれず、また無粋でもあるので、イラスト化はよかった。ベン・シャーンの様式を模したのは、実際は大きな意味がある。ザッパはアルバム『フリーク・アウト』の見開きジャケットに掲載した敬愛する人物の名簿中にサッコとヴァンゼッティを載せた。イタリア移民で靴製造職人であったこのふたりは、共産主義者であるといった理由によって20年代に死刑に処せられるが、後に映画にもなるほどの有名なこの事件を絵画で告発したのがベン・シャーンであった。日本でもベンの画風は50年代に大きな人気があった。ベンはジャズのアルバムのデザインも少々手がけたので、その関係で日本のグラフィック・デザイナーからは尊敬されたが、ベンの本質であった社会告発の面は日本ではどう引き継がれたかは疑わしい気もする。そこに、形だけ模倣して精神が引き継がれないことの見本を見る気がするが、同じことはザッパの音楽がこれからどう継がれるかを考えた時、日本では日本なりの同調者がいるとして、それはロックという形ではないことも当然あり得る。サッコとヴァンゼッティのような事件を音楽で採り上げて告発するミュージシャンは、アメリカではザッパ以前にフォーク歌手が担った。だが、左翼系とみなされるそうした存在は圧力もあって、表には出にくい。それと同じことはザッパにもあった。ゲイルがジャケットの見開き内部に書くように、ザッパの音楽はレコード配給元の大手の会社と仲たがいをしたこともあって、ラジオで流してもらえず、レコードを売るには通販という形に頼ることが多くなった。それも独立心と、何事も工夫してやる、そして世界中にファンがいたからで、徳は孤ならず、必ず隣ありといったことを体現した。ベン・シャーンに話を戻す。中学生の筆者が使用した美術の教科書には、ベンの作品が紹介されていた。それは青を基調にした背景に赤い階段が描かれ、後ろ姿を見せる老人がその階段を上っている光景だ。その絵画のどこが味わい深いのか、当時はわからなかったが、その絵をよく記憶しているところ、強烈な何かを秘めていたことは確かだ。絵画や音楽にはそう力がある。それが意味することを本当に知るには数十年かかる。そのため、出来るだけ早い時期に、良質の絵画や音楽に触れておくに限るが、世の中が豊かになったのに、そういう機会が増えたかと言えば、美術や音楽は進学には関係ないと思われて、子どもたちは絵や音楽の未知性に触れることがかえって少なくなっているのではないか。それもまたさておいて、今回のアルバム・ジャケットはゲイルが指示したはずで、このベン・シャーン風のイラストには思わずうなる。それだけベンの名声は古典的なものになっていることと、また単に古典として古めかしいところに追いやるのではなく、このようにいつでも引っ張り出して現在に蘇らせることの出来るひとつの様式として人々に認知していることが、何とも眩しい。そして、長い歴史で見れば、ベンが絵画でやったことをザッパは音楽でやったことになり、50年後にザッパの議会に対する行動を引き継いで何かことを起こす音楽家が出て来ることが想像出来る。そのようにして意志は継がれるものであるべきで、実際アメリカにはそういう伝統があるだろう。
最後にもうひとつ書き忘れていたことがある。ザッパが生まれたボルティモアにザッパの銅像が据え置かれ、8月末に序幕式があった。今回のアルバムの発売はそれと歩調を合わせたものだ。ザッパ・ファミリーのサイトにニュースとして報じられたのは、この銅像に関してであって、もう1作アルバムが出ると思ったのは早合点であった。さて、この銅像は東ヨーロッパのどこだったか、ザッパが訪れたハンガリーかチェコと思うが、そこに住む彫刻家が作って自分の街に据えつけた。もう10年ほど前のことだったと思う。ゲイルらはそうしたファンの行動には冷淡で、ザッパのトルビュート・アルバムやライヴでさえも認めない立場を取り続け、それどころか、裁判に訴えるという行動にも出た。この件に関してはあまりしつこく追っていないので詳細は知らないが、確かドイツのザッパナーレに関してはゲイルは敗訴したのではなかったか。そのことがあってか、急に態度を軟化させたようで、ザッパの銅像をもう1体鋳造してもらい、それをボルティモアの据えることにした。その式典にZPZが演奏するなど、ブックレットの最後のページはその情報が盛られている。銅像は胸像で、ささやかなものに見える。ギターを持った全身像よりその方がいい。音楽家の銅像は珍しくないが、ザッパもその仲間入りをしたことをゲイルら家族は素直に喜べるようになったのだろう。これを機にザッパ関連のあれこれが盛り上がり、どんどんCDを出してくれるといいのだが、そのことをゲイルはどのように思っているのだろう。ゲイルが死んでもまだ大量の未発表音源が収蔵庫にあるというのでは、ファンは死んでも死にきれないではないか。だが、ブックレットにあるように、1985年をフラッシュバックで思い出そうというほどに、もうザッパの音楽は遠い過去にあるとも言える。それをそうさせない方法は、絶えず聴き返す、あるいはその魅力をわかりやすく若者に伝えるしかない。
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●2003年4月6日(日)夜 その1今日Fさんから資料が届いた。印刷会社のグラフィック・デザイナーをしているためコピー機は日常的に使用するようで、ザッパ関連やその他の資料のコピーをよく大量に送ってくれる。Fさんは仕事柄、アップルのコンピュータを愛用しており、去年の末頃に新機種を買ったそうだが、1か月ほどで調子がおかしくなり、検査に出すとハード・ディスク不調のため交換することになった。そのために今年に入っての筆者とのメールのやり取りを保存してしたものが全部消えてしまったそうだ。大事なメールはこまめにフロッピー等にコピーしておくべきだが、そんなに大事なメールはないから、筆者は毎日どんどん消去する。以前は手紙で通信し合っていたFさんとも今ではもっぱらメールに頼っているが、親近度に応じて電子メールの題名や文体は変化するもので、長年つき合いのある場合はぐんとくだけた調子で書く。先日そんなひとりの大阪の友人に会うと、USB接続で使用するコンパクトで軽量なハードディスクを見せてくれた。容量は20GBだったと思うが、価格は1万数千円だ。ポケットに入る寸法で、ノート・パソコンを使用する場合には役立つだろう。筆者のパソコンのハードディスク容量は3GBを切る時代遅れのものだが、MOが有るので、必要な画像は全部それにストックし、本体のハードディスクはかなり風通しがよい。20GBあれば個人で一生使用するデータが全部入るぞと友人は言うが、仮にそうだとしても、何枚ものMOやフロッピーに分けてデータを保存した方が便利だと思う。1枚紛失してもその1枚で済むからだ。ポケットに入れた20GBのハードディスクに全財産的データが入っていると、簡単に持ち運びする気になれない。また仕事のためにノート・パソコンをあちこちの場所で使用する必要がないので、デスクトップ型で充分だ。旅行先でも自分のパソコンが使用できることは格好いいようだが、考えようによってはそんな時までパソコンに縛られるのは格好悪い。携帯電話を持たないのも似たような理由による。あればあったで便利だとは思うが、なくても充分だ。これ以上に心が忙しくなると、体が持たない。この再開日記はパソコン導入半年後の筆者の変化を伝えるものになっているが、前にも書いたように、なければないでまた別なことをしていたから、パソコン・ライフが始まったことで生活が極端に便利になったことは案外ない気がする。パソコンのない江戸時代の若冲があのような絵を描いた事実は、人間は忙し過ぎるとかえってよくないことを示しているとも思える。今やゆったりと日数をかけて旅行をする者の方が金持ちであり、一気に名所を駆け抜けるパック・ツアーは庶民のためのものだ。だが、インターネットを自宅で存分にできるようになってそれなりの効果はあった。それを今から書く。若冲の掛軸を買ったことは先日書いた。それが目下のところネット・オークションで落札した200点ほどの商品のうち最高価格を記録しているが、それだけのお金を遣ったからには、やはり真贋が気になる。ところで「若冲作品新発見」といった見出しの新聞記事をここ10数年に4回見たことがある、それらの切り抜きは全部保存しているが、それら発見された作品は全部掛軸で合計11点だ。2点の著色画以外は水墨画だが、新聞で作品画像が公開されたのは全部で7点だ。もちろん所蔵家は公表をいやがる場合があるはずで、新聞記事にならない新発見もあるだろう。ここではとりあえずこれら11点に絞って書く。この中の4点は美術館や寺の所有、残りが民間から発見されている。2000年秋に京都国立博物館で開催された没後200年記念の若冲展ではこれら11点からは5点が展示された。残り6点のうち5点は89年に伏見の民家から発見されたもので、そのうち1点のみが93年に紫紅社から発刊された豪華な若冲の画集に収録された。この画集の執筆者は2000年の若冲展開催の中心人物となった京都国立博の美術室長(当時)である狩野博幸氏だ。この画集はよく行く中央図書館の蔵書になっているが、それまでに発売されたどの若冲画集よりも点数は充実している。これに収録される作品を踏まえての8年後の空前の若冲展であった。これは以前に書いたはずだが、筆者が若冲の作品を初めてまとめた観たのは81年秋に尼崎で開催された若冲展でのことであった。この展覧会は大阪市立美術館の学芸員が解説を書いているから、作品選定は京都国立博とは関係なしに大阪市美が行なったであろう。その時のカタログはモノクロ中心であるが、若冲の画風を知るうえではなかなか役に立つもので、若冲の弟子と思われる若冲派の数点の作品も掲載されている。ここで気になるのはこのカタログに掲載されている78点の若冲作は先の紫紅社刊の若冲本に全部は掲載されていないことだ。いや、むしろ掲載されている作品の方がはるかに少ない。豪華な画集であるからには出来得る限りの若冲作を掲載すべきと思うが、一部の作品に対しての真贋判定に対して狩野氏が疑問を抱いたのかもしれない。ちなみに尼崎で展示され、かつ紫紅社本にも掲載されている作品は16点だ。掲載されていないものは62点となる。それらは晩年に若冲がもっぱら使用した長方形白文と丸の朱文印のみ捺される作品ばかりだが、水墨画ばかりではなく著色画も混じっている。これら省略された尼崎展における62点は2000年展には出品されておらず、若い若冲ファンには画像はほとんど知られていないだろう。