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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●平安神宮の神苑を歩く、アゲイン
いたいことがもやもやと心の中にあるとして、そのこととそれを書いて他人に伝えることとの間にはずれがある。また、名文を自覚し、ずれが全くないと信じる場合でも、それが他人にそのまま伝わることはないから、やはりずれは絶対的なものだ。



となれば、そのずれを前提に、心の中のもやもやを吐き出すつもりで書く行為が芸術の初めで、厳密に言えば心の中のもやもやは実際に体験したことの直接の反応であるとは限らず、全くの空想であってもかまわない。書いたものを他人が読む時、他人はそれが実際にあったことかどうかはわからず、現実であっても作り話であってもよい。読んで面白い、この場合、心の中に変化が生じるという程度の意味だが、それがあれば書いたことの意味、読んだことの意味が達せられる。そして、書き手はもやもやをとにかく吐き出したいために、それを焦って一気に書くか、何年もかかってじっくり推敲するかのどちらであってもかまわない。要は書き手が納得し、読み手の反応が大きければよい。その納得と反応はさまざまで、一気に書いた場合、書き忘れ、あるいはあまりに脱線のために本来言いたかったことが吐き出せず、かえって心の中にもやもやが増すこともある。読み手も同じで、書き手のそういう思いの中まで読み取って、そのもどかしさを理解して面白いと思ってくれるのであれば、書いた意味も大きいが、そうでなければ書いたことはただの意味不明なもやもやの排泄物と化する。だが、面白かったと歓迎されるものも時間が経てば同じよな排泄物に化するのがだいたいであるから、書き手はあまり読み手の意識を考えずに書く方がよい。筆者はそうしているが、それはこのように読者の反応のほぼゼロに等しいブログでは、どう書いても同じであるからで、書き手を喜ばせようとは最初から思っていない。まず自分がもやもやを発散出来ればよし。そして、そのもやもやをうまく発散出来たと思うのは、うまく内容がまとめられたと思える時だ。たとえば「おにおにっ記」は筆者のパソコン画面でスクロールバーを動かさずにぴたり画面上下内に収まる文章量として、ほぼ同じ字数にまとめている。そのために、こうした字数制限を思っていない文章とは違って工夫を凝らす必要がある。その工夫は他人には意味がないが、筆者は自分で作った規定を自分で守るのが楽しい。ひとつの様式と思うからだ。そして筆者のブログはそういう独自の様式のようなものがほかにもいくつもある。それは筆者の美意識と言ってよいが、先に書いたように、それに反応しない人はある。それはそれでよい。反応しないと本人が思っているだけで、本人が思わないところで反応は生じているもので、人間は自分の行動のすべてに自意識を保っているとは思わない方がよい。
 さて、一気にここまで書いて来てようやく段落を変える。筆者の長文はいつも一段落分が長い。それもあえてそうしているところ、様式と言える。一気に書いていることを読者に伝わらせるためにはそれがいいと思っているからかもしれない。で、先の段落の最後を受けて先を続けると、昨日の深夜に投稿した長文は、途中で休むことなく書いた。そのため、心のもやもやは満月に覆いかぶさる雲が風で流されるように晴れわたった。そのことを最初と最後の2枚の写真で暗示したが、無粋なのでそのことは書かなかった。それを今朝書くのは、もやもやが発散出来たと思ったのはそう思いたかっただけで、ほとんど逆効果で、昨日は書きたいことをうまく消化出来なかった。そのため、読者は筆者が何を言いたかったかのわからないだろう。だが、筆者はそう思う反面、案外読者は筆者のそういう思いを文章から察知するのではないかと自惚れている。そして、もしそうであれば、それは筆者の文章がそうさせるわけで、筆者は何をどう書いても、自分の思いを相手に伝えることが出来ることになる。断わっておくと、それは自分を名文家と思うことではない。文章にはそういう力が本来備わっていて、誰がどう書く文章でも、読者には何かが伝わるということだ。この意見に対して、それはそうかもしれないが、読んで面白いと思えるものとそうでないものがあるという意見があるだろう。そうでなければ名詩人、名小説家の存在を説明出来ない。それは確かにそうだが、素人の駄文も有名人の名文も、見方によってはどれも面白い。見方の基準を変えるのだ。それでもなお面白くないものもあるだろうが、名文は空気のようなもので、ありがたいかもしれないが誰の内面にも響くとは限らず、ま、神棚に飾っておいて普段は忘れているものだ。話を戻すと、昨日はもやもやがうまく発散出来なかったので、今日はそれを修正するために何か書こうと思い至った。だが、昨日の表現に何か加える、あるいは訂正する思いはない。先に書いたように、消化不良の文章であっても、それはそれでそのことが読み手にわかればそれなりに反応があったと思うからだ。名文を書こうとする以前に、言いたいことが即興でどれだけうまくまとめられるか、またその書く過程で、その思いがどう脱線するか、その脱線が思わぬ方向でいい結果をもたらすことがあるかもしれないので、とにかく書くことが先決と思っている。その即書くという行為はブログ本来の特質で、その意味では「おにおにっ記」とは違う条件で違う文章を試していると言える。
●平安神宮の神苑を歩く、アゲイン_d0053294_11322154.jpg

 ようやく今日の本題に入る。題名にあるように、また平安神宮の神苑を歩いた。19日の日曜日、展覧会巡りのついでに息子も一緒で家族3人で出かけた。前日、TVのニュースで平安神宮神苑が無料公開されるのを知った。1か月前の猛暑に家内と行ったので、いくら無料とはいえ、また行くのかと家内は渋ったが、すぐ近くの府立図書館で本を返却し、美術館に入った後、猛暑でないこともあって足を延ばした。前回とは違って大勢の人が来ていて、神苑内は人の数珠つなぎ状態であった。TVでは萩が咲いていると言っていた。そのとおり、萩があちこちにあったのはいいが、猛暑のためか、どれもみすぼらしかった。つまり、見るべき花はなかったが、神苑内をぐるり一周するのはなかなかよい。これは水面があるためだ。京都市内にそのような場所はさほどない。神苑は北辺が丸太町通りに接し、バスや自動車の音があまりうるさいのが興醒めだが、それはほかの人も同じで、そのあたりを歩いている時に小学生が、塀の向こうの騒音がよくないと意見していた。神苑を1か月ぶりに歩いて別段書くべきことはなかったが、写真を3カット撮ったので、それを載せる。なぜ載せる気になったか。それは写真をブログ用に縮小加工し、また1か月前に投稿した写真と比較して少々驚いたからだ。そのことが実は今日のこの文章を書くきっかけになっている。つまり、文章ではなく、写真の方に重点がある。それを言えば昨日もそうだが。神苑内に入る直前、小雨が降って来た。傘を持って出かけなかったので、濡れっぱなしだ。幸い神苑内は樹木が多く、それが傘代わりになった。前後を人にはさまれながら歩いていると、ヒシの葉が浮いていた小さな池は、葉がかなりまばらになって、1か月の推移を実感させる。その写真は撮らず、次にスイレンの池に来た。そこから見通す光景は建物が見えず、しかもムンクの風景画のように、樹木に強い気配があって、筆者は好む。8月にも同じ角度で撮ったが、写真の数が多くなるので掲載しなかった。それで今日は掲げよう。雨がきつくなり始め、先を急いだ。水面を見下ろすとスイレンの葉と同じ大きさの円形の輪が次々に出来ては消える。その様子が絵画的で面白く、写真を撮った。その光景を見ただけでも当日は出かけた意味があった。スイレンの葉も前回よりかなり少なくなり、当然花はなく、また葉のめくれ上がりもない。それが暑苦しくなく、いかにも秋に風情だ。最後に撮った3枚目の写真は枝垂れ桜を近景に見通した泰平閣という屋根つきの橋で、この光景が見えれば神苑はもう終わりだ。筆者はこの泰平閣を遠くに見るのが好きで、今思い出してすぐに調べると、8年前の9月19日に訪れた際、もう少し先に行ったところから色鉛筆で写生している。その場所は写真を撮った狭い道とは違って、人の通行を邪魔しなかった記憶がある。デジカメを持たなかった頃はそのように出かける先々で時間をかけて写生したものだ。
●平安神宮の神苑を歩く、アゲイン_d0053294_11325044.jpg

 撮って来た3枚の写真を1か月前の投稿と見比べた。すると、筆者は急いで神苑内を歩く間、1か月前と同じ場所を同じ角度で撮っていることに気づいた。ほとんど無意識の行為であるのに、筆者の頭は本能的に好きな場所の好きな角度を選んでいる。それが面白い。特に3枚目は全く同じ角度で、枝垂れ桜の葉がかなり落ちたことがわかる。それに橋には人がびっしり座っていて、また写真が曇天のために全体に暗いのがわかる。駆け足で周った神苑で、息子も家内も何の感興も覚えなかったようだが、それでも歩いた記憶は残っているはずだ。それでいい。橋は両側がずらりと人が座れるようになっている。大勢の人が来ていたので、空きがなかなか出来ない。そのうち座る場所が出来た。そこに座って池を見下ろすのがまた楽しい。1メートルはあろうかという大きな鯉が悠然と泳いでいる。また亀も多い。だが、意外が光景を目撃した。池底の泥の中から一匹のすっぽんが長い首を水面に突き出すために上がって来た途端、泥の中からその倍はあるすっぽんが急上昇し、その小さ目のすっぽんの尻に噛みついた。噛みつかれたすっぽんはそのままの形で池底に向い、二匹はもつれ合いながら泥の中で格闘し始めた。姿は見えないが、もくもくと泥が湧上っていた。30秒ほど経った頃、二匹は同じ状態のまままた姿が見える水面近くに浮上して来た。そしてその瞬間小さ目のすっぽんはようやく尻に噛みつくすっぽんを振り切って逃れた。噛みつかれた方のすっぽんは尻の一部が白くなっていて、何度も噛みつかれているのだろう。金魚でもそのようなことをするので、すっぽんが残酷とは言い切れない。広い池なのに、そのように襲われることがあるのは人間も同じだ。二匹のすっぽんが格闘していた場所には数センチの小魚の群れが泳いで来た。平安で静かな池でもドラマは日常的なことなのだ。立ち上がろうとした時、先の二匹とは違うすっぽんが首を10センチほども伸ばして勢いよく泳ぎ去る姿が見えた。神苑では池のそうした生き物は放ったらかしなのだろうか。あの馬鹿でかいすっぽんなら、一匹2、3万円で売れるだろう。すっぽんスープのおいしさを思い出した。
●平安神宮の神苑を歩く、アゲイン_d0053294_11331889.jpg

by uuuzen | 2010-09-24 11:33 | ●新・嵐山だより
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