勢いを調べることで今後国のさまざまな分野で計画を立てやすくするのだろう。筆者が国勢調査を知ったのは小学生5、6年生の頃で、切手に第何回か忘れたが、国勢調査を記念するものがあったからだ。

これは5年に1回で、今年はその年回り、しかも筆者は地元を担当することになった。まさか国勢調査員になるとは夢にも思わなかったが、人生は先に何が待っているかわからない。で、何でも経験で、やってみるとそれなりに思い出になる。どうでもいいようなことをして思い出もないが、人生はしょせんどうでもいいことばかりだ。何がいい思い出かそうでないかは、経験した後になってみないことにはわからない。以前書いたことがあるが、筆者は昔から展覧会によく出かけ、これは行ってもあまり面白くないだろうなと思うものに限ってあえて行くことにしている。期待しないからかえって得るものがあるからだ。何でもそうだ。期待はし過ぎないに限る。期待しないことはさびしいことだが、期待し過ぎてそれがかなわなった時のさびしさよりかはましだ。また、期待し過ぎないのは、何だか白けた人格に思われるが、期待し過ぎないことは、ものほしそうな顔をしないことで、白けではなく、むしろ充足だ。さて、今日は昨日の本来の長文日が臨時にザッパ関連のことを書いたので、その振り替えとして長文を書くつもりでいて、何について書くかも以前から決めてあるが、終日国勢調査で近所を回り続け、落ち着いて考える暇がなかった。それで今こうして書き始めたのは、夜になって月があまりにきれいであったからだ。朝は雷雨で今日は国勢調査に回ることが出来ないかなと思ったのに、昼前にはすっかり上がり、また涼しくもあったので国勢調査票を配り歩いた。直接手わたしする決まりになっているので、留守宅には何度も赴く必要がある。
1か月ほど前、小学校で調査員が集合し、区役所から人がやって来て説明会があった。1時間半費やしての説明会は、わかったようなわからないような内容で、ま、どうにかなるかという思いであった。国勢調査は筆者の自治会では4人が役所が分けた地域にしたがって担当する。筆者は自治会長ということで引き受けさせられたが、別の区域よりも近い方がよく、わが家が含まれる地区を担当することにした。それで、5年前の調査の実績から、予め35世帯分の調査票が説明書や封筒などとともにどさりと郵送されて来た。それを部屋の片隅にそのまま放っておいたが、別の調査員から耳にしたところによると、封筒や調査票などの部数がまちまちで、足りない分を区役所に連絡して送ってもらう措置をしたとのこと。それで筆者も2週間ほど前にチェックした。調査票を封入する大きな封筒の数だけまず数えると35ある。そこでふと思ったのは、手わたされた調査区域の地図に、ワンルーム・マンションがふたつあって、どうもそこに大勢住んでいるようなのに、35では全く足らない。早速そのふたつのマンションに行くと、管理会社の電話番号を記したプレートがあった。それを書き留めて帰宅し、電話した。どちらも若い女性が出たが、一方は全く気安く空き室の番号を伝えてくれたのに、もう一方は教えられないという。つまり、自分でどうにか調べて対処せよというわけだ。教えてくれたマンションは、5年前どころか10年もっと前に建っていて、当然5年前の国勢調査で対象区域に入っていたのに、前の調査員は調べなかったのだろう。ともかくそのマンションは全部で50室ほどあり、空き室を差し引いても30はある。つまり、届いた調査票35世帯は半分に過ぎない。それで慌てて区役所に電話して足りない分を送ってもらった。もうひとつの空き室を教えてくれなかった方は、玄関に常に鍵がかかっていて、調査員は外から部屋番号を押してインターフォンで連絡する。また郵便受けには半数が名札がなく、おそらくそれは空き室だと思うが、そうとも限らない。それで調査票は全室分用意した。あまった分は調査終了後に返却する必要があるので、空き室に調査票を放り込むことは出来ない。
昨日は国勢調査が始まるという予告のチラシを全戸に配布した。そのように日が決められていたのだ。そして、今日から調査票を配布するのだが、ワンルーム・マンションのエントランスで、昨日配ったチラシの数枚が他の宅配ピザ屋などの多くチラシに混じって捨てられている光景を目にした。読みもしないで捨てたことは明らかで、これから全戸に配布することが思いやられる。今日は1日目だが、この調子では10日費やしても全部の配布は無理だろう。朝から晩までワンルーム・マンションには5回行ったが、中に人の気配がするのに出て来なかったりする。それにもうひとつのインターフォンを使う方のマンションでは、部屋に灯かりがついているのに、10回ほど足を運んで呼び出しても出てくれない。調査票は手わたしする必要があるので、何としても本人に対面しなければならないが、その本人が会おうとしないのであれば調査出来ない。そういうことに嫌気が差して5年前の調査員はさっさとワンルームマンションを全部無視したのだろう。そのため、わが地区は世帯数が実質の半分以下になった。こんなことで国の勢いが正確に読み取れるのだろうか。説明会では区役所の職員が、調査員ひとりが1名を調査し忘れると、国全体で調査員数の80万人分が洩れることになるので、くれぐれもよろしくと言っていた。1名どころか、数十人に調査票を配布しなかった、あるいは回答がなかったのであれば、統計を取ってもほとんど意味がなく、国の勢いが正しく把握出来るのだろうか。筆者は正直過ぎるのかもしれない。いい加減にやっても誰も文句は言わないと考えるのが大方で、また調査票を手わたすのに1日に10回も足を運ぶ時間も体力もないのが普通の人間だろう。役所の職員がこの作業を代わってやるならば、莫大な経費がかかって、とても5年に1回もすることが出来ないはずだ。
調査票の記入内容は随分簡略化され、収入を書き込む項目もない。10年前は調査員に裸のまま調査票をわたし、しかも調査員は記入洩れをチェックし、さらには各世帯の勤務先をコード表を使って記入するなど、調査票を集めた後の作業が大変だったらしい。それは言い換えれば調査区域全世帯の収入や年齢、家族構成など、すべてがじっくりと確認されたわけで、個人情報という観念が全くなかった。それが近年は一気に厳しくなって、調査票の中身を調査員は見ることは出来ない。それはあたりまえのことだが、昔は国勢調査員に家の隅から隅まで知られても仕方がないと思うしかなかった。そういう何となくいやなことがあったので、国勢調査に協力しない人も一部にいたであろう。今回も説明会で、調査されることを拒否をした人には、その世帯番号のみを知らせることとあった。ところでこの世帯番号は、調査員が調査区域の住宅地図の写しにしたがって各世帯に番号をつけ、それを調査票、大小の封筒に全部記入する。この作業を昨日やったが、半日費やした。しかも地図で空き家になっていた家の前を今日通ると、どうも今までとは様子が違う。それでその向い側の組長に訊ねると、半年ほど前に引っ越して来たが、表札も掲げず、また挨拶もないので、どういう人が住んでいるやらわからないとのこと。一戸建ての大きな家でもそういうことがある。それで早速その家を訪れると、気安い応対なのでほっとしたが、調査票を用意していない。その分を計算に入れなかったのだ。今から取り寄せては間に合わないだろう。それでワンルームマンションできっとあまりが出るはずなので、それから1部を回すことにし、帰宅後に調査地図の世帯番号など書き改め、すぐにその家に調査票を持参した。今日1日で全体の3分の1弱を配った。残りがいつまでに配れるかだが、部屋にいるのに出て来ないではまず全部は無理だ。チャイムが聞こえないかもしれず、ドアを大きくノックするのだが、それでも出て来ない。
調査票は10月1日から回収する。それまでに配ればいいが、同じ時間帯に行っても、いない人はいない。とにかく手わたしさえすれば、後は調査票を郵送で送ってもらうことも出来る。これは今回から始まった方法で、調査員としては回収する手間が省けてよい。ただし、郵送しなかった場合、当然後日また調査員はその世帯を訪れて再度頼むことになる。この面倒がどこまで生ずるやらだ。さて、ふたつのワンルーム・マンションは筆者が会長を務める自治会の区域内にあるが、自治会には入っていない。会費を支払う必要があるので、ワンルーム・マンションに入っている学生に自治会は不要と言えるが、住民は学生ばかりとは限らない。今日はそのことを実感した。そして、そのことを書きたいために今日は例外の長文を書く気になった。エントランスのあるワンルーム・マンションは、正確に言えばワンルームではないかもしれない。全部で50室ほどあるが、長い廊下の片側にドアがずらりと並んでいて、どれも同じ形をしているので、廊下を歩いていると夢を見ている気になる。そのマンションはわが家から近いが、これまでその間近にも行ったことがなかった。そのため、そのマンションの廊下から見る景色は、見慣れている景色の別角度で、その分新鮮だが、自分がよく自治会のチラシなどを配布するために歩いている近くに、そういう建物がひっそりと存在することが何だかとても不思議だ。当然その住民にひとりも顔を知った者がいない。つまり、筆者にとっては全くの別世界で、それが近所にあることがちょっと信じられない。よく知ると思っている自分の生活圏の中に、未知の領域がでんと控えている。で、その初めて足を踏み入れるマンションの一世帯ずつ、ドアの前に立ってチャイムを押し、ドアをノックし続けたが、学生ばかりと思っていたのがそうではなく、老若男女、しかも小学生の子どものいる世帯もあった。同じ形の鉄のドアが開いて出て来る顔を待つのはあまり気持ちのいいものではない。向こうもそうだろう。めったにドアをノックしてやって来る者がいないのに、いったい誰かという思いだ。筆者にすればそういう顔ばかりが現われるので、なかなか笑顔を作りにくい。別段愛想笑いをする必要もないが、初対面でしかもまた永遠に顔を合わさないであろうから、双方が苦みばしった顔をするのはよくはないだろう。
そのマンションの住民の4分の1程度に今日は調査票を配った。朝から夜まで出かけ直し、夜にはマンションの廊下から満月がよく見えた。そのきれいなムーンゴッタ(満月のこと)を見ながら、何度訪れても会えないことのむなしさと同時に、調査票を受け取る人々の生活がいろいろと想像出来た。ワンルーム的なマンションなので、裕福な人は住んでいないだろう。少なくともそのすぐ近くに住む一戸建ての医者といったような人々と同じ生活レベルではない。だが、その何となくわびしい生活状態を思うかたわら、筆者はわが身を振り返った。筆者は自分が所有する家に住んでいるので、ワンルームの住民より恵まれているかもしれないが、もっと裕福な人から見ればあまりに哀れを催す程度のものに過ぎない。どういう家に住んでいるかは、絶対的なものではなく、必ず上には上が、下には下がある。そして一番下はホームレスということになるが、ホームレスも同じように物事を考え、自分はまだ恵まれていると思う人もあるだろう。そう思ったところで、筆者はまたワンルーム・マンションで調査票を受け取ってくれた何人かの顔と身なりを思い出した。そして、そういう人の中には、ひょっとすれば筆者が及びもつかない能力や、また優しさを持つ、あるいは実際に名だたる仕事をしている、あるいはしつつある人がいるかもしれない。おそらくそうだろう。好んでそういうワンルームに住む人もあるはずで、住居環境や身なりで人はわからない。筆者は自治会長をしているために、それらワンルーム・マンション以外の住民全体に顔をよく知られ、調査票を持参すると時に世間話に花が咲いてなかなか解放してもらえない。そして筆者がそうした立ち話をするところからわずか100メートル離れたところに、筆者が初めて会って、これからもう会わない人がたくさん住んでいるマンションが建つ。そういうマンション住民も自治会に入ってくれれば、自治会がもっと活発化していいが、それを促進する役割は筆者にある。隣に、近くに誰が住んでいるかよく知っているという環境が理想的だが、それを好まない人もある。ワンルーム・マンションに住む人は、一戸建ての持ち家の住民に比べて隣付き合いがない分、孤独感はより大きくなる気がするが、その孤独感がさらにワンルームに住むしかないという経済状態に留まらせる気もする。そして、そういう社会が広がると、先日大阪であったような、23歳の母親がかわいい子どもふたりを餓死させたというような事件も生ずる。断わっておくと、今日訪れたワンルーム・マンションの住民が、みな孤独に見えたというのではない。孤独を言えばどの家でも同じだ。ただし、今日接したワンルームの住民に中には、病気がちな人や仕事のないような人、老人がいて、秋の冷たい風もあいまって、脆く、さびしい人々を実感した。筆者もいつそういう人々の仲間になるかわからない。あるいはもうそうなっているのかもしれない。むなしくドアをノックして回る筆者の背中をムーンゴッタが虹のような輪を作って輝いていた。