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●『束芋-断面の世代』
塊の世代を父親に持つ世代を断面の世代と呼んで、しかもその断面性を自身の作家活動のテーマにしているのが束芋(たばいも)という女性だ。



●『束芋-断面の世代』_d0053294_9502168.jpgこれは田端家の三姉妹のうち、真ん中の妹を指すところからついたあだ名で、学生時代からそう呼ばれて来た。このように全体的に語呂合わせが好きな、つまり愉快なことが好きな束芋と見てよいが、表現はアニメを暗い空間で、立体的な設えの中で見せるもので、一言すればお化け屋敷だ。真夏の猛暑にこの展覧会場となった国立国際美術館の中はまさに真っ暗な大型のお化け屋敷が数か所つながっていて、いい納涼となった。お化け屋敷から連想する内容は人によって違うが、束芋の作品は、表向きは、お化け屋敷を出た後にげらげらと笑える陽気なものとは異なって、刺があって、ひりひりした味わいがある。それは作家の想像、妄想なのだが、ごく平凡な団地に自殺者があったりすることを画題にするところ、美術は幸福なものを表現すると思い込んでいる人からは嫌われるだろう。三面記事的、三文小説的な場面をアニメ、つまり漫画のように描く行為のどこに芸術性があるかというわけだが、お化け屋敷で人を一時涼しい思いにさせるところに作者の主眼があると思えばいい。またそうした日常の孤独な断面を描く行為は、作者ないし作者が捉える世界がうすっぺらな存在ゆえの悲しみと捉えることも出来るかもしれないが、その裏に束芋のしたたかな個性が見えていて、全体的にはやはり笑いのお化け屋敷を感じさせる。
 現在の縁日のお化け屋敷がどういう傾向を持っているのかはしらないが、TVで散見するところ、昔とほとんど変化はない。それに、花見の季節に毎年開催される京都八坂神社境内のお化け屋敷は、2、3年前から「お笑い」の言葉を前面に押し出し、恐ろしいお化けを笑いながら恐がって楽しむものに変化している。それは束芋の作品といかにも同時代の傾向にも思えるが、筆者は八坂神社のお化け屋敷の方は断然面白い。そうしたお笑いお化け屋敷も束芋の作品も、『ゲゲゲの鬼太郎』の影響が強いかもしれない。束芋は『ゲゲゲの鬼太郎』を子どもの頃からよく知っている世代であるから、お化け屋敷のイメージは団塊の世代のそれとは違って、笑いの要素が増しているだろう。そして、絵画をもとにした束芋のインスタレーションは、夜のような暗い空間で映し出されるアニメ映像が基本であり、昔ながらのお化け屋敷的を2次元の映像に置き換え、それをさらに立体的に映し出しながら、そこに個人や同世代の思いを吐露したものであるから、見世物としてのお笑い的お化け屋敷に、芸術では不可欠な個人や世代の思想が混ざったものになっている。そのどちらが勝っているかは、人によって見方が違う。筆者は団塊の世代より3、4歳年下で、おおまかに言えば団塊世代に属するから、断面世代とやらの置かれる位置がよく見えると一応は言ってよいが、そのために断面世代の作品もよくわかるということにはなかなかならない。つまり団塊の世代と断面の世代の間には断層がある。そこには一言出来ない多くの思いが混じるが、自殺者が年間3万人を越えるという現在、束芋の団地を断面化し、その蜂の巣のような狭い各部屋の内部を覗き込む行為は、そしてその部屋の中には時として血がたっぷり流れているという見方は、生来が薔薇色だけに見えていない若い世代の孤独を感じる。それは筆者のような世代はもう凝視したくないもので、束芋がそうしたものを本当に表現せずにはおられないとすればそれは痛ましいことに思える。だが、その反対にそういう三面記事的、三文小説的な場面を全く描かず、たとえばきれいな花をごく普通にきれいな色と形で描くという行為もまたあまりにも嘘っぽくて、何をどう描くかは随分自由になっている。
 競争はいつの時代にもあるから、団塊世代が断層世代より過酷な青少年時代を生き抜いて来たとは一概に言えない。筆者が小学生の頃、担任の先生は「このクラスで大学に進むのは4、5人」とよく言っていた。それは一クラスおよそ45人の10分の1という意味だ。それほどに大学進学率が低く、日本はまだ貧しかった。今は8、9割が大学に進み、そのために団塊世代では3流大学であったところが1流の下くらいに位が上がったが、大学が細かく序列化され、団塊世代では高校卒でも就かなかったようなつまらない仕事を大卒がするようになった。これはかつては10代半ばで覚えた仕事が、今では10年遅い20代半ばにずれ込み、そのために団塊世代に比べて今の若者はちょうど10歳くらい精神的に後れている気もするが、一方で寿命が10年延びたので、辻褄が合っている。団塊世代にとって今の若い世代が幼稚に見える一方、その反対にえらく大人びて見えるところがある。それは情報化社会に育ったので、経験はないのに知識だけでその経験を擬似体験出来るからだ。簡単に言えば頭でっかちなのだが、そういう人物は団塊世代にもたくさんいたから、団塊世代が断層世代の親であることはまさに当たっていて、その意味からすれば断層世代は団塊世代の掌の中を泳いでいるに過ぎないとも思える。つまり、団塊世代からすれば断層世代のやることはみな見え透いていて、驚くに当たらない。あるいは、団塊世代が夢想していたことを、断層世代が実現していると言い替えてよい。であるから、団塊世代は断層世代と同じように現実に白けていて、そのために団塊世代は断層世代の作品を見るよりも、団塊世代以前の古い作品に魅せられる。いずれ断層世代もそうなるはずで、断層世代が団塊世代を意識することで自分たちを断層世代と呼ぶことが、たいして面白くもないことであると自覚した時に、本当に時代を超えて残していくべき作品が生まれるような気もする。
 こう書けば筆者が主束の作品をどう思って見たかが予想されるが、先に書いたように、お化け屋敷的な涼しさと暗さを満喫し、束芋個人あるいは断層世代の悩みめいたことには共感出来なかった。断層は2次元のうすっぺらであるから、それをアニメに置き換えるアイデアは見事に芋束の世代の思いを表わしていると言えるが、そこには日本がアニメによって現在世界で注目すべき存在になっていることに着目した戦略も見えていて、その点では村上隆と共通する。アニメを現在のように広めたのは団塊世代だが、団塊世代もさまざまで、筆者のようにほとんどアニメに関心のなかった者もいる。いや、正確に言えば、筆者は小学6年生の時、東映が作った劇場用アニメ映画『孫悟空』を見て、主題歌を初め、あらゆる場面に強烈に魅せられた。その後TVで手塚アニメなどが放送されるようになって全く失望したのは、『孫悟空』に比べて動きがぎこちなく、白黒画面であったからだが、粗製濫造の日本のTVアニメを嫌悪した思いはその後も去らなかった。そして宮崎アニメが全盛になった時、確かにディズニー・アニメに劣らぬ細かい描写ではあるが、その実写映像に迫ろうとする思いが邪道に思え、また登場人物の無国籍的で無個性な描き方が何とも気に食わないなど、宮崎アニメはまだ1本も見ていない。つまり、小学6年生で筆者は日本のアニメを見限った。これは漫画も同じだ。束芋は団塊世代をそうしたアニメや漫画を生んだ世代と過大視、制限視し、それを自己の表現手法に役立てているが、筆者のようにアニメや漫画に関心のなかった者は、束芋の作品にほとんど関心が持てない。だが、前述のように、日本は今やアニメが国家を救うと言われるほどアニメが大手を振っているし、そこに束芋、そして団塊世代をつなげて戦後の日本における美術の流れを再編しようという評論家も出て来るだろう。そして、筆者が苦々しく思うのは、そういうブームに乗ったような現代美術だけが王道とみなされかねない風潮で、30代の若い束芋が国立美術館のワン・フロア全部を使って個展が出来るというもてはやされぶりだ。束芋ほどの人気作家が他にいないからという理由もあろうが、団塊世代から見れば全く信じられないほど断面世代は恵まれた位置にある。これは美術館をたくさん作り過ぎたため、それをフル活動させるには、とにかく人を呼べそうな作家をどんどん採り上げるという考えによる。断面世代は発表の場に恵まれ、有名になる場が団塊世代にはあり得なかったほどに多い。そのために、底の浅い作家も目に触れることになる。その底の浅さを逆手に取って束芋は断面の世代、そしてアニメ映像を発表するというしたたかさだ。そして、そういうしたたかさは松井冬子にもあるが、うすっぺらい分、精神的に脆く、それが一種哀れを誘うようなところがある。そして、彼女たちはそれをまたあえて自作にそう仕組んでいるというしたたかさがある。そういう巧妙な戦略を面白いと思うのは同世代の女性ではないだろうか。団塊世代のおじさんには、本心を見せているようで媚びをふんだんに内蔵し、そして何重にも化粧しているかのような作品はさして面白くない。うすっぺらいのは時代のせいと高をくくることが許されるのは若い間だけだ。
 現代美術であるから、現代を鏡のように映し出している作品に人気が集まる。そして大勢の人に来てもらうには、縁日にあるような仕組み、構造を活用する必要がある。それで束芋からお化け屋敷を思うのだが、孤独に団地の部屋で生活する人々は、現代日本の縮図だ。そこに美があるかどうかはわからないが、少なくとも多くの人の共感を呼ぶ真実味はあるだろう。その真実味はあまりにも殺風景でうすっぺらだが、日本の現状がそうなのだ。団地住まいをしている人に床の間に飾るような掛軸はほとんど無縁であろうし、その意味で現代人は江戸時代とは完全に切り離れたところで生活している。かつては美とされたものの基準は今もそれなりに伝達されてはいるが、生活の中でそれを活かそうと思えば、かつてと同じ形態ではあり得ない。断面世代のみならず、戦後の日本のすべての世代が、好き勝手に新たに美の基準を求めることとなり、しかもそれはどれも断面的にうすっぺらなものと化すしかなかった。ある団塊世代の子どものいない家にお邪魔したことがある。額入りの絵が2、3点飾ってあった。それはディズニーのキャラクターの版画で、それを見た時、筆者はかなり衝撃を受けた。そのような絵は筆者は小学生の頃に盛んに描き、大人が額に入れて楽しむものとは全く思いもしなかった。ところが、筆者より年配の世代に、ゴッホやルノワールではなく、ディズニーの絵を部屋に飾って楽しむ人がある。束芋のような作家が現在もてはやされるのはそこからは何となくよく理解出来る。筆者が思って来た、あるいは今も思っているような芸術ばかりが芸術ではなく、いや、それどころか、そういう王道的な芸術を目指す者は隅に追いやられ、今ではサブカルチャーと呼ばれたもののその落とし子のような作品が、日本が誇る現代美術として世界に向けて発信されている。だが、その一方では筆者のような古い考えの持ち主もいる。その古い考えの中からお化け屋敷的衝撃に匹敵する作品、あるいはそれを生み出すことの出来る才能がない限り、国立の施設が束芋のような断面世代の作品を今後も展示することになる。今や見世物となった芸術であるから、断面世代は見世物世代と言い換えていい。そして見世物世代はネット世代でもあって、見せる何かを持たない人は存在しないも同然か、あるいは束芋が描くように、作品のネタのひとつに扱われる。そして見世物は1回見ただけで満足されるのが普通で、今までにはなかったような刺激の強い、どぎついものが求められ、醜が美とみなされる。表向きの醜は問わず、その醜の奥に真があればよしというわけだ。そしてその真は究極的には時代にかかわらず同じはずだが、真に到達する方法や眼差しは変化し、それを映すのが現代美術ということなのだろう。芋束は幼い頃はら筆を持つ技術を叩き込まれたという。そのため、松井冬子と同じように、技術的なうまさは鎧として持っている。だが、アニメ作品を見た限りでは、その技術は特筆に値するというほどのものとは思えなかった。漫画家では同じような線を引く、あるいは技術的には劣ってももっと面白い絵を描く才能があるだろう。またアニメとはいえ、商業用のそれとは違って、静止画的で、数分の長さのものを反転させて見せたり、また鏡を使って天地左右に増幅させているなど、水増し具合が露で、そこが団地の安っぽさにいかにも似合っているところが、また束芋の計算なのかもしれない。何度か見ると同じ画面の繰り返しに見えて違う細部の発見があるとのことだが、それは現在のコンピュータ技術を使えばさほど困難な仕組みではないだろう。
by uuuzen | 2010-09-14 09:50 | ●おにおにっ記 FINALE
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