箒を持っていつも道ばたを掃いている「レレレのおじさん」は赤塚不二夫を生んだ数多いキャラクターの中でも変に印象深い。
赤塚世代では掃除をするキモノ姿のおじさんは珍しくなかったであろう。道を掃除する行為は今では市の職員や学生を中心としたボランティアであったりして、自ら進んで毎日無償で自分の周りを掃く人は見かけない。それどころか、筆者の地元では庭つきの大きな家が多いのに、そうした家の人々は平気でゴミをかたわらを流れる小川に捨てる。庭木を剪定した葉っぱなどもそのまま流して平気で、自分の周囲をきれいにするのは熱心でも、そのほかはどうなってもおかまいなしだ。そのためかどうか、つい最近その小川に架かる橋のひとつに市か区が用意したゴミ捨て禁止の看板が掲げられた。無粋な話で、その看板の周辺はゴミを平気で捨てる人が住む地域であることを示している。川に捨てると即座にゴミは自分の視界から消えるから、それでゴミはきれいに失せたも同じと思い込む。何と低能な大人が多いことかと思うが、そういう大人の子も同じようなことをするだろう。たとえば、筆者の地元では犬を飼っている人がきわめて多いが、犬の糞を始末しない人が時にある。またビニール袋を持参している青年が、糞をそれですくった後、その糞入りの袋をグルグルと勢いをつけて回転させ、遠くへ放り投げる。そういう青年の家にバキューム・カーに詰まっている糞を放射してやりたくなるが、動物を愛護する優しい精神の持ち主と自惚れている大人が、実際は他人がどうなってもかまわない常識知らずである場合がままあり、筆者は犬や猫を飼う人があまり好きではない。犬や猫より人間が大切なはずなのに、今や犬や猫の餌の方が豪華で、ホームレスが餓死しようとしていても、その真横で平気で飼い犬や猫を散歩させる。筆者の近くに猫をかわいがる人がいる。野良猫にも餌をたくさんやるため、猫が増え過ぎ、それが辺りかまわず糞をして近所中どこも悪臭だらけだ。何年か前、区役所に行って餌やり禁止の看板をいくつももらって来てその人物の近所に設置したが、いっこうに効き目はない。そのため、近所の人はみな猫が糞をしないように庭に草花を切り、砂利を敷き詰めたりと自衛するのみだ。個人的に注意しても聞き入れず、大喧嘩したこともあるが、それでも聞き入れないので、もう放っておくしかない。そういう困った大人はレレレのおじさんとは正反対で、赤塚不二夫も予想出来たろうか。道を清掃するどころか、みんなが通る公道を猫の糞だらけにしてみんなが困る顔を見て楽しんでいる。レレレのおじさんは筆者にはまだまだ良心が残っていた昭和30年代までの日本の象徴に見える。きれいに身の周りを無償で清掃する。それはもう望めない美しい行為になった。

さて、今日のタイトルの「Re:Re:Re:のおじさん」は、電子メールのタイトルとして使ったものだ。メールの返事には新たなタイトルをつける方が相手の心象をよくすることは知っている。だが時々それが面倒で、送られて来たメールにそのまま返信する。いずれにしても、タイトルの頭には「Re:」がつく。これはREPLYの意味だが、最初に届いたメールを起点に、そのまま何度かメールを交換し合うと、「Re:」がどんどん増え、その数によってお互い何度返信したかがわかる。筆者のメールで最高の数は10くらいだったと思うが、そんなことは稀でたいていは2、3度で一応メール交換は終わる。かなり後日になってメールが届く時はまた新たなタイトルをつけている場合がほとんどなので、そのメールの頭に「Re:」が何個もついていることはないが、筆者はアドレス・ブックを開いて起点メールを作らずに、数週間前に届いた「Re:」つきのメールを開いて、その「Re:」やタイトルを削除して新たなタイトルをつけて送信することがしばしばで、相手にそうした返信メールが届いた時に、タイトルの頭に「Re:」がついているのかどうか、それをまだ確認していない。それはともかく、今年に入ってこの「Re:」が3度続くかと思えたことがあった。それを期待して千葉のSさんにメールを送ったところ、パソコンではなくケータイ電話で返事が書かれためか、アドレスが違っていて、当然そこには「Re:」がついていなかった。これはかなり微妙な話になるが、筆者はSさんに「Re:Re:Re:のおじさん」と題して返事を送りたくて、そのためSさんからメールが届くより早く、「Re:Re:京都の○○」と題したメールにSさんが無事に帰宅したかどうかの問いを書いて送信した。帰宅したSさんは早速返事をくれたのだが、筆者のそのメールに対する返信ではなく、新たにメールを立てたのだ。つまり、筆者の「Re:Re:京都の○○」のメールに返事がもらえて、今度はそのメールに「Re:Re:Re:のおじさん」と題して送ることが出来ると思っていたのに、肩透かしを食らったのだ。だが、Sさんは筆者がそんなアホなことを計画していたことは知らない。その後また「Re:Re:Re:のおじさん」のメールを出す機会をうかがい続け、結局実現することが出来た。それは先日残暑見舞いをもらった千葉のOさんだ。ザッパのことでたまにメールをやり取りする。Oさんのメールに返事を書いた最初は「Re:」がひとつだけ頭につき、3度目の返事は「Re:Re:Re:」となる。もちろん「Re:Re:Re:京都の○○」の「京都の○○」部分は「のおじさん」に置き換える。その「Re:Re:Re:のおじさん」と題するメールを受け取ったOさんは意味がわからなかったのか、あるいは虚を突かれてか、その返事には今度は新たにメールを立て、しかも「Re:Re:Re:のおじさん」の題名については問いたださなかった。つまり、面白がっているのは筆者だけだ。そういうこともあって、今日は以上のようにSさんとOさんに筆者の思いを伝えておこう。
「Re:Re:Re:のおじさん」のタイトルに意味はない。「Re:」が3度続けばレレレのおじさんになると思っただけのことで、また自分の身辺を常に掃除しているおじさんでありたいと思う気持ちがないでもないからだ。箒で掃いていると気持ちがいいのは確かで、きれいに掃かれた庭ほど凛としたものはない。その意味で行くと、メールもたまに一斉に掃除すべきだ。メール容量がヤフーから許可されている全体の1割しか使用していないにもかかわらず、筆者はこまめに不要メールを消している。そういう性分なのだ。だが、不要で言えばずべてのメールが不要で、はがきや手紙のようには残らないし、また残す価値もない。その考えによれば電子本もあるいはこうしたブログもそうで、電気がなければ話にならず、しかも一瞬で消えて重みがさっぱりない。とはいえ、確実に手書のはがきや手紙を出す機会が減っていて、たまにそういうものを出す必要があると億劫だ。先日千葉のOさんから封書の残暑見舞いをもらった。中身は印刷した1枚の便箋で、絵入りであった。それへの返事を書かねばと思いながら、1週間ほど要した。それはいいとして、Oさんのその便箋は2000年から始めた房総半島一周の旅の報告を兼ねたものだ。2000年に子どもたちを連れて西の富津崎を起点に時計と反対周りに房総半島の海べりを歩いたのが最初で、その後2007年に再開し、以後毎年歩き続けて今年は白子まで到達した。細切れに20キロから30キロ程度を毎年歩くので、銚子に至るにはまだ2年ほどかかるかもしれない。九十九里浜は海水浴場が並んでいるので、夏休みに歩くのは気持ちがいいだろう。Oさんはそのようにアウトドア派で、筆者とは正反対だ。筆者も歩くのは好きだが、もっぱら都会ばかりで、自然豊かなところには足が向かない。そのためひとり息子も同じように育ってしまった。子どもはキャンプを体験させるなど、自然の中で食べた寝たりする経験を多くするほどいいと思う。筆者にもそんな経験は何度かあるが、ついに自分で進んでそんなことをすることにはならなかった。ところで、昨日東京のUさんから久しぶりのメールが届いた。一昨日長男が生まれたのだ。早速写真を撮ってそれが添付されていた。筆者と誕生日が4日違いの乙女座で、Uさんはザッパを聴く子に育つかなと書いているが、親がそうなってほしいと思ってもそうなるとは限らないし、またそうならなくても子どもなりの何かを見つけるからそれでいいのだ。あれあれのレレレ、思わず赤塚不二夫節が出たな。Uさん、ザッパもいいけれど、レレレのおじさんを子どもに伝えるのもいいと思うよ。杉浦茂の熱烈なファンのUさんは、レレレのおじさんが杉浦の作ったキャラクターから大きな影響を受けていることは充分知っているし、筆者がわざわざ言わなくてもきっとそうすると思うけど。