江戸時代の小説となると、小説好きでもあまり知識がないだろう。筆者は全くその部類で、上田秋成くらいしか読んだことがない。

それも『雨月物語』や『春雨物語』など、代表作と言われるものには目を通した程度だ。秋成は筆者と同じ大阪生まれで京都に出て暮したこともあってなおさら身近に感じ、またそれ以上に心に深く刻まれている人物で、気になる人物のベスト5に入るほどだ。没後200年記念の上田秋成展が京都国立博物館で開催されるとのチラシを手にしたのは4月頃だった。猛暑が続くので躊躇し続け、ようやく先日の6日に行って来た。当日は金曜日で夜8時まで開館しており、また本館前広場では映画『雨月物語』が上映され、無料で見られることを予め知り、あえてその日を選んだとも言える。展示は本館全部を使うのではなく、中央室は青銅鏡の科学的検査の結果報告と展示、そして確か最後の二部屋は新収蔵品の展示で、一応秋成の全貌を紹介するとはいえ、入門者向きであった。また、画家ではないので、展示物はどうしても地味になり、秋成と交友のあった画家の絵画を見に行ったようなものだ。あるいは書に関心のある人ならば、秋成の筆跡が堪能出来る。これについても書きたいが、今回は話が長くなりそうなのでそれには触れない。今回の展覧会が秋成の本質をわかりやすく示すことに成功したかとなると、それは疑問だ。先に入門者向きと書いたが、多面的な活動をした秋成のどこに焦点を当てるかとなると、博物館を使用するのであれば絵画や実物資料が主とならざるを得ないし、文字によって伝わる秋成の思想を紹介するとなると、研究家によって意見が別れるところもあって、なかなか一筋縄では行かない。そして、秋成についての前知識が一般的にどの程度であるかの問題を考えると、『雨月物語』程度を知る程度で、秋成の国学者としての側面の紹介となると、ほとんどちんぷんかんぷんという人が大半ではないだろうか。そのため、博物館としては観客動員のために、なるべく見て楽しい平易な内容を心がける必要がある。そこが専門家にはやや不満だが、筆者が不満であったのは、図録がカラー印刷で500円と安いのはいいが、肝心の見たいものが紹介されていない。そのためにもう一度出かけようかと思っているほどで、展示物を全部図版で紹介するという図録の基本が今回無視されているのは、それだけ専門的な内容が多く、そんな図録を仮に倍の1000円で作ってもほとんど売れないと踏んだからか。ともかく、今回の図録は見栄えはいいが、秋成に関心のある人にはさっぱり物足りない。そしてそこに秋成展の困難さがある気もする。だが、大阪で本来開催されてよいのに、それが全く無視され、墓のある京都となったのは、いかにも大阪の文化度の質を示す。大阪で同じ展覧会をしても半分の入場者もないだろう。とはいえ、京都もさほど多くない。その多くないことを見越して真夏に企画された。秋成が哀れと言うものだが、没後200年を経てこうした展覧会で記念されるだけまだましだ。
筆者は秋成研究の本をかなり持っている。そうとう分厚いものも中にはあって、まだ全部に目を通していない。だが、目を通さずとも秋成の人格はよくわかる気がする。こう書けば傲慢と謗られるかもしれないが、秋成の考えに筆者はほとんど同調出来、身近にいればきっと接近して弟子にしてもらったと思う。そういう気持ちになったのは秋成の書いたものを読んだからで、こんな表現はふさわしくないが、とにかく面白い。そしてそんな特別な人物を大阪が育んだことがまた面白い。秋成のどこが大阪的かは一口で言い表わしにくいが、反骨ぶりと権力にへつらわないところ、そして庶民にやさしい眼差しか。これはどこかの知事とは正反対で、江戸では生まれ得なかった人物とみなしたい。秋成の反骨ぶりは最晩年の『胆大小心録』によく示されている。そこには誰にとっての最晩年、つまりある種の性質の硬直ぶりが露で、壮年の秋成はもう少し違ったと思う人もあるかもしれない。だが、むしろ最晩年になって誰にも気兼ねや遠慮をせず、ずばりと物事を言ったと捉える方がいい。とにかく秋成の知る有名人をほとんど全員めった切りにしており、あまりに辛辣なその口ぶりによって、それを読んだ秋成の知人たちは秋成を快く思わなかったにか、あるいは「あの耄碌爺」と表向き怒りながら内心笑ったかだが、そうした人物評はそれだけ秋成が人間に関心があったことを示し、小説家の面目を果たしてもいる。老人になると人間嫌いに陥って、他人を謗ることにも関心を抱かなくなる場合も少なくないだろうから、秋成は老いても盛んであったと見るべきだ。『胆大小心録』は生前出版されなかった。しかも秋成は草稿を井戸に投げ込んで没にしたもので、そんな風刺的な文章は出版されるはずがなく、ならば自分の手で破棄しておいた方がよいと思ったのだろう。だが、辛辣な内容ばかりではなく、秋成が注目した関心事がいろいろと溢れ、当時のさまざまなことを知ることが出来る点で、江戸時代の上方に興味のある人は必読のものだ。また、人間に対しての見方も、市井一般の人には温かく、有名人に厳しいく、そのバランスが秋成の人間的優しさと大きさをよく伝える。
筆者が秋成の名前を最初に意識的に耳にしたのは中学生時の歴史の授業だ。その時の黒板に書かれた「上田秋成」の文字や先生の顔、そして声までよく記憶するが、当時は秋成と『雨月物語』を結びつけて覚えただけで、秋成が大阪生まれであることは知らなかった。中学生が『雨月物語』を読むのはあまり例がないであろうし、また読んでもどこまで内容が把握出来るかは疑問だ。秋成の人間性も含めて、じっくりと味わえるようになるには、それなりの歳月と経験を経る必要がある。秋成は妻がいたが子はなかった。また妻が亡くなった後は経済的にますま困窮し、最晩年は秋成を慕う人々の援助によって餓死しない程度の人生を送ることが出来た。「有名人は金持ち」という図式がごく当然になっている現在では、秋成のような金乏人は、作品があってもどうせたいしたことがないと見る向きが多いだろう。おそらく秋成の時代でもそうであった。金が力を誇示する時代がすでに始まっていた。そして、江戸時代でも経済力はそれ熱心な者だけが獲得出来て、そうでないものには無縁であった。秋成が金に恬淡ではなかったとは言えないだろうが、いつも金に困っていたような様子からは、金を大いに稼ぐことをどこか罪悪と思っていたような節がある。有名人であればその名声を何らかの形で利用して金儲けをするのは常識と言ってよいが、秋成にはそれがどこか詐欺めいて見えた。秋成の生活苦を見て、ある人が歌を教えるなりして授業料をもらって暮せばよいと意見した。すると、そのようなことをして生きている連中にろくなのがおらず、またそのような連中に学んでもそれ以上に上達することはないはずと答えて、自分の知っていることを人に教えることで金儲けをしなかった。であるから、たとえば日本全国に弟子が千人以上もいて、それらから通信教育代を徴収するといった「商売」上手な本居宣長に対しては敵意をむき出しにした。学がどうのと言う前に、そういう商売の方法を取る宣長が秋成には胡散臭かったのだろう。筆者もどちらかと言えばそう思う。学者はそのようにしなければ生活を安定させ得ないことはわかるし、現代ならば大学の教授がそうした存在で、教えによって食うことが制度化され、しかもそれが尊敬の対象になった。こういう状況を見て秋成がどう意見したかを考えると面白い。ろくでもない教授がわんさかいる状態では、学を何と考えていると大いに嘆いたのは明らかだ。それに、秋成の書いたものを研究し続けて、秋成の何倍もよい暮らしが出来るのであるから、大学教授はうまい職業だ。こういう図式は永遠に続き、本当の価値あるものを創作した者は貧困に喘ぎ、それを後世になって持ち上げる者が元をぶん取る。それはさておき、大学のなかった江戸時代では、学者は集まって来る人々からお金を得る必要があった。それは秋成もよく理解していただろうが、教える実質に比べて徴収する額、あるいはその方法や教えの実態を見て、当の人物が本物かどうかを見極めた。そして、理想と自意識の高い秋成は教えによって金を得ることを恥じた。だが、出版による印税といったものはまだない時代で、秋成が食って行くためには何をどうすることが出来たであろう。売茶翁は茶を売って生活の糧を得たが、文筆家の秋成はその才能を金に変えるしかない。にもかかわらず、それがへたで、晩年いよいよ金欠に追い込まれ、そういう状態で片っ端から非難の言葉を浴びせたのが『胆大小心録』だ。
秋成と宣長の論戦は有名で、今回の展覧会では秋成は宣長の学識にかなわず、敗北感を深く味わった結果、『胆大小心録』においても宣長を厳しく謗ったといったことが書かれていた。それは実際そうであったとしても、ふたりの論戦は噛み合わなかったとするのが正しいのではないか。秋成は宣長ほどの、「万葉集」など、日本の古い文学や歴史について学識がなかったとしても、当時最先端の科学的な見方にしたがって、どう考えても不合理なことは不合理と主張した。たとえば天皇が世界の頂点に立つ人物と宣長が主張するのに対し、秋成は日本は世界の中のごく小さな島国で、そこの代表者が世界を代表するという見方は、日本以外から見れば納得し難いと言った。これに対し宣長はそういう考えをすること自体おかしいと反論するが、こういった論争からは秋成がごくまともで、宣長があまりにも国粋主義的に見える、実際宣長のそうした物の見方はその後追随者が出て明治の神国日本の思想に直結し、そのまま太平洋戦争、つまり原爆にまだ関係した。秋成の考えが支持されていたならば、つまり上方が日本の歴史をリードしたならば、現在の日本とはもっと違っていただろう。宣長にすれば自分の死んだ後の日本がどうなろうと知ったことではなかったかもしれないが、学者の責任といったことを考えると、宣長の国粋主義的な国家を愛する思いには世界を無視した狭さを感じる。そして、秋成はもっと広く世の中を知り、また見ていたのではないだろうか。それはいかにも商都の大阪生まれらしく、また筆者にはごくまともで正しく見える。一方、宣長の考えは天皇崇拝の熱に頭が侵されて正常に物事を考えることが出来なくなってしまったこじつけの学問に思える。学とはこじつけか。そうだ。こじつけがもっともらしけれさえあれば立派な学とされる。深い学識と表現される宣長だが、それはどこも間違ってはいないのか。そんな疑問をよく思う。ところで、宣長については晩年の小林秀雄が研究し、本を書いた。それは筆者が10代半ばから20代半ばの頃で、当時小林の本を何冊か買って読んではみたものの、宣長についての本だけは本能的に拒否感があった。小林が若い頃からモーツァルトとランボー、ドストエフスキーといったさんざん西洋の音楽や文学を研究した果てに日本独自の何かを求めて宣長に行き当たったことは、知識人としてはよくあることで同情は出来る。だが、宣長を研究してそこから何を引き出そうというのか、そこが気になった。秋成も国学に関心を抱き、研究をしたが、小説も書くという創作をした点で、学者に収まらない才能であった。これを学者としては2、3流で、小説のような雑文しか書く才能がなかったと学者たちは見るだろう。それに、秋成と学者の宣長を比較することが土台無理な話とも言えるが、秋成は独学でも6割程度はわかると書いていて、これは独学するしかなかった自らの立場を慰めると同時に、また師がなくても6割程度の学者には誰でもなれると主張しているようで、実に正しく、またどこか謙虚で風刺の趣も漂う。つまり、宣長の6割程度はわかるという自負だが、残り4割を敗北感から見るというのではなしに、その欠けた分は創作やまた人間性で補ってあまりあったのが秋成だ。
宣長にも秋成にも肖像画が伝わっている。これは贔屓目が混じるが、宣長はどことなくけち臭い、神経質な頑固者と見えるのに対し、秋成の方が聡明で明るい、物事をはっきりと言う、さっぱりした顔をしている。また、秋成の壮年の頃の肖像画ともっと後の陶製の座像を見比べると、実際はどのような顔であったかがよく伝わる。芸能人で言えば誰に似るかなどと思うが、筆者の近所には似ている人がいて、ついその人を思い出す。だがそれは顔のみで、性格その他はまるっきり違ったであろう。それはともかく、この秋成の顔を思い浮かべながら、秋成の書いたものを読むと、なお秋成が実在感を持って迫って来る気がする。さて、こうして書いて切りがないので、最後の話題を。秋成の大阪人らしいところは、『雨月物語』の最後の章が「貧福論」となっていて、金にまつわる話であることからも言えるかもしれない。『胆大小心録』にもそうした金に関する意見が書かれる。秋成は、金持ちがやがて落ちぶれたりする様子を見ながら、金は非情な存在で、神や仏に無関係で、金そのものの論理にしたがって移動すると考え、庶民には大金は必要がなく、日常の暮らしを支えるだけの金があればいいともした。貨幣経済が現代はもっと複雑になっているので、秋成の言うように、庶民には日銭があればよいという呑気も言っておれなくなっているが、それでも普段の生活を支えるには、大金は必要がないし、分不相応な大金を持つと人は性格が変わり、そのことで予想もつかない出来事に巻き込まれたりする。金持ちと貧乏人の図式は変らず、金儲けがうまい連中と、全くそうでない人々がいることは未来にわたっても変化はない。そうした金に関することを書いているところに、秋成の身近さと現代性があるが、秋成が金欠に困ったことは清廉さの証として、筆者は限りない思いを寄せる。もし大金持ちとして秋成が亡くなっていたのであれば、今のような評価はなかったのではないだろうか。また、秋成の著作には、読んで金持ちになれそうな気配がない。そのため、有名で金持ちを目指す者が多い現在の日本では秋成の読み手は少なく、また理解して同調する者はさらに少数派だろう。