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●バス・タオルの山
●バス・タオルの山_d0053294_0501064.gifを打っておくのを忘れるところだった。今日は連続投稿1900日目だ。いつもの太陽マークを掲げておく。



文字ばかりだと見栄えがしないので、たまにはこうした目印的な画像があってよい。他人には何の意味もないが、毎日一歩ずつという気持ちの筆者にすれば、この区切り画像を掲載する日はそれなりに感慨深い。次は2000日目で、その時には何か大きな区切りをつけようという気にもなっている。2000を越えると次の大きな区切りは3000で、そこまで筆者の粘りが続くのかどうか。暑さのあまりつい弱気にもなる。というのは嘘で、夏生まれの筆者はこれしきの暑さでへこたれない。逆に元気が出て来る気がする。本題に入る。育ちによる習慣がある。息子はここ2、3年でアトピー症がさらに悪化し、とんでもない姿になっているが、以前バス・タオルのことで筆者と喧嘩をしたことがある。息子は習慣として風呂上がりにバス・タオルを使う。筆者は使わないし、バス・タオルが家にあることさえ知らないほどだ。筆者が子どもの頃、銭湯ではタオル1本で間に合った。というより間に合わせた。家には確か家族の数だけバス・タオルはなく、中学生になって一緒に行く友だちも洗面器の中にはタオルと石鹸だけであった。そのタオルで性器を隠し、身体を洗い、そして絞って拭った。銭湯では脱衣場と湯船のある空間との境に、棕櫚の毛で編んだ厚手のドンゴロス地のような水を吸う絨毯が敷いてあった。今はそんなものを作る工場がなくなったのか、またあってもとても高価になったはずで、新式の新素材のものになっている場合が多いが、とにかく、そこは半ばいつも濡れていて、脱衣場と湯場の境界で、風呂から上がった時にはそこに立つ前に、濡れたタオルを絞って身体を拭くのが常識として教えられた。そうせずに、濡れて火照ったままの身体で出て来て、籐の敷いてある脱衣場の扇風機の前に陣取る大人もいたが、子ども心ながらに下品に見えた。エチケットを知らない、守らないそういう大人は昔からいた。誰かが困ってもかわまない、あるいは困ることが想像出来ないのだ。また、お金さえ払えば、何をしようが勝手という思いもあって、注意されると逆上する。筆者は母からそうした公共の決まりを教えられなかった。いや、正確に言えば躾られずとも周囲を見て覚えた。第一、身体を拭いてから脱衣場に出ることは脱衣場の注意書きに書いてあった。先の厚手の棕櫚絨毯は、乾燥しているほどにそこに立った時に気持ちがいい。だが、濡れたタオルで身体を完全に乾燥させることは出来ないから、多少は水が垂れて絨毯を濡らす。それでもそれが敷いてあることで、脱衣場全体に敷き詰めてある籐は濡れずに済む。簡単にめくれるものではないから、それが濡れると銭湯の経営者は始末が大変だ。銭湯の思い出ついでに書くと、湯船に入る時は必ずかけ湯をして肛門や性器を湯でざっと洗い流してからと注意書きにあった。ところがこれを守らない大人は現在でも多い。むしろ守るのは老人だけで、ほとんどは服を脱いでそのまま湯船に直行してざぶりだ。TVの温泉特集でも同じだ。俳優たちは下半身を濡らることなく、そのまま浸かりながら熱いとか何とか笑顔で言葉を発する。筆者はそうした姿を見るたびにうんざりする。自分だけの湯船の場合はいい。だが、他人も使うのだ。
●バス・タオルの山_d0053294_8571999.jpg バス・タオルに話を戻す。息子は赤ちゃんの時からバス・タオルを使い続けたので今でもそれが必要だ。そして、一度しか身体を拭いていないバス・タオルをそのまま洗濯カゴに放り込む。家内が洗うが、乾燥機がないため、天日干しでは冬の寒い日はなかなか乾燥しない。そのため、バス・タオルが何枚もたまり、また干す場所にも困る。以前そのことで家内が息子に注意すると、息子は初めて注意されたことに意外な顔をした。そして、筆者が割って入って、自分の行為の始末を誰がどのように苦労しているか、もう少し想像力を働かせと言った。その時初めて息子がバス・タオルを必ず使っていたことを知ったが、筆者のようにタオル1枚を何度も絞りながら身体を拭けば、バス・タオルは不要で、洗濯しなくても済むではないかとも言った。息子にすれば自分が代わりに洗濯すればいいだろうとたんかを切るが、洗濯のための労力と、水道電気代がかかる。それをけちっていると思われるかもしれないが、それが本当の理由ではない。なるべく無駄はしないように筆者の世代は教えられたし、また無駄を省いた合理的な行為はすべて美しいという筆者の信念のようなものから発する意見だ。筆者が仮に大金持ちであっても、無駄と思うことはしない。もちろんこれはわが家のことであって、他人に強いるつもりはない。強いたところで、湯で身体をざっと流さずにそのまま共同浴場の湯船に入る大人は今後もなくならない。ただ、筆者は息子に対して世間であまり恥ずかしい行為をしてほしくなく、筆者のような見方をする大人が一部にしろ存在することを知ってもらいたいのだ。それが家庭の躾だ。息子はバス・タオルでないと身体がすぐに乾かないと言う。だが、そんなことはない。気分の問題の方が大きい。そういう息子の反論に、筆者は昔読んだ開高健の文章を思い出す。ヴェトナムでの経験談だ。そこでは洗面器ひとつで生活する大人がいる。物を煮るのも洗濯するのも、顔を洗うのもみんな同じ洗面器を使う。洗面器は洗えばきれいであるし、何個も必要ない。それを不潔と考える人は、戦後の、しかも昭和40年代以降の、日本が現在のような姿になって以降の、つまりまだまだ歴史が浅い日本しか知らない、あるいはそれ以前の日本に関心がなく、単に不潔で野蛮であった時代とみなし、現在の日本のみを常識と思う、想像力蛾貧困な世代だ。そういう人はたとえば開高や筆者の世代の考えを救いようのない旧世代と笑うだろう。だが、筆者に言わせれば、物が豊富で何でも使い放題の日本に育った世代は、そういう日本がいつまでも続くと勘違いしている点で愚かで悲しい人たちに見える。筆者の息子のように、赤ちゃんの時からの習慣を疑ってみることすら出来ず、バス・タオルの山を洗濯させてそれに気づかない。家にはいつでもたくさんの清潔なバス・タオルがあると思っている。これは想像力の欠如だ。
 もうひとつ書いておく。阪神淡路大震災の時、水道が使えなくなった。どのトイレも雲古が溢れてテンコ盛りになり、当然身体も洗えない。それはまだ我慢出来るとして、髪の毛が臭くて痒くなる。そこで200CC程度の水で洗髪する方法が紹介された。その方法で充分に髪は洗えるのだ。水が不足している世界の地域では、その200CCですらもったいない。もうひとつ書いておこう。禅の修行僧はたとえば食事時にさまざまな決め事がある。食事の後は茶碗一杯の湯で茶碗と箸を洗い、その洗った湯で口をすすいで飲み込む。これで食器の洗いと口の中の洗いが出来る。これを不潔と考える人が、一方で身体や性器を洗わずに共同の湯船にざぶりで、湯船を汚しても平気なのだ。日本の茶の湯でも無駄を極力省く行為が精神の中心になっている。バス・タオルが現在のように大量に使われるようになったのは、アメリカ文化の影響だ。アメリカでは日本のような透明な湯船に身体を浸さない。筆者は経験したことがないが、石鹸で泡立てたぬるま湯に浸かって身体を洗う。そしてそのまま湯船から出て、その泡だらけの身体をバス・ローブやバス・タオルで拭う。つまり、バス・タオルは石鹸の泡が付着する。そういう習慣のない日本がバス・タオルを真似した。身体を洗った後に拭いたバス・タオルは、原理的には雑菌は限りなく少ない。石鹸の泡はひとつもつかず、身体についていた水分を拭っただけだ。それをまたそのまま洗剤で洗うことは、どう考えても合理的とは思えない。確かに一度濡れた布地は雑菌が繁殖するという意見があるだろう。だが、それを言えば洗濯して干したものも乾く間に雑菌が増殖する理屈だ。そこまで雑菌に神経質になっている者が、身体を湯でざっと流さずに湯船に入ったり、風呂に入るのが3日に一度だったりする。髪からゴミの臭いを発散させる若い女性と電車で隣合わせになることはよくある。見れば服装はきれいだ。それにだ。異性とキスをする時、いちいちお互い口の中を消毒するか。つまり、やることに辻褄が合っておらず、まともに考えずに習慣に染まっている。これが恐い。たとぺばザッパはパジャマを着る人間を皮肉った。寝る時にパジャマが必要と思い込むのも意味のない単なる習慣に過ぎない。裸で寝てもよいし、下着で寝てもいいではないか。バス・タオルはタオルや洗剤メーカーの宣伝もあって消費が伸びて来た。快適性、消費、そして清潔は美というイメージが際限なく植えつけられ、無菌状態であることにみんな血眼になっている。そういう無菌を心がけたために息子のアトピーがひどくなった一因があるとさえ筆者は思っている。アトピーがどんな薬をつけても直らないのであれば、今までの習慣を見直して、いっそのこと、不潔と先入観で思っていることをやって見るべきではないか。それがかえってアトピーに効果があったりするだろう。洗面器ひとつで生活したかつてのヴェトナム人にアトピーは無縁であった。無菌に接近した途端に、わけのわからない病気が発生した。まさかと言う人は想像力が欠如している。
 ザッパは洗剤や化粧品に疑問を持ち、それら人間の身体に直接触れるものには、人間の健康を害する成分が含まれていると疑った。実際それは真実で、極力うすめられているから被害が出にくいだけであって、人間にとってはよくない成分が必ず含まれている。そのため、毎日摂取すると、必ず何らかの影響が出て来る。筆者は薬や医薬部外品はあまり信用していない。ここで思い出したいのは、そういう便利で危険なものは、100年ほど前にはなかったことだ。そしてなくても人間は生きて来た。異常なのはこの100年ほどだ。そして、水が豊富な日本では、なおさら日本での現在の習慣が常識であると勘違いする。日本だけが水資源を無駄に使ってもいいのだろうか。「金を払えば文句ないだろう」とか、「バス・タオルを使わないなんて信じられない」とか言う連中は、金持ちぶりながら、心の貧しさ、視野の狭さを晒している。そんな連中とはつきあいはないからどうでもいいが、そういう連中がそうでない人の何百倍もの水を使い、また大量の洗剤を下水に流すことを思うとうんざりする。文句ないと開き直っているあんたのために損をしている大多数がいることを、そのあんたにわからせる方法がないからだ。雑菌を殺すためと言いながら、洗剤汚染で身体がおかしくなる。それに、そんなに雑菌を殺したいのであれば、毎日家中の食器や家具、いっそのこと柱や床も、そして空気も洗えばよい。いいや、それよりいいことは、自分の脳みそを取り出して洗剤に漬けておきな。豊かさを自覚せず、危機意識がまるでない連中は、筆者が子どもの頃はまだ少なかったと思う。それが今では筆者のような人間がケチで不潔だと罵られる。無駄を省いた美など、またそうした意識などは、今ではすっかり忘れ去られ、誰も見習おうとしない。せめて息子にだけはわかってもらいたいが、それが無駄であれば、いずれ自分で頭を打って覚えてもらうしかない。だが、それでは恥ずかしい。いや待てよ。今では恥の意味を知らない若者が大勢いる。道徳を学校で教えなくなってそうなったか。そういう世代を作って来たのがたとえば筆者らの世代であって、結局非は筆者らにあるのだろう。育ちによる習慣の差は世代差と重なる部分が大きいが、金銭的に貧しく育ったので恥の意味を知らないということでは全くない。親から子へとつながる躾が大切だ。だが、いくら親が躾ても、その方法がその子にふさわしくなければ、子に刺されたりもする。これは親の躾以外に、子どもが学校その他の社会で親とは違う価値感に晒され、それに毒されることにもよる。筆者はあまり学校教育を信じていない。学校がなかった時代と現代を比べて、人間の野蛮さが減少し、幸福感が増したとは思えない。筆者は開高健に近い世代のためか、洗面器ひとつで家事全部をこなす生活に感心する。江戸時代の日本もほとんどそれに近かった。「バス・タオル? なんやそれは。手拭い1本で充分や。面倒臭いもんを持って身動き取れんがな。あんたそれ自分で毎日洗うんか。きっとそやないやろ。ザッパの「YO‘ MAMA」みたいなやっちゃな」
by uuuzen | 2010-08-04 08:57 | ●新・嵐山だより
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