港町のシェルブールはフランス北部のノルマンディー地方にあって、人口4000ほどだ。筆者の自治連合会がその倍の8000人であるから、どの程度の大きさかはわかる。

この半世紀の間に減ったかもしれないが、半分になったとしても元来大きな町ではない。「シェルブールの雨傘」は曲だけは60年代から頻繁に聴いてよく知っていた。この邦題は原題の直訳だ。「プリュイ」は「雨」だが、「パラプリュイ(傘)」の「パラ」は「パラボラ」の「パラ」と同じ意味の前置詞のような気がする。この曲を主題歌とする映画を見たのはNHKのTVで、10数年前であったと思う。その時の記憶はかぎりなくモノクロに近いが、実際はカラーだ。公開は60年代末期かと思っていたが、1964年で意外に古い。映画は予想とはかなり違った。このカテゴリーは音楽についてであるので、映画のストーリーについてはあまり触れない方がいいが、少しだけ書いておく。ミュージカル映画で、どのセリフにもメロディがつけられ、主題曲はふたりの別れの時に歌われる。英語で言えば「I will wait for you」という題名で、再会の誓いだ。ふたりはそれを果たすが、意志によってではなく、お互い別の人生を歩んだ後、偶然に出会う。主題曲が物悲しい短調であるところ、悲恋の物語であることは充分わかっていたが、物語の主題は女の心変わりで、それはカトリーヌ・ドヌーヴを起用したことできわめて説得力があり、物語の現実性をなお強調している。シェルブールはフランス人によってどのような印象があるだろう。日本で言えば新潟のようなところか、それよりもっと小さい町だ。田舎町であるから、パリのような華やかさに欠け、人々は慎ましやかに生きているだろう。ましてこの映画は50年代後半が舞台だ。ガソリンスタンドで働くギイという20歳の男と、雨傘屋の娘で17歳のジュヌヴィエーヴは恋をしている。結婚してどんな店を持つか、また子どもの名前をどうするかなど話し合っている。ギイには両親兄弟がおらず、伯母と暮している。またジュヌヴィエーヴには父がいなくて、やはりひとりっ子だ。この設定からもふたりの孤独と貧しさが伝わる。自動車整備工と傘屋の娘の恋愛物語というだけで、あまりに平凡で、映画にする価値があるのかと思ってしまうし、実際筆者はガソリンスタンドで働くという設定に思わず笑った。ザッパの曲に「ガソリンスタンドで働くな」があって、ガソリンスタンドとロマンが仮に結びついても、高雅な物語にはならないと思うからだ。
だが、男は平凡でも、女は稀に見る美人だ。パリ中を探してもいないほどのびっくりするほどの美人が田舎町に住んでいる。そういうことは実際にある。この映画を見て誰しもそう思うはずで、ジュヌヴィエーヴがギイの妻にすんなり収まるとはとても思えない。それにはふたつの意味がある。あまりの美人であるためにギイにはもったいない。またカトリーヌ・ドヌーヴという、清純さと同じほど魔性を持った雰囲気の女性は、純真な恋愛をしても、その一方で奔放さから心変わりも早いであろうという見方だ。ジュヌヴィエーヴは母からまだ結婚は早いと諭されるが、ギイが徴兵され、2年の間、アルジェリアの戦線に行くことになる。別れを惜しむふたりは結ばれ、そしてジュヌヴィエーヴは子を宿す。その後ふたりは手紙をやり取りするが、傘屋の税金を捻出するためにジュヌヴィエーヴ親子が宝石を売りに行った時、中年の紳士がそれを見て買い受けを申し出、しかもジュヌヴィエーヴを見初める。そしてふたりは結婚してしまう。ジュヌヴィエーヴは経済的な不如意から身を売った形だが、ギイから手紙が滞っていたことも原因だ。ギイと別れて半年かそこらで他の男と結婚するのであるから、何とも心変わりが早いが、17歳の半年は40代、50代の2、3年に相当するだろう。別れの時にあれほど待つわと言ったジュヌヴィエーヴなのに、言い寄られると弱かったか。それが女というもので、そう責めることも出来ない。17歳での恋がむしろ盲目過ぎて、2番目に出会った宝石商が大人びて見えたとしても仕方がない。また、20歳と17歳の結婚が早いか遅いかと言えば、映画でも描かれるように、50年代のフランスでも早かった。だが、身内の少ないふたりであり、これはよく理解出来る。さて、ギイは足を負傷して復員する。すでに傘屋はない。またすぐに伯母が息を引き取り、その遺産で念願のガソリンスタンドの経営を始め、また伯母の面倒を看ていた目立たない若い女性と結婚する。ジュヌヴィエーヴはパリに住み、もはやシェルブールに戻って来ることはないが、たまたま夫の仕事の関係でシェルブールを通ることになった。4年後の雪の降るクリスマスの夜だ。ギイの妻と息子は買い物に出かけていない。ガソリンスタンドにジュヌヴィエーヴと娘を乗せた夫の運転する豪華な車が入って来る。ギイは座席にジュヌヴィエーヴを認める。またジュヌヴィエーヴの夫はギイが娘の父であることを知らない。ギイは給油中にジュヌヴィエーヴを建物の中に招き入れる。月並みな会話しか交わさない。ジュヌヴィエーヴはギイから娘の名前を訊ねられた後、娘を見るかと聞き返す。ギイは首を振らない。そしてジュヌヴィエーヴはまた車に戻り、そのまま去って行く。ガソリンスタンドという設定がおかしいと先に書いたが、この物語ではそうあるべきだ。でなければギイとジュヌヴィエーヴが再会出来なかった。また、シェルブールという港町からすれば、ガソリンスタンドは現在の港だ。車が絶えず燃料補給にやって来る。
ジュヌヴィエーヴはすぐに心変わりする浮気女と見ることも出来るが、娘にはギイと決めたかつての名をつけた。またギイも息子に同じ名をつけた。そのことはお互いの配偶者は知らないふたりの秘密だ。戦争と貧困から別れなければならなかったふたりは、50年代後半から60年代前半の世相をよく反映している。それに、もうひとつ思うことは、女は美しく生まれると、それ相応の身分の変化が待っていることだ。男は美人を放っておかない。そして男の力は社会的な地位や経済力で決まるから、ガソリンスタンド経営のしがないギイではジュヌヴィエーヴは高嶺の花であり過ぎた。映画を見る人はそう納得するだろう。だが、もちろん現実は例外がたくさんあって、こんな安っぽい店になぜこんな感じのいい女性がといった不思議はよくある。そのことは、常に美人が収まるべきところへ収まっているとは限らない現実を伝え、またそこから物語の想像の働く余地がある。つまり、筆者が掃き溜めに鶴といった女性を見た時、誰かも同じことを思っていて、いずれその女性に声をかけてその女性の運命が変わって行くこともあるかもしれない。こう言えば音は常に美人を探しているかのようだが、実際そのとおりだ。びっくりするほどの美人は数年に1回も見ないが、そういう美人がいることはよく知っているし、そういう美人を見たという記憶は何年も記憶される。ジュヌヴィエーヴはそういう稀な女であったと考えれば、この一見残酷なような悲恋は、全く妥当な話に思えて来る。美人を嫁さんに持つと、浮気されればどうしようかと心配で、男は仕事に行っている気分になれない。そのため、美人は家庭に収まっても王女にように豪奢に暮らす身分に収まるのがよい。そういう立場はいつ崩れるかわからないが、崩れても駄目になる男とは違って、女は美貌でまたどうにか世をわたって行く。そういう真実のひとつの見本がジュヌヴィエーヴということだ。
さて、なぜこの曲を採り上げる気になったかだが、採り上げるべきレコードの束の一番上にたまたまあったからで、また猛暑ではあるが、傘を持って出ないといつ雨が降るかわからない毎日で、傘に目が行くこの頃であるという理由による。「シェルブールの雨傘」がさまざまな人が演奏しているはずで、筆者がラジオでよく耳にしたのは誰の演奏かと思う。今手元にあるシングル盤は定価370円の表示で、これは初版であろうか。ジャケットの印刷がカラーで、65年か6年頃の雰囲気が強いが、64年でもおかしくはない。A面が歌入りで、B面は演奏のみだ。歌は男女のデュエットで、映画の役者とは別人が吹き代えた。カトリーヌ・ドヌーヴの顔とはあまり合わない声で、そこに違和感があった。ミュージカル映画ではないが、若い男女の恋物語の映画は、この映画より4年後の68年に『ロミオとジュリエット』があった。ニーノ・ロータ作曲のその映画音楽も大ヒットし、面白いことにそのレコードの最後にはロミオとジュリエットの会話が少し収録されてフェイドアウトする。これは「シェルブールの雨傘」の歌ヴァージョンと同じくサウンドトラック盤で、映画のフィルムから音源が抜き取られたからだ。サウンドトラック盤とはいえ、本物のフィルムに焼きつけられた音のあまりよくない音源から複製したレコードではなく、その焼きつけ前のきちんとした録音テープからレコードを作ることもあったようだが、この当時は音源の空輸が大変なこともあって、日本でフィルムから音を抜き取ってレコードを作り上げることが多かったと思う。『ロミオとジュリエット』の主題曲のシングル盤もそうで、そのために男性による高らかなヴォーカルの後にロミオとジュリエットの会話が切れ目なく続いた。話を戻すと、ドヌーヴはこの映画以降、多くの作品に出る。何の映画か忘れたが、素っ裸になって全身を見せるものもあった。陰毛の箇所は消されていたが、今ではそうではないフィルムもOKだろう。女優は陰毛を晒しても平気というほどの覚悟は必要で、それはドヌーヴの場合はさらに似合っている。それほど根性が座っていると言うか、魔性の女という雰囲気がある。ミュージカルは現代のオペラと言ってよいが、市井の若者を描くこの映画で思い出すのは、現代版の『ロミオとジュリエット』として知られる『ウエストサイド物語』か。そうしたアメリカの動きを見つめながらフランス的な大人の恋愛ものをということで製作されたのだろう。音楽はミシェル・ルグランで、彼の最大のヒットとなった。

ミシェル・ルグランはピアニストとしても活動し、ジャズ畑でレコードを残した。グルダと共演したこともあるというが、いかにもヨーロッパでジャズをやる人というところがある。この映画から9年後の1973年12月8日にニューヨークのジミーズというライヴ・ハウスで有名ジャズ・メンと演奏した時の収録盤がある。このほかにもアメリカでは演奏したが、売りになったのはやはりこの映画の挿入曲だ。ジミーズでのライヴ盤では、A面最初とB面最後がこの映画の曲で、B面最後の方が誰しも知るこの映画の主題曲で、タイトルは「I will wait for you」となっている。このLPはいかにも73年のジャズという雰囲気で、当時ザッパはジャズは臭っていると言ったが、その意見を分析するのにいい材料にもなっている。だが、ミシェル・ルグランのこのライヴ盤はなかなかよい。フュージョン全盛時代のひとつのスイング系のジャズの方向を表わしており、それがフランス人がリーダーになったことで成功していると思える。アメリカのジャズはフランスで多いに歓迎されたが、フランスから得たものもあったということだろう。「I will wait for you」はこのアルバムではどちらかと言えば異質だが、それだけにまた光っている。アメリカにはあまりない表現であるからか。それに映画のサウンドトラックでは男女のデュエットかオーケストラ演奏で、それらはやけに湿っぽいが、ルグランが演奏するジャズではその主題を用いながら、全然別の雰囲気に仕立てていて楽しい。主題は16小節で、ブルースと同じであるため、当然即興演奏部分が聴きものだ。短調(C)でしかも転調をしばしば繰り返すので、それなりに変化に富むが、1回目に聴いた時は衝撃的でも何度も繰り返し聴くには展開が見え過ぎて単調に感じる。それはあらゆるジャズのひとつの限界と言えばおおげさだが、16小節のメロディをさまざまに変化させることに限界がある、あるいはルグランの才能がそうであると言い換えてもいいかもしれない。ルグランのコンボは主題の演奏の後、その16小節を7、8回ほど繰り返して即興演奏する。最後はタンゴ、その直前はワルツ風といったように、リズムに変化を見せ、16小節からいかに多様さを紡ぐかを試みる。それはある意味では当時のザッパに通ずる手法で、ルグランの豊かな才能を感じさせる。そういうルグランがこの映画の最も悲しい箇所で、最も印象深いメロディを書いたことはさすがの才能で、そのメロディの源にどんな参考となる祖形があったのかと思う。つまり、何から学んだかだ。
メロディはハ短調の音階にぴたりと収まらない。そういうことはよくあるし、またそのはみ出た音が曲を印象づけるが、そうしたメロディは民謡など、おそらく自国の古い伝統的かつ素朴な歌に見られるものではないだろうか。ノルマンディー地方の民謡がどんなものであるか知らないが、ルグランのことであるので、そうした研究も含めて旋律を書いたと思える。何もないところから一世を風靡するものは生まれない。この映画、この映画の主題曲が世に歓迎され、長く記憶されるのは、それがどこかで伝統に密接につながっているからと思える。また、そうした要素はアメリカの黒人に求めるのは無理な話で、ヨーロッパのそうした遺産がジャズに流れ込んで多様化させたとも言える。その部分をザッパがどう思ったかは興味深いが、ザッパの音楽もヨーロッパの、そしてラテン民族の血筋を引いているから、ある意味ではルグランの才能と重なるところがある。ザッパはムード音楽を嫌ったが、この映画音楽がムード音楽のジャンルに含まれるからつまらないものと考えるのはあまりに単純で思慮が浅い。実際ルグランはジャズにアレンジして自分で演奏しており、それは場合によってはロックにもアレンジされ得たはずで、その独特の旋律はムード音楽やメロドラマの範疇を越えたところに立っている。実際、ある旋律が悲しく聞こえるとか明るく聞こえるということは、聴き手の思いひとつによるのであって、短調であるから物悲しいと決めつけるのは禁物だろう。ましてやある調性に収まらない音をいくつも含む旋律となると、もっと気分は複雑になる。「シェルブールの雨傘」の主題歌は語るように歌うというフランスのシャンソンの伝統に則ってもいる。そして、ごく自然な恋するふたりの別れの気分を切々と表現していて、これはルグラン個人の経験が大きく反映した結果ではないか。そうしたいくつもの重なりがあって世界的に有名になる作品が生まれる。