都会と聞くと、その反対を田舎と思いがちで、この映画の邦題はあまりいいとは思えない。『不思議の国のアリス』の主役のアリスは田舎娘的な雰囲気はなく、都会のセンスのいい、洒落た女の子のように挿絵では描かれている。
ヴェンダースのこの映画は世界的に有名なその小説をもじって、年齢的に似た10歳ほどの女の子を登場させている。その点は、開高健が書いていたように、子どもの出る映画は手法としては卑怯で、評価したくないという思いを持たれるかもしれない。子どもが重要な役で登場する映画は、そのかわいらしさを見せることが目的となる場合が多い。あるいは、ある特定の色合いを帯びることが多く、大人が見る映画としては除外したくなることは理解出来る。とはいえ、子どもの純粋さを描く映画は多いし、日本では特にそれが人気を博すると思える。そんな趣向にこの『都会のアリス』もかなっていたと早々と断定するのはあまり当たっていないが、女の子を老人の男性に置き換えればこの映画は現実離れし、また魅力のないものになった。明らかにヴェンダースは、かわいい女の子を登場させることで映画を見る者を視覚的に楽しませることを目ろんだ。話を題名に戻すと、ドイツ語の原題は『Alice in den Staedten』で、「Staedt(シュタット:街)」が複数形になっている。このことを邦題に匂わせれればよかったが、名詞に複数形のない日本ではそれが難しい。「街」が複数形であることは、この映画の重要な、いや中心のテーマであって、複数の街が映し出されることを最初から表明し、それを売りにもしている。「街」が単数の『Alice in der Staedt』であっても邦題は同じ『都会のアリス』になったが、若い頃のヴェンダースは貪欲で、ひとつの街の静的に居住するといった性質ではさらさなく、ドイツを出てアメリカの街を片っ端から見てやろうという動物としての、また男性としての本能丸出しのところがあった。もちろんそれはすべて映画を撮るためで、そのネタ探しの面があっただろう。それに、映画は世界中に公開される可能性があり、ひとつの映画の中にひとつの街だけではなく、映画で外国のさまざまな景色を楽しみたいという平凡な人々の欲求に応えるためにも、多くの国や街が登場する方がよい。それにより多くの国や街を知っておくのは監督業としては当然の心構えだろう。
「シュタット」を「都会」と訳すのは間違いではないが、田舎の街でも「シュタット」だ。その点で誤解を与えかねない。この映画では大都会よりも地方都市がよく登場し、またそのことがこの映画に忘れられない魅力を付与している。筆者がこの映画を見たのは京都のドイツ文化センターで、正確な年月を忘れたが、80年代で、ヴェンダース特集中の1本であった。その時、デビュー作から中期までが上映され、ほとんどを見たが、その中でもう一度見たいと思ったのがこの映画だ。DVDも出ているようだが、安価な中古ビデオを入手した。ところが元のフィルムのうち、あまり状態のよくないものからビデオに複製したもので、雨降り状態の劣化が目立ち、また数秒の空白や、繊維質の大きなゴミが画面端に出ることもあった。商品としてそういうことが許されることが多少信じられないし、またヴェンダースがそういう商品をよく許可したと思うが、いかにもアナログ時代の映画館そのもののようで、この映画が撮られた1973年がいかに歴史的な時代になったかを感じさせて面白かった。もちろん当時以前の、60年代の音楽でも、今はデジタル・リマスター化されるなどして、音質が著しく向上しているから、この映画もDVDはもっとクリーンな画面になっているだろう。それはそれで見たい気もするが、73年という時代を知っている筆者は、古いアナログのままでかえって現実感が伴なっていると思えるし、また現在見ているTVもまだ箱型のアナログだ。それはさておき、買ったはいいが、なかなか見る機会がない。これは時間がないと言うよりも、見る気になれないのだ。CDでも本でも買ったままになることがよくある。本は比較的長時間かかるので、CDよりさらに買ったままになることが多いように思われるが、案外そうではない。また本は1回読むだけだが、CDは何度か聴くから、なおさら気軽に聴けばいいと言えるが、最初の印象が大事なのだ。それを思えば、「ようし聴くぞ」という腹のくくり方のようなものが湧き起こる必要がある。ところがそれはかなりエネルギーがいる。で、この『都会のアリス』もそのまま何年も経ってしまいそうであったのが、先々週の日曜日に見た。その日は暑いこともあって美術館巡りをする気になれず、家にこもってだらだら過ごすことにし、家内が何かTVで見ようと言った。そこで真っ先に思い出したのがこの映画で、ブログの第3週目、つまり今日という長文日のネタにもいいと思った。
この映画をもう一度見たかったのは、ヴェンダースの映画で最も印象に強かったためだ。また、そうしたシーンはいくつかあった。その中で最もよく記憶するのは、主役の女の子がかつて何度か行ったことのあるドイツのとある街にある家おばあさんの家だ。その家の写真が画面いっぱいに映る場面がある。この映画は白黒だが、その家の写真が白黒であったかどうかはわからないものの、白黒でこの映画に映ったことが、この映画を夢の中の出来事のように鑑賞者に思わせる効果を上げている。その家はドイツの地方都市の田舎ではかつてはよくあったものらしく、そのことは映画に登場する人物のセリフからわかる。がっしりとした、いかにもドイツの古風な貫禄ある家で、ヴェンダースの好みなのだろう。この家を写真を手がかりに女の子を車に乗せて探す男がもうひとりの主役だ。紆余曲折がありながら、家は見つかる。その時もう一度写真が映り、実際の家も映る。ここで鑑賞者はひとつの安堵を覚えるが、映画は期待をすぐに裏切る。その家にはもうおばあさんが住んでいない。代わりにイタリア人の太った中年女性が玄関先に出て来るところが遠目に映るが、そこは筆者は記憶していなかった。記憶していたことは、女の子を親元に返すために女の子と男が車で行動をともにしながら、それが全く当てのない旅のように思え、またそのこと、つまり次から次でと見知らぬ街が映って行くことが、筆者がよく見る夢と似ていることであった。ヴェンダースはそういう効果を最も狙ったのだろうか。ロード・ムーヴィーと言って、脚本はあるものの、それに厳密に沿わず、ある程度行き当たりばったり的にカメラを回すという手法をヴェンダースは好み、その当てのなさのような、出たとこ勝負を地で行くような生活をしている男が、女の子と出会って行動をともにし、もうひとつの出たとこ勝負の旅をする羽目になるところがうまく描かれている。こういう男はいるだろうし、またこんな経験はするだろうなといった、現実感がそこに伴なう。ロード・ムーヴィーの面白さは記録映画的なそんな側面だ。だが、ドキュメンタリーではないから、行き着く果ては周到に計画されている。その記録映画的なフィクションという点が、人が眠っている時に見る夢と似ていると思える。夢には実際にあったことではないが、実際の人物や場所が出て来るからだ。そして、もっと言えば「おにおにっ記」もロード・ダイアリーで、夢のようなところがあると思う。
話が前後するが、男はドイツ人ジャーナリストで、アメリカの西海岸からニューヨークまで車で走りながら、ポラロイドカメラで気になったものを写真に撮っている。ニューヨークに着いて会社に駆けつけると、アメリカをテーマにした紀行文が出来たかと言われるが、写真ばかり撮っていて、さっぱり書いていないことを告げる。それでは駄目だと言われ、また資金も底をついたので、車を売ってドイツに帰ろうとする。車でアメリカを横断する男の行為はヴェンダースの経験と思わせるが、それが正しいかどうかはわからない。ニューヨークからドイツへ飛ぼうとすると、便がないと言われ、オランダまでならどうにかなることを男を知る。そして同じドイツ人で、女の子を連れた女性と出会う。その女性は男と別れてドイツに帰ろうとしている。最後にもう一度男と話し合いをしてから帰国することにし、帰るまでの間、女の子を預かってほしいとの手紙を残して女はホテルを去る。ところが女は現われず、男は女の子と一緒にオランダに飛ぶ。そこからが映画の本編と言ってよい。女の子と一緒にオランダに降り立った男は警察に赴いて女の子を保護してもらおうと相談するが、女の子はおばあさんの家に連れて行ってほしいと言って写真を示す。それがどこの街にあるかがわからない。男はロッテルダムを周るがそこではなく、ドイツの街だと女の子は言う。Aから順に都市の名前を言い、女の子は男がヴッタパールと言った時にそこだと言う。この映画でもうひとつよく記憶していたのは、このヴッタパールという街で、世界的にも珍しい客車が吊られたモノレールが走っている。ヴッタパールで即座に思い出すのはピナ・バウシュで、彼女の舞踊団の本拠地となっている。男と女の子はそのモノレールが走るすぐ下の小さなホテルに投宿する。そこは今はもっと開発されてもう当時の面影はないと思うが、モノレールそのものは変化がなく、観光に訪れたい場所だ。ヴェンダースはそんな観客の思いを掻き立てるためもあって、ヴッタパールをロケ地に選んだのであろう。ロード・ムーヴィーは景色を楽しむことが出来る点がよい。ただし、観光案内映像が映し出すようなきれいな映像ではなく、物語を主とし、その背景にうまく独特の景色の面白さを潜ませる。
女の子はなかなか活発で、ごく自然に振る舞う。また、時に大人の女性に思える瞬間もあるほど堂々としている。その女の子も今は50歳ほどになっている。時代を感じさせるのは、たとえば男のズボンだ。裾が広がって少し丈が短く、それは当時世界的にはやった。もうひとつは音楽だ。ジュークボックスが映るシーンがあって、そこで女の子と年齢が釣り合うような少年が身体を揺すりながら曲を聴いている。キャンド・ヒートの「オン・ザ・ロード・アゲイン」で、これは映画の筋にそのまま沿った選曲だ。同曲がシングル・カットされて当時人気があったのかどうかは知らないが、映画ではかなり長く演奏され、ジュークボックス向きではないように感じられた。もう1曲はチャック・ベリーが登場することだ。これは男が女の子をひとりホテルに置いたままロッテルダムの警察に行った後、街角でポスターを見てライヴ会場を訪れる。それはヴェンダースがたまたまオランダでロケしている時に遭遇したものではないだろうか。どうして許可を取ったのか知らないが、チャック・ベリーの真っ黒な顔が画面いっぱいに映り、いかにもギターを演奏しながら歌っている様子が伝わる。また、数ある演奏の中から「メンフィス」を選んだのは、その曲もまたアメリカの各地を歌い込む点でロード・ムーヴィー的であると考えたからだろう。この曲を73年に聴くことはすでにかなりの回顧趣味で、73年の映画にはそぐわないところがあるが、ロックに敬意を表してのことか。この曲はビートルズがラパートリーにしたことでもよく知られる。チャック・ベリーは1926年生まれであるので、73年は47歳であった。その頃、ヨーロッパで演奏することがあったのだ。今年は84歳で、アメリカ在住の大西さんが先月持参してくれた資料に、去年12月31日のライヴ演奏を告知するはがきがあって、まだ元気に演奏していることがわかる。ロックは長寿にいいということか。この映画にはさまざまな映画から学んだ手法が活かされているだろう。筆者にはあまりそうしたことがわからないが、今回見て思ったのは最後の場面だ。男は少女を連れて母親とおばあさんが待っている街に電車で向かう。男が車窓に見え、やがてカメラはヘリコプターを使ったのか、どんどん電車が遠のく。これと全く同じ手法は『夜の大捜査線』の最後のシーンにあった。ヴェンダースがその名作を見たことは確実だ。わずかな場面であっても、こうしたお金をかけたこだわりは、映画の各場面を吟味する人にはよく伝わり、そのことがお金をかけただけの成果となる。ロード・ムーヴィーは自動車で移動しながらとばかり思っていると、この映画では空を飛ぶ、あるいは船を使うことも効果的に行なわれている。筋としては別段どうってことのない作品だが、不思議な記憶を留めるところがある。それは見る人によって箇所が子鳴るだろう。大半を忘れていた筆者だが、二度見たことによって、鮮明になった場面が多かった。夢とは違って映画は同じ場面を何度も見ることが出来る。その点で映画は夢とは違ってつまらないと言える。何事も一度限りの魅力に勝てない。