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●『シュルツェ、ブルースへの旅立ち』
今年と来年は『日本におけるドイツ年』ということでたくさんの文化的催しが各地で開催されている。美術展についてはこのブログですでにふたつ採り上げた。関西では未公開映画が『映像の新しい地平』と題して文化博物館で4日にわたって上映されるというメールを以前京都ドイツ文化センターから受け取っていた。



それで上映日をにらんでチケットを入手した。チケットといっても文化博物館に入ると常設展示のひとつとしての扱いで映像ホールに入れるから、なるべく特別展示期間に合わせて映画を観る方が得で、いつもそうしている。そして今回のドイツ映画上映に合わせて開催されている特別展は書いた『京の優雅展』であったからちょうどつごうがよかった。というのもドイツ映画の上映がなくてもその展覧会は観るつもりであったし、そうなると1枚のチケットでふたつの催し物が楽しめて一石二鳥だったことになるからだ。映像ホールは上映20分前に扉が開く。それまでに展覧会を観るには30分しかなかったが、どうにか定員100名ほどのホールに座れた後、椅子に荷物を置いて席を確保し、上映までの間に『京の優雅展』の残りの展示を観た。上映ホールと同じフロアにも『京の優雅展』の展示があったことは知らなかったが、ホール入口で係員から展覧会の第2部の展示があることを知らされた。ま、それはいいとして、映像ホールはいつもほぼ満員になる。大体中年から老年の人がほとんどで、しかも京都市が老人に出している無料パスを利用してやって来る人がかなりいて、そうした人は映画に興味があるのではなくて、たいていは映画が始まると間もなく鼾をかき始める。空調が利いていて2時間ほど眠れるのであるから暇潰しには申し分ない。そうした人がわれ先にとホールに入るので、制限人数から漏れる人もあると思うが、何しろ早い者勝ちの席取りゆえ仕方がない。このホールではほぼ毎日、文化博物館が所有する往年の邦画が昼と夕方に2回上映し、ちゃんとチラシの資料も用意されているから、映画ファンには願ってもない施設だ。その割りにはあまり知られていないようでもったいない。先月だったか、森繁久弥の『夫婦善哉』をここで観たが、同じ映画が近々大阪九条のシネ・ヌーボーで上映されると新聞で紹介されていた。わざわざ遠方の映画館まで足を運ばずに、映像ホールだけの入場ならば常設展示料金の500円で観られるから、上映予告表を注意し追っていると思わぬ掘り出しものに出会える。
 また前置きが長くなってしまった。このホールにやって来る定年退職後の暇を持てあます人々にとっては身につまされる映画がこの『シュルツェ…』であった。4本観るには毎日出かける必要があるが、その時間もないので、半分は観ようと考えて、もう1枚チケットを入手している。今から行って5時の上映分に使用しようか、あるいは明日の最終日に使うか、こうして書きながら迷っている。雨がひどく降っているので今から出かけるのも億劫だが、まだ間に合うかという気持ちもある。一昨日もらって来たチラシを見ると、4本の映画の簡単な内容が書いてあって、それを読んで観たいものを決めるのもいいが、読んでもあまりイメージが湧かず、結局適当に決める。この『シュルツェ』はタイトルが『ブルースへの旅立ち』と続き、音楽に出会う旅を描いたものだなと判断して迷わず観ようと決めた。監督も俳優も全然知らないが、それでもかまわない。いや、むしろそうした未知の映画に接する方が楽しい。さて、なかなか話が前に進まないが、『シュルツェ』を観ながら、ヴェンダースのロード・ムーヴィーを思い出した。どこにでもあるようなドイツの田舎の風景がふんだんに映し出され、それが物語以上によかった。そうした風景描写によって、映画を観る者は国が違えどもどこでも同じような人間が同じように生きていることが実感出来る。映画の筋書きとはほとんど直接には何の関係もないようなそうした風景映像の挿入は、映画を後から思い起こす重要な引き金になる。あるいはむしろそうした断片映像だけが異様に鮮明に脳裏に長く記憶される。そしてそれら断片映像をしかるべき位置にうまく挿入している映像の編集の妙が感じられるほどに筆者にとってはよい映画となる。つまり、映画は筋書きだけではないのだ。物語の進行や結末だけが重要ならば、カメラマンの腕や監督がこだわって風景を撮るとことの意味はほとんど無視出来るほどに小さなものになる。2時間は映画としては長い部類に入るが、その間の時間を退屈させないように映像を編集するためには、先が見通せないような筋書きと、筋書きにはあまり関係のないような映像をところどころに挟むことで、ちょっとした意外性のようなものを観る者に感じさ続けるといった工夫がいる。後者の例としてはこの映画の舞台となった山岳地方の風景が絵はがきのようにいろいろと切り取られてスライド・フィルムを見るような感じで挿入されていたが、そうした断片映像は筋書きには直接は関係しないが、みなよく生きていて、この映画には欠かせないある種の詩情といったものを添えていた。『シュルツェ』は110分の映画だが、退屈なシーンは皆無であった。それは目まぐるしく話が展開するからという理由ではない。むしろ淡々と話は進み、一旦その感覚に浸るとそのままゆったりと映像に気持ちを委ねることが出来る。
 以上まで書いてやっぱり文化博物館に出かけた。そして5時から『ヒランクル』という映画を観た。これについてはまた機会があれば書きたい。さて、チラシによると『シュルツェ』の監督ミヒャエル・ショルはドキュメンタリーばかりを撮っていた人で、この映画が初めての創作映画とのことだ。この映画を見て最初から気がつくことだが、カメラの長回し、映像撮影に音声を同時録音するというこだわりは、ドキュメンタリー映画で培ったものをそのまま用いているわけだ。そしてこの映画がほとんど作り物という感じがせずにじっくりと腰を据えて実在の人物の生活を撮ったように見えるのも、ドキュンタリー手法の応用による成功と言ってよい。同じような感覚は初期のヘルツォールの映画にもあるが、ニュー・ジャーマン・シネマのさらに新しい波としてショル監督といった若い世代が出て来ていることがわかる。書き忘れたが監督は1965年生まれであるからヘルツォークなどとは四半世紀の年齢差があって、完全に次世代ということになる。ヘルツォークやヴェンダースの築いたところを受け継ぎつつ、この若い世代の監督がこの映画で何を言いたかったかは、『Schultze Gets the Blue』という原題からいろいろと穿つことが出来る気もするが、ドイツ人がアメリカ的なるものに憧れてそのルーツを探るということ自体、いかにもヴェンダースのやったことの焼き直しであるような気がするし、主人公のシュルツェが結局ミシシッピー川(と思う)をどんどんボートで遡上して黒人に出会って行く筋書きはヘルツォークが何度も繰り返し描いたことそのままに見える。また、フィンランドの『レニングラード・カウボーイ』のシリーズ映画を思い出す人もあるだろう。そうしたかつてのニュー・ジャーマン・シネマや音楽をテーマにして大ヒットしたヨーロッパ映画のの蓄積を土台に、ショル監督が今後どのようないい作品を撮って行くかはわからないが、シュルツェ役の俳優ホルスト・クラウゼを長年待って使ったという芯の入った根気を見れば、なかなか腰を座ったところがあって、かなりの期待が持てる。このクラウゼが案外ブルーノ・ガンツのような有名俳優にならないとも限らない。また映画の原題が英語で、しかも映画の後半がアメリカのロケであるので、映画冒頭の『パラマウント・クラシックス』のロゴは意外でもなかったが、それは配給元を最初から駆け合って撮影されたことを思わせ、その点は戦略的にもなかなかのものを感じさせる。ドイツ人が作った映画だが、視線はアメリカを向いているという描き方であればアメリカの映画会社は援助を惜しまないだろう。ヘルツォークがなかなかヒット作に恵まれない状況を考えると、これは新しい方策かもしれない。だが、ヘルツォークがヴェンダースとは違ってアメリカに興味を抱くことは考えられないが。
 映画の結末は多少予想外のもので、いささか不満が残ったが、映画をドキュメンタリーではなくファンタジーとして考えるならばどのような結末を観る者が勝手に変更して想像することも許されるし、この映画の結末もそうあるべきものでもないと思える。ショル監督は旧東ドイツのポツダム出身で、これはベルリンから少し西南の街だが、主人公クラウゼも東ドイツ出身で、しかも映画の舞台となったザクセン地方はさらにその南200キロほどであり、監督としては自分の縄張りの範囲で映画を撮ったことになる。それがよい結果をもたらした。先に書いた風景描写にはどことなく愛情がこもっているように思えたからだ。簡単に筋書きを書こう。プラチナを産出する鉱山麓の家に住む坑夫シュルツェは、太鼓腹をした中年だが、友人ふたりとともに中途退職させられる。ふたりの友人とは違ってシュルツェはひとり住まいで、趣味は釣りとアコーディオンでポルカを演奏することだ。退職してからは友人と飲むばかりの日々だが、ある日ラジオから流れる耳慣れない音楽に耳をそばだてる。それは素早いテンポのダンス音楽であるポルカと同じだが、演奏の合間に黒人のかけ声がよく響いている。つまらぬと思ってスイッチを切るがすぐにまた気になってスイッチ・オン。そしてまたスイッチを切ってからはすぐにアコーディオンでそのメロディを奏でてみる。それからは毎日そのメロディが頭から離れない。ポルカを演奏していてもいつの間にかそのメロディを奏でている始末。とうとう精神科医に自分はおかしくなったのではと相談するが、反対にそれはまだまだ精神が若い証拠と励まされる。しかし保守的な田舎町のこと、友人のほかは誰もシュルツェが新しく興味を持ったメロディに関心を示さず、黒人の音楽だと揶喩される始末。シュルツェはその音楽を生んだアメリカのルイジアナに行きたいと思うようになる。そしてお金を貯め始めるがうまく行かない。そうこうしているある日、町から姉妹都市提携を結んでいるテキサスへ音楽使節をひとり派遣する話があってシュルツェが選ばれる。シュルツェは父親もアコーディオンの名手だったのだ。そして憧れのアメリカ深南部に到着するところから物語の後半となる。この後半はプロの俳優をほとんど使わなかったそうで、そこにもショル監督のドキュメンター作家としての手腕がよく発揮されている。ミシシッピー川の描写はまるでマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を観るようで、映画もその小説同様、どのように展開して行くのかとスリルがあってよかった。
 シュルツェが一瞬にして感得したアメリカ黒人の音楽はブルースなのだが、映画ではその曲がさまざまに編曲されてしつこいほどに使用されていた。オリジナルらしき古い録音も20秒ほど流れたが、誰の曲かはわからない。オーケー・レーベルにあるような古いブルースであるのは間違いないが、シュルツェがラジオから聴いたのはブルースというよりアイリッシュのジグのような繰り返しの多い単調なメロディで、ブルースと言うにはまだブルース特有の半音の味を利かせたメロディではなかった。もっとも、その同じメロディを黒人のフィドラーがボール・ルームの入口前で夜にひとりで演奏するシーンがあって、そこでは最後に少々いかにもブルースに変調していたのが印象的であった。ブルースのルーツやその変遷の歴史を辿る映画でもないし、シュルツェがそのことに興味を抱いて行動しているのでもないが、映画を観る者にすれば、シュルツェがラジオで出会ったメロディがいったいどこから出て来てどのような影響でそうなったかには少なからず興味は湧く。先にアイリッシュのジグと書いたが、アメリカの歴史を考えるとそのようなダンス音楽が黒人音楽に流れ込んでいるのは当然であるし、シュルツェがおやっと思った音楽がブギウギではなくて、そうしたもっとヨーロッパ的なものであったとするのは、なかなか映画としては読みが深いように仕組まれている。映画のタイトルからすれば、シュルツェはポルカとは正反対のイメージである悲しいブルースに魅せられたように思ってしまうが、実際はそうではなくてポルカのアメリカ黒人版のような明るい音楽であって、そのことがこの映画を全体としてからりとしたものに仕立てあげることに大きく貢献している。仕事を奪われた哀れな独身男がブルースを求めてアメリカにひとり行くという話はそれだけでもどこか物悲しいものがあるが、映像ホールの中で鼾をかいて寝入っている多くの老人たちとは違い、シュルツェには音楽のたしなみがあって、それがせめてもの生活上の張りになっているという設定は、人生前向きを示して、筆者にはとても好ましいものに思えた。そうした設定ないし筆者の読みを青い感傷と言ってしまえばそれまでだが、人間はいくつになっても生きるうえで何か勇気の原動力になるものを持つ必要がある。それがアルコールだけになってしまえば、それこそシュルツェの太鼓腹オンリーで夢も希望もなく、したがってこうした映画の主人公が作られることもない。ショル監督がもっと年齢を重ねてこの映画を撮っていたならば描き方がもっと違ったかもしれないと思わないでもないが、それでも全体としては同じトーンで編集したことだろう。筆者が一番感動したのは、町の音楽祭でシュルツェがひとり舞台に上がってみんなの前が1曲披露する時のことだ。直前まで迷った挙げ句、やっぱりラジオで知ったブルースを演奏するのだが、カメラは最初アコーディオンを抱くシュルツェの左後ろから写し、少しずつ横に寄って最後はほとんど前からアップで捉える。その間ノーカットだ。画面いっぱいになったシュルツェの顔は真剣で、自分が好きなものを演奏しているという自信がみなぎって見えた。それこそショル監督の言いたかったことではないか。人間、自分が好きだと思えることが出来るのが一番幸福なのだ。だが、それを見つけられる人とそうでない人がいる。シュルツェもショル監督も前者であることは言うまでもない。
by uuuzen | 2005-07-02 23:40 | ●その他の映画など
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