清水寺を少し下がって北の円山公園に向かう坂を下りたところに清水三年坂美術館がある。出来たのは10年ほど前だ。チラシを見て知っていたが、京都市内に住んでいても盆地の反対側の清水寺界隈まで行くことがなかなかない。
それが今年の1月、東京のSさんと一緒に初めて訪れた。Sさんは3か月ぶりに京都に来たのだ。文化博物館で待ち合わせをし、そこで展覧会をひとつ見て、その後東山を歩き、この美術館まで行き、また歩いて国立博物館まで行き、そこで別れた。真冬のことで、すぐに日が暮れ、コーヒーをどこかで飲むこともなかった。この清水三年坂美術館では刀の鍔展をやっていた。館は木造で、想像とは違った。以前はどんな店であったのか知らないが、京都風の一軒家を改装して1階と2階ともにギャラリーとなっている。すぐ南隣は、一時息子がアルバイトで通った蕎麦屋だ。あまり広くない2階建てで、独特のムードがあり、個人が美術館を経営する時の参考になる。鍔展の後にパウル・クレー展が開催された。それも見たかったが、機会がなかった。このクレー展は同館が所蔵する作品を展示したものか。ならば、いつかまた開催されるだろう。クレーは小品の多い画家で、その中でもさらに小品を展示しことは、やはり同館がこつこつオークションで購入したと思える。クレーは世界的に人気のある画家なので、そんな作品でもかなりの金額になり、収蔵品は同館の何倍、何十倍もの価値があるだろう。この美術館について近年聞いた話は、若冲のある有名な水墨画を京都市内の競売で落札したことだ。その時の競売は参加者がとても少なく、落札価格は信じられないほどの安価であった。それはいいとして、若冲も買っているとなると、いつか若冲展も開催するかもしれない。鍔展は100個も展示されていなかったと思うが、競売では1個1万円ほどからよく売られているので、個人でもかなりの数を集めるのはそう困難なことはない。美術品と呼ばれるものは、買うのは案外簡単で、売却する方が難しい。そのため、買い集めたものをこの美術館のように人々に料金を徴って見せるのがよい。ただし、チラシやポスターを作ったり、係員を配置する経費に見合うだけの来場者があるかと言えば、それは全く期待出来ない。Sさんに誘われなければ、筆者はまだ行っていなかったかもしれない。展覧会ファンを自認し、なおかつ京都市内に住むにもかかわらず、筆者が訪れたのは出来てほとんど10年経ってからだ。それから推して、同館の来場者数は想像出来る。ついでに書いておくと、明治の金工や七宝の作品を主に収集展示する。これは現在後継者に恵まれず、工芸の中でもあまり知られない分野だ。精緻の極地と言ってよい作品で、海外に流出したものが多いが、それら人間技とは思えないほどの作品は、技術的にはこれ以上はないという高度さを誇るものであるだけに、人間離れした絶対的なものを示されているようで、見て息苦しく、拷問的な何かを感じてしまう。つまり、芸術的とは呼べない別の何かを感じる。そのことによって次第に作られなくなって行ったと思うが、そうした工芸品は途轍もない時間を費やして作られるので、民主主義の時代や世界にはそぐわない。大金持ちが買えばいいようなものだが、今の大金持ちは1個500万から数千万円する腕時計を買って人に自慢はしても、家に置く工芸品はろくでもないまがいもので満足する。精神的に貧しい、ただの金持ちが多くなったのは民主主義時代の特徴だ。数百年後かに、また世界的に封建社会が出現した時には、絶対君主のために職人がこつこつと腕に磨きをかけてまた精緻な工芸品を作るだろう。そういう時に、たとえば明治の日本が作った金工や七宝が大いに参考になる。したがって、そうした作品が今の日本であまり顧みられないのは、筆者はごく当然で正常なことと思う。民主主義がいいか悪いかは別として、みんなどんぐりの背比べ的な生活レベルになれば、大量の安物が必要とされ、ごく一部の人がごく一部の人のために作る超高級品は、どこか病んでいると見る方が正しい。もちろん現在の工芸作家の中には人気者や商売上手な人がいて、超高級品的なものばかりを作って生活しているケースはごまんとあるが、それらは明治の金工や七宝とは違って、技術的にはあまり見るべきものがなく、作家としてのオーラで見せようとする場合がほとんだ。それは悪く言えば一種の詐欺、あるいは催眠商法だが、民主主義の世界では、どんな形で有名になっても、人気者こそ王者であり、人々はそうした作家のオーラを求めたがる。明治の金工や七宝にも作家はいたが、今はそうした名前はほとんど忘れられ、作品の技術的な価値のみが残った。そうした歴史の推移からすれば、現在の作家のオーラ商法はおそらく見るも無残な結果をもたらすだろう。オーラはすぐに消えるし、それが消えた後に技術的にもさして見るべきところのない工芸品は、ただのゴミと化する。そういう工芸家は民主主義時代であるから、誰でもすぐになることが出来て、京都だけでも1万人以上はいる。筆者もそのひとりだが。
枕が長くなった。この美術館が小村雪岱展をやることをチラシで知った時、今度こそ見ようと思った。それで7日に家内と待ち合わせをして行って来た。筆者は鴨川沿いに京阪の五条駅まで歩き、そこで落ち合って、ふたりで東へ清水坂に向った。歩き慣れない道のためか、かなり遠く感じた。帰りは八坂神社に出て四条河原町に歩いたが、その道のりの方が短いかもしれない。昼に待ち合わせをしたので、五条通りで適当に食べる場所を見つけて入った。とても広いところで、筆者らしか客はいないのはいいとしても、昭和時代そのまま内装で蚊や虫が多く、また椅子もかなり汚れていて、二度と入りたくない店であった。ところが、食べている間に大雨が来て、やむのを30分ほど待った。小振りになったのを見計らって外に出て、家内の小さな傘ひとつで清水坂を上がると、ずぶ濡れになった。バス駐車場に来た時、そこが3年ほど前に山梨から日帰りのバス旅行で来た初対面のemiさんと別れた場所であることを思い出した。そう言えば、当日emiさんと清水寺の前で待ち合わせをして、三年坂を下り、ちょうどこの美術館の前あたりまで来た時に、予定とは違ってバスがもうすぐ出発するので駐車場に戻らねばならないと聞いて、坂を戻った。そんなことを思い出していると、家内が傘を買おうと言う。それで筆者はemiさんを見送ったのと同じ、大きな木の下で雨を避けながら立って斜め向い側の小さなお土産店を見ていると、店先にいくつかの種類の安物のビニール傘が売られていた。一番安いのでいいと思ったのに、家内は店主に言い負かされ、中間の値段の、銀色のものを買った。それを指して歩き始めた頃、雨がすぐに上がり、結局傘は無駄になった。人生にはそういうことがよくある。雨が上がったせいもあるのか、三年坂には若い観光客が目立った。キモノを来た若い男女が歩いていたが、言葉は中国語であった。別段不思議がることもないが、中国人が日本情緒を味わいためにキモノ姿で京都を闊歩することは、日本文化の国際化と簡単に言えるだろうか。単に物珍しさが喜ばれているだけで、文化の理解ということではないだろう。その文化の理解の一番手っ取り早い方法は、その国の芸術に触れることだ。その芸術も地域と時代ではまるで異なるので、一概に言えることではないが、キモノ文化を知るなら、たとえば小村雪岱は例としてはとてもよい。
筆者が雪岱の存在を知ったのは1987年だ。手元に同年に東京のリッカー美術館で開催された展覧会図録がある。入手した日づけは10月11日だ。同展の会期はその日が最後であった。同展を見るために東京に行ったのではなく、筆者の代わりにある女性に同展を見てもらい、そして図録を買って来てもらったのだ。それはいいとして、同展が当時関西で開催されなかったのは、雪岱の人気が関西ではさほどでもないことを示している。実際、関西で初の雪岱展が今回のはずで、それほどに認知度が低い。それは作品が比較的少ないことと、鈴木春信の現代版のような画風から、江戸の浮世絵に連なる才能と目されていることにもよる。つまり、粋な絵で、関西にはどこか馴染まないところがある。もちろん「粋」という言葉は関西でも使われるが、九鬼周造の有名な著書にもあるように、どちらかと言えば江戸に似合う言葉だ。ここで同書を話題にしてはあまりに脱線するのでやめておくが、九鬼が「粋」と認める要素は、雪岱の絵にはよく表現されている。たとえば縦縞の好みだ。雪岱が描くキモノ姿の女性は、あまりにも体を細くて、またよく縦縞を着ている。縞のように細身の女性が縦縞のキモノを着て、雨の中に立っているという絵がよくある。細い身のその誇張ぶりは漫画以上と言ってよいが、それが不自然に見えない。またどこにも笑いはなく、きりりと引き締まった、「粋」という言葉そのものを連想する気品のようなものに溢れている。その絵を見た者は直ちにその魅力に囚われると言ってよい。筆者は新聞の紹介で87年展を知り、今も図録にその時の切り抜きを挟んでいる。それほどに小さな図版ひとつからでも作者の姿が伝わるほど、雪岱の絵は個性的だ。元来筆者は白描絵巻が好きで、細い墨の線で描かれた絵はどれも好みであった。そこにたまたま雪岱の絵との出会いがあり、また一方では吉川霊華の同様の白描画も好む。87展図録には雪岱の写真が1枚掲げられている。その顔は絵にぴったりで、また感性豊かなところがよく伝わり、実際に会って話をしてみたいと思わせる顔立ちをしている。今はイケメンという言葉が流行しているが、何と軽い言葉で、その言葉から連想するのは、頭からっぽの格好だけのホストのような男性だ。では、雪岱を男前と表現すればいいだろうか。それも少し違い気がする。真に味わいのある男の顔は、芸術家の中にしかないと筆者は信じているが、雪岱はそうした例のひとつだ。後年、雪岱の随筆集『日本橋檜物町』を文庫本で読んだ。そこに描かれる雪岱の物事を見る眼差しは、雪岱の絵の本質をよく表現している。実はそのことに感化を受けた文章と、『日本橋檜物町』の表紙の写真を「おにおにっ記」に掲げたことがある。雪岱を知っている人にはすぐにわかったと思う。このように、いずれ雪岱について書くつもりであったのが、小規模ながら京都で展覧会が開催された。
1月にSさんと出かけた時、2階の奥でゴソゴソと音が聞こえていた。今回はそれがもっとひどかった。奥の突き当たりは黒いカーテンで仕切られている。これを1階から見上げると、そのカーテンの向こうは、1階の吹き抜けのはずで、その音は1階の人が立てているとしか考えられない。ところが、それにしては音が大き過ぎる。カーテンの向こうに小さな隠し部屋があって、そこが倉庫になっているのかもしれない。であるならば、あまり音を立ててもらっては困るが、そうした謎も魅力と考えればそれはそれで思い出となる。Sさんと見た時は、その音のほかにBGMとしてピアノ曲が鳴っていた。それが知らない曲であった。ラヴェルと同時代であるのは確かだが、6人組の誰かだろうか。ミヨーやオネゲルではないと思うが、それが気になって仕方なかった。今回はそうしたBGMがなかった。雪岱に似合う音楽が難しかったからか。雪岱は明治20年生まれで昭和15年に54歳で亡くなっている。とすれば6人組のピアノ曲がまさにぴたりとしている。だが、雪岱に西洋音楽は似合わないだろう。春信ばりの絵であるから、日本的な三味線の曲がいい。ところがそうしたものは契約している有線では流さないと思えるし、また流しても、展覧会場でふさわしいかどうかだ。それほどに今の日本では人々の生活は洋風化し、雪岱の絵の世界は遠いものになった。だが、雪岱の絵を見て表通りに出ると、キモノ姿の若者が歩いており、またいかにも日本的な家並みや石畳がある。京都の観光地には雪岱的な情緒がまだまだ残っているし、今後もなくなることはないだろう。「粋」に話を戻すと、雪岱の絵における縦縞的要素は、チラシに使用された芽柳の縦縞や、有名な新聞小説「おせん」の挿絵に描かれた雨の表現としての縦縞により表現されている。雪岱は雪や雨、水面など、湿り気の要素を多く描いた。その点はたとえば呉春のような京都の円山・四条派と通ずる。これは日本の絵画の伝統的な特徴でもある。水気の多い国土であるのでそれは当然だ。その一方、そうした国土であるから、よけいに湿り気を拒否した、大陸的なものを求める向きもある。
だが、雪岱はそうした大きなものには背を向け、ひたすら市井の、ごく小さなところに宿る美を追い求めた。そのため、作品は小品がほとんどで、また印刷を前提にした、今で言うグラフィック・デザインの仕事が大半であった。本の挿絵や装丁はその代表だ。また舞台の書き割りの小下絵も数多く描いたが、今回は2、3しか展示されなかった。展示は87年展図録に掲載される作品ばかりであったと言ってよい。また、展示作品は雪岱の唯一の弟子である山本武夫から譲り受けたもので、代表作が網羅されているのだろう。ただし、87年展図録には今回展示された作品の倍以上の図版が載る。また、初めて雪岱の原画を間近で見て思ったのは、線がさほど鋭くないことだ。むしろ歪みが目につき、技術的には決して高度とは言えないことを知った。にもかかわらず、絵全体から立ち上る香りは雪岱にしかない。余白を充分に計算し、あるいは計算ではなく本能的にその価値を知り、決して描き過ぎないことで余韻を実にうまく表現している。描かないものを匂わせることで、描かれないもの伝えている。これは筆者のような饒舌な人間には難しい作業で、そのあまり主張しない奥床しさのような魅力によって雪岱の芸術は光っている。これはおそらく雪岱の女性観にも通じているだろう。女はしゃべり過ぎないのがよい。隠すから魅力があるのであって、晒け出してしまえば実も蓋もない。そんなことを言いたがっているようだ。だが、たとえば背中に刺青をさせる女を描いた絵などはどうだろう。雪岱は清楚な美とは別に、女の艶めかしさをより表現しようとした。清楚な女性を淫らにしたいといった男の欲求が見え隠れしているところがあって、そうした大人の危うい妄想を呼び起こすところが、一部のマニア向けの画家となっているところでもある。美を追求すると、ひとつには異性に行き着く。男の小説家にとっては女をどう描くかが重要な才能と言われる。画家でもそれは同じであろう。雨の日に清水で雪岱の絵が見られたのは、よい思い出になった。収蔵されるからには、いずれまた同館で展示されるだろう。