●『植田正治写真展 写真とボク』
取の砂丘に近い規模の砂漠は日本にはない。その鳥取砂丘にいつか行ってみたいと思いながら、4年前の1月に山陰地方を1泊旅行した時に立ち寄ることが出来た。



d0053294_2225245.jpg土産物店に連れて行かれ、その売店前の階段を上がったところが砂漠であったが、遠くに横長の砂の丘が見えた。蟻のように人間が点在していたのが印象的で、持参した小型のスケッチブックに色鉛筆で1枚描いた。その丘までの距離はどれほどであったのだろう。500メートルほどだろうか。見慣れない風景で、距離感が違う。ともかく、その向こうが日本海であることがわかった。写生を終えたところでバスの出発時間が来た。団体旅行は合理的にたくさんの見所を消化出来るが、どこも中途半端になる。そのため、もう一度いつか鳥取砂丘に行かねばとその時即座に思ったが、その次の機会がなかなかない。そう言えば山陰ではまだ見たい場所がある。だが、電車だけでは回りにくい。そういう場所として、高松伸が設計した植田正治写真美術館がある。これは95年に出来た当時、新聞で盛んに紹介されたものの、鳥取市にも行ったことがないのに、まだそこからかなり離れた田舎にあって、とても行く機会がないと思った。山陰地方の団体ツアーでも訪問先に組み込まれたことがないはずだ。また、さきほどネット地図で調べると、電車の駅からも遠い。つまり、車でないと無理で、そのことで筆者は諦める。植田は境港の生まれだ。美術館がそこから離れた西伯郡伯耆町に造られたのはなぜだろう。適当な土地が見つからなかったからか。せめて鳥取砂丘の近くであれば団体客が訪れやすかったが、一般にはわかりにくい事情があるのか。またこの美術館は大山の景観を借景として巧みに利用して有名で、そのことを念頭に置いて、そうした場所に建てたのかもしれない。だが、維持費は大変なはずで、よくぞ開館したと思う。また、より多くの人に来てもらいためもあって、植田の写真展を全国各地に巡回しようということにもなったのだろう。今回は関西では初めてのはずで、紹介が遅過ぎた。ともかく、まとめて作品を見るにはいい機会で、5月初め頃から待ちながら、ようやく会期の最終日に大西さんと見た。待ち合わせをしたのが京都駅であったので、見るのにつごうがよかったのだ。
 月並みだが、砂丘、砂漠には幻想のイメージがある。映画「アラビアのロレンス」では、ロレンスに向ってアラビア人役の役者が、砂漠はどこよりも清潔で、砂漠で暮さないかと言うセリフがあった。この映画で最もよく覚えているのがその部分だ。大半はどんな内容か忘れたし、また元からこの映画はアジアからすれば関心のうすい歴史を扱っていて、どこがいいのかさっぱりわからない。それはいいとして、砂漠が清潔であることは何となくわかる。砂しかないようなところで、人間がどのように生活するかと言えば、よけいなものは極力省くしかない。その禅僧のような暮らしが清潔に思える。ただし、実際はどうか知らない。こうして書いていて、筆者は、昔海辺に1泊で泳ぎに行った時、手慣れた大人たちが砂浜を深く掘って西瓜の皮などの生ゴミを埋めていたことを思い出している。そうした行為が許されるべきものなのかと当時疑問に思ったが、大人たちは砂浜にそのままゴミを捨てるより埋める方がいいと考えたのだ。そこから推せば、砂漠の下はゴミだらけで、清潔なのは表面だけということになりそうだ。話を戻して、鳥取砂丘はどこにもない鳥取名物であるので、地元の人がそれを利用するのは当然で、植田の写真もまたそれと同じだ。20歳頃にほんの一時期東京で写真を学んだ以外、鳥取から植田は出なかったが、砂丘を扱うのであれば日本ではここしかないという自負から写真を撮り続け、その写真は地方的なものから飛び越えた。植田には、東京などの大都会に何でもあると思うのは傲慢であるという気持ちがあったのかしれない。その地方主義のようなものは、バブル以降に建った植田の写真美術館にも表われている。地方は独自の特色を売りにして中央の東京から差別化を図る。そうした動きに植田の写真は昔から考えを投げつけていたと言える。どの県でも鳥取砂丘的な独自な何かがあると思うが、特に砂丘は鮮烈なイメージがあって、写真の舞台として扱うには恰好の題材であった。そこに植田写真の成功の秘訣があった。
 それともうひとつ大事なのは、植田が1913年に生まれ、また小学生で写真と出会ったことだ。1913年は大正2年だ。ブルトンによるシュルレアリスム宣言はその9年後で、植田は雑誌を通して海外のそうした新しい芸術運動を10代で知ったに違いない。そこに写真という方法が合わさったが、もしカメラに縁がなければ画家になっていたかもしれない。植田の写真は何をどう写すかという周到な計算があって、絵を描くように撮影している。そして、一言すればシュルレアリスム風で、そこに砂丘が大きな役割を果たしている。植田にとっての砂丘はスタジオのスクリーンと同じだが、はるかに広がりと奥行きを利用出来る点で、スタジオは不要であった。白くて何もないように写る砂丘は、そこに置かれる人物たちの関係を意味づけることに働く。植田の写真には砂丘のみを撮ったものはないと思うが、そうした月並みな風景写真には関心がなかった。だが、人間に関心があったかと言えば、土門拳のようにはなく、人間をモノとして扱ったと言える。あるいは複数並べられる人間間の磁場を楽しんだ。つまり、見る人によってそれらの人間に間に何らかのドラマが感じられることを目ろんだ。だが、そうした人間関係に最初から植田がある一定の何かを表現したくて、それに忠実にしたがったとはあまり思えない。どんな物にもそれなりの時代性と地域性があるが、人間にもそれを認めて、物とは違う、より表情豊かなところを積極的に利用した。だが、人間は衣装をまとうから、物以上に情報量が多くなり、また都会や田舎の区別がつきやすい。極力田舎的なところを見せたくなかったはずの植田は、自分の奥さんをキモノ姿で登場させる以外は、洋装の男女を使った。これは当時かなりモダンに見えたことだろう。そうした人物を扱うのに、モデル料を支払ったのかどうか知らないが、望みの角度と姿、表情で撮影するために、植田がかなり時間を費やし、また構図を練ったことがわかる。それはほとんど絵を描く行為と変わらず、写真はどれも静物画の趣が濃い。そして、砂丘にそうした人物を配することは、観光客がたまたま訪れた様子を撮影したといった写真ではないため、最初からかなりわざとらしさがある。そのわざとらしさを面白いと思うかどうかで植田に対する評価は変わる。また、そのわざとらしさはシュルレアリスムの絵画と同じとも言えるが、それはデペイズマンという技法に近いからだ。これはある物を本来の場所以外のところに置くことで、植田の砂丘を舞台にしたすべての写真が大なり小なりそう言える。
 砂丘シリーズの1点に、画面右端に横向きに座るキモノ姿の妻を置き、画面中央、砂丘の向こうから上半身を見せながら正面を向く笑顔の洋装の女性を立たせたものがあった。洋服の女性は砂丘の向こうの下り坂にたたずむため、下半身は見えず、写真を見る者に向って歩んで来るように見える。そしてそのあたかも大名行列のように威厳ある女性を、砂丘のこちら側の坂を下った右手に妻が半ばうなだれて待っている。この写真をどう読み解くかは鑑賞者の自由だが、筆者には洋装の女性が植田の愛人で、それを知っている妻が、陰からそっとそれを見ながら耐えているように思えた。もちろん、そうした読み取りがなされてもかまわないことを思って植田は撮ったが、砂丘に複数の人間を配置すると、予想外に多くの見方がなされることを知っていた。どこまでも計算した写真でありながら、人間を扱うと、時に自分の思惑を越えた見方がなされる。そして植田はそれを面白がっていてであろう。キモノ姿は今では全く珍しいものなったし、また洋装の女性も、その洋装があまりに流行に左右されるものだけに、植田の写真はなるべく田舎を思わせないものを心がけたにしても、やはり撮影した時代から逃れられない雰囲気を濃厚に持つ。シュルレアリスム風という、当時としては最先端の芸術の影響を強く受けたとするならば、なおさらそうだ。写真は元来、絵以上に時代に沿った作品にならざるを得ず、その急速に風化するところに味わいも面白味もある。また、植田の戦前の写真は、今では戦前のものとい古さからありがたみを増しているとも言え、それは植田が予想しなかった幸運でもある。洋装の女性はみな同じようなドレスを着ていたが、男性はシルクハットを被り、それがマグリットやデルヴォーの絵に登場する無名の紳士を思わせ、シュルレアリスムとの親近性がより強調されているよう見えた。またそうした人物は砂丘に点在して時には完全なシルエットとなって写るので、なおさら切り絵的な幻想味が濃くなるが、砂丘を舞台にしながら、どこまで変化が可能かを、長年にわたって検証し続けた。これも砂丘シリーズとしていいのだろうが、半ズボン姿でカメラをかまえる土門拳を撮ったものがあった。土門の姿は、体格逞しく、また経済的にも余裕が充分にあり、しかも渋面から貫禄が溢れ過ぎていた。その写真を見ながら、芸術は金力、すなわち体力、気力によるものであることを思った。金力がなければ体力も気力も湧かないのだ。そして、経済的に恵まれた家柄に育った植田にも金力はたっぷりあったと見える。
 植田の写真の特質はチケットに印刷される写真からでもわかる。キモノ、洋装、それに物が、砂丘上に並列する。現実にはあり得ないこうした光景は、今ならフィギア趣味の人が覚える感覚に近いだろう。その意味でも植田は時代を先んじていたことになる。また、こうした写真は、パソコンで簡単に加工出来るところ、ネット時代に見合ったものとも言える。その点でもまた時代を見通していたことになる。植田のこうした演出写真は時代の趣向に常にかなっていたはずはない。写真はさまざまであり、植田のような作られた、あまりに技巧的な作品を好まない人は今もあるだろう。80年代半ばだったが、筆者の友人は、広告業界は今はマグリット風のシュルレアリスムが大流行と語ったことがある。その時、あまり意味がわからなかったが、当時植田の写真が再評価され、かつて撮った砂丘シリーズのリニューアルものがファッションなど、広告業界で人気を博していたのだ。大正のモダンな時代の感性が、戦後の高度成長よりずっと後になってまた持てはやされたのだ。これは一見時代遅れのものが、長い年月を経てまた最先端なものとみなされる一例だ。完成度の高い仕事をしていれば、そのような歴史の好みの循環性にいつかまた乗る。そして、植田の場合、そうした再評価を生きてい間に味わえたから幸運であった。美術館の完成を見届けること出来たのであるから、その人生は成功の一言に尽きる。植田は鳥取に生涯留まったが、海外旅行はした。図録を買っていないので、何年であったか忘れたが、70年代初め頃だろう。イタリアには魅せられたようで、どこを見ても撮るものだらけという感じでシャッターを押しまくった。そうした写真は砂丘シリーズのような演出がない分、植田の個性は少ない。また、ほかのシリーズとしていくつかのコーナーがあって、その中にハッセルブラッドを手にした面白さから、一時そのカメラに夢中になった写真も展示されていた。正方形の写真という規制が、植田の演出好みにはぴったりしていたのだろう。シャッターを押す時、ちょっと工夫するというのは誰しもだ。その思いからすれば植田の写真はとても理解しやすい。フランスでも植田のスタイルは有名で、それはシュルレアリスムを生んだ国であるからと思えるが、ひとつの様式を徹底して追い、それを完成させたからでもある。植田調的な写真は誰でも撮ることが出来る。だが、それを70年にわたって続けるとなると、並大抵どころか、植田しかいなかった。何事も長年続行すべし。とはいえ、数年経たずにやっていることに飽きも来る。それをどう乗り越えるかの見本を植田の写真は示している。
[PR]
by uuuzen | 2010-07-08 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


●ヒシ池ゴー・ゴー >> << ●井の中のオンリー・ロンリー…
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
技術だけで有名になれない..
by uuuzen at 17:38
彼ら(ビートルズ)に関し..
by インカの道 at 17:20
本質とは生前のザッパが出..
by uuuzen at 16:04
本質とは?どう言う事です..
by インカの道 at 15:26
7枚組はまだあまり聴いて..
by uuuzen at 10:18
間違いと言えば、オフィシ..
by インカの道 at 22:29
関西在住のザッパ・ファン..
by uuuzen at 13:02
大山様 ご無沙汰してお..
by はたなか at 00:35
間違った理由がわかりまし..
by uuuzen at 11:27
やっぱり"Penguin..
by インカの道 at 22:38
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
         ブログトップ
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  © Copyright 2018 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.