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●『千總コレクション 京の優雅~小袖と屏風~』
昨日は京都文化博物館に行った。本当の目的はこの展覧会よりもむしろ映像ホールで昼と夕方に2回上映されるドイツの新作映画で、その感想はまた別の日に書くつもりでいる。



●『千總コレクション 京の優雅~小袖と屏風~』_d0053294_23292371.jpgそれはさておき、京都文化博物館が三条通りに面する赤レンガ造りの旧日本銀行の北側に隣接して建てられてもう20年ほどになると思うが、出入口はその新館にあるものが普段使われている。三条通りは室町通りから東方面は古い建築物が多く、観光資源になるという考えから近年徐々に整備され、若者もたくさん歩く道になったが、そのこともあってこの文化博物館の旧館をもっとどうにかしようということになったようだ。つい先日の新聞に、旧館の正面玄関を無料開放し、そのあたりを2000万か3000万かの費用をかけて全部板敷きにしたという記事があった。その板張りは実感がつかめなかったが、昨日訪れて様子がわかった。車椅子の人でも利用しやすいようにとの意味かもしれないが、板を敷く本当の効果が何なのかはわからなかった。玄関下部に多少の石の新しい造作もあって、ま、リニューアルしたということなのだろう。旧館内部はもう何度も観ているので、その無料で入れるという玄関から入る必要も別になかったが、何人かが入って行くのにつきしたがった。すると急にわかったことがある。旧館には中央のホールの左右に常設展示室が2つずつあって、そのうち右手側2部屋は伏見人形などの郷土玩具用と民具のためのもので、季節毎に定期的に展示物が入替えられていた。それは学校の理科室といった雰囲気の、ほとんど誰も観ないような静かな空間で、それが気に入って新館で特別展のある時は必ず旧館にも行ってそれらの常設展示を観るようにしていた。ところがその常設展示室にあった大きなガラスケースはみんな撤去され、代わりに香を売る店や和装ブティックが店を開いていた。新館には路地店舗という呼び名で食事をさせる店やお土産店などが7、8軒あるが、それを拡張した感じで旧館にも路地店舗が設けられたわけだ。これには驚いた。展示を減らして金儲けだ。品のよいおじいさんの係員が旧館ホールの隅に座っていたから質問してみた。「以前あった伏見人形などの展示はどうなったのですか」「あれは北山の総合資料館から借りて展示していたものですからね。これからはそちらで展示されるのではないでしょうか」「ええ、それは以前から機会あるごとにそうしていたようですしね。もうこれからはここでは展示されないのですかねえ。残念です」。総合資料館ではなかなか場所がなく、恒常的に展示が出来ないこともあって、総合資料館の学芸員がこの文化博物館に派遣され、旧館を利用して総合資料館の資料を少しずつではあるが展示し続けて来たのだが、その機会が完全になくなったとすれば何とももったいない。と言うよりも悲しい。少なくてもファンがいるということを無視してもっと客が訪れてお金も落とすブティックなどに貸すとは、いやはやだ。総合資料館の伏見人形のコレクションは民間の研究家が寄贈したものだ。それは日本的に見ても非常に貴重で、京都の人形の民芸方面をしっかりと押さえる資料であるのに、そうした価値を京都の行政は知らない。いや知ってはいても、もっと重要な文化財がごまんとあるのでとても民衆の人形などには目が回らないのが実情だ。
 さて、本論に進もう。小袖と屏風、こういう展覧会は京都ならではだ。それにもうすぐ祇園祭が開催される時期に合わせたとも思える。毎年祇園祭の宵山あたりの時期には、京都室町の旧家が家宝としている屏風を屋敷内に広げて、訪れる誰にでも観られるようにしてくれるが、それの大規模な展示が今回のこの企画展と言ってもよい。もう30年前になるが、京都市美術館で『祇園祭の華・屏風展』といった展覧会が2年連続で開催された。手元にはその時の図録があり、そのうちの1冊の最初のページには見開きで今回の展覧会にも出品された応挙の重文指定される『保津川図』(チケットの下部に右隻の部分が印刷されている)の6曲1双屏風の図版が掲げられている。この作品は去年秋の大阪市立美術館でも展示されたから、けっこう観る機会があると言わねばならないが、そうした名品を京都の旧家の呉服商が所有しているところから、京都における呉服商の力と、そして江戸時代の京都の絵師たちとの密接な関係も推察出来る。今回の展覧会はそのことを改めて考えさせてくれる珍しい作品も数多かった。筆者はキモノを染めるのが本職であり、また同じ友禅の技法で屏風も作っているので、この展覧会は絶対に観る必要があると言えるが、実際は京都に住んでいれば江戸時代の古いキモノ・コレクションを観る展覧会はぽつぽつと開かれ、ほとんど欠かさずそうしたものを観ているので、正直な話、またかという気分もある。確かに古いものを定期的に観ては心を新たにすることは大切で、そのたびに教えられることがあるのは事実だ。だが、この仕事を25年ほどやっていると、展示される古いキモノはもうほとんど知っているものか、知らなくても知っているキモノから類推されるものであって、全く新しいものを観たという感激はあまりない。古いキモノはどれもこれも1点ずつ文様が全然違うといものではなく、全くその反対で、いくつかのパターンを覚えると、ほとんどそのどれかに分類され、どれもごく少しずつ差のあるヴァリエーションばかりであることがわかる。江戸時代はまだキモノ作家の勝手な個性表出というものがなく、階級によって文様の種類やそのつけ方が決まっていたからだ。当然流行といってよいものがどのような表現にもあるから、そうした文様として決まりがあったキモノも時代の変化につれて少しずつ変化して行ったが、それでも現在のファッションのように急激な変化と呼べるものではない。つまり、昔のキモノはそれを着る者が自分のステイタスを示すものであって、身分の高い、あるいはお金持ちといった人々にしかまとえないキモノの柄行きというものがあった。そのために文様のつけ方や染織方法がある程度固定化していたのは仕方がない。身分を分ける階級社会は着るものによって身分を示したが、これはある程度は今も言える。
 ほとんどの人が日常的にキモノを着ることがなくなった現在、こうした古い小袖(これは江戸時代の女性用のキモノの呼び名)の文様は若者にとっては全く新しいデザインとして目に映るかもしれない。それは本来文様が持っていた意味を解しないことが多いこともまた想像される。現在まだキモノは作り続けられていて、その世界では昔ながらの文様の意味を知ってしかるべき組み合わせで用いているが、キモノの古着を利用して作ったようなアロハ・シャツではもう文様に内在する吉祥や慶賀の意味などわからぬまま、単に色合いがどうのということだけが考えられているのではないだろうか。それは本当は悲しむべきことで、京都ならではの文化遺産であるこうした小袖をもっと別の角度から見せて現代に文様や友禅の意味を伝えて行くべきではないかと思う。それが残念なことに、あまりに文様やまた染色の世界は本来の美術とはかなり外れたものとみなされる傾向があり、またその内蔵する世界の奥行きの深さもあって、どういう切り口でどう的を絞って展覧会で見せるかがまだまだ成功しているとは言いがたい。それで結局は古い小袖をそのままずらりと展示しておしまいということの繰り返しとなる。先の伏見人形と同じくまだ熱心な研究対象になっていないのだ。京都にいる染織の研究家もあまりに少ないと言ってよい。今回の展覧会の図録は分厚くて2000円で販売されていた(ほしかったが買わなかった)が、巻末の解説を見ると京都国立博物館の切畑健が一部を執筆していた。これは妥当な人選と言うよりも、ほとんどこの人しかいないというのが問題だ。研究家が少なくて発言があまり見られないのは、染織の研究家で食えないのが理由と言える。誰も待っている人がいなければわざわざ研究しようという人も現われない。
 千總という会社は京都を代表する呉服問屋のひとつだが、型友禅で有名なところだ。これはいわゆる1点ずつ手仕事で染める手描友禅とは違って、数多くの型紙を使用して反物に繰り返し文様を順に染めて行くもので、その意味で量産物だ。どの業界でも言えることだが、1点物をこつこつと作っていては老舗にはなっても大儲けはまず出来ない。広い工場や多人数の職人を抱える必要はあるが、量産物を手がける方がはるかに儲かる。千總はそれで成功して来た。もちろん手描友禅も作っているが、本領は型友禅と言ってよい。型友禅は手描に劣るかと言えば、これは技法が違うのであるから、表現する世界にも差があって甲乙は一概につけられない。型でしか出来ない細かい文様がびっしりと反物全体に詰まった表現もあるからだ。その意味で千總が代々作り続けた型友禅の遺産は京都のみならず日本を代表する仕事として今後もずっと記憶され続けられる価値がある。ただし、人件費の高騰やキモノ離れによって昔のような技術の伝統はもうほとんど途絶えていると言ってよい。型染友禅を新しい柄を起こすためには、最低でも数百反といった数を作らなければならないが、もうそんな小品種大量生産の時代ではない。需要があるとしてもそれは和装ではなくて、先に述べたようなアロハ・シャツに類する世界かもしれない。そしてそうなればわざわざ手の混んだ、型紙が100枚を越えるといったかつての型友禅ではなくて、もっと安価で量産出来るプリント生産ということになる。それでも友禅文様の膨大な蓄積が京都にはあり、それにまだ友禅の職人は存在するから、細々としながらも今後も時代に応じたキモノは作り続けられるに違いない。千總がキモノ作りの会社として生き残る道もそこにあるだろう。
 今回の展示で面白かったのは、明治期の京都画壇の絵師たちが描いた友禅の下絵や、またそれを元に職人が染めた実に繊細な仕事の友禅染の掛軸だ。絵師が下絵を描き、それを職人たちが分業して染めるという一連の作業の中に、友禅染がいかに凝った染物であるかが改めてわかるが、100年前には内外で盛んに開かれた博覧会や物産会では、京都からこうした友禅染の屏風や衝立などの調度品が出品され、それが受賞するなどして大いに話題になった。それから100年経って日本がいかに変貌して、友禅染が一般には馴染みのうすいものになってしまったかが今回の展覧会からはよくわかったが、もう二度と同じような盛況は訪れないかと思うと友禅に携わる者としては寂しさを覚える。と同時に、今は今のあるべき友禅の表現があるのではないかと新たな決意のようなものも芽生える。100年前の仕事はそれなりに凄いものだが、当時の絵師の仕事はそれより100年近く前の応挙や呉春といった円山、四条派の絵をそのまま図案的にしたような一種の固定化、膠着化のみが見られてさほど関心はしなかった。今となってはもう円山、四条派のような絵を描ける画家が存在しないから、それはそれなりに楽しめ、またそうした絵師と密接に関係した友禅の世界があったことは幸福でもあったと思えないでもない。なぜなら、それ以降の京都画壇が京都の友禅の文様表現の流行に何か寄与したということはほとんどないと思えるからだ。友禅を置いてきぼりにしたままで京都の画家たちはどんどん自分の仕事を進めて来たからだ。大正時代には時代を反映してそれなりにモダンなキモノがどんどん作られたが、キモノ作りはあくまでも職人であって、落款を入れることはなかった。それでも腕のある下絵師が弟子を抱えて工房を作り、問屋のお抱えになって名を馳せた、いわゆる友禅作家の走りはあった。ただし、それは自分ひとりで全部の工程をこなそうというのではない。そうした才能が当時仮にあったとしても、問屋の生産力に応じることは出来ず、否定された存在だったと言ってよい。それで、職人たちは歯車のひとつになって日々自分の担当する工程のみの熟練に精を出せばそれで生活は保証された。しかし、ここ20年のような呉服業界の不振が続くと、職人の後継者が育たず、一方では自分の好きなキモノを自分で作って自分で売ろうとする者も出て来る。そうした作家の視野には円山、四条派の絵もあれば、現代芸術もある。何でもありのそんな迷いも必然的に多い中で、ひとつの規範になるのはやはり古い時代のキモノでしかない。小袖と屏風がどのように関連があったのか、またないのか、そうしたことをいろいろと学び直す中にまた新たに何かが見えて来るのが偽らざるところと言っておこう。
by uuuzen | 2005-07-01 23:30 | ●展覧会SOON評SO ON
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