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●「LA BALLATA DELLA TROMB」
奮したように家内が言う。先日6月24日の夕焼けが生まれて初めて見るように美しさだっとか。その日の夕焼けが始まっている頃、筆者は自治会の会議場へ向かうために外を歩いていた。だが、さほどの夕焼けではなかった。



●「LA BALLATA DELLA TROMB」_d0053294_15542763.jpg会議は7時から始まる予定で、その20分前に到着して家の中に入った。そのため、家内が言うきれいな夕焼けには遭遇出来なかったのだろう。そう言えば、7時前後か、簾越しに夕焼けの気配がしていた。それが見事な夕焼けとは知らないままに会議を始めたのだったが、そんなにきれいな夕焼けならば、見られなかったのは惜しい。だが、筆者は雨が振らない限り、毎日夕焼けの時間帯にムーギョ・モンガと勝手に名づけている遠くのスーパーに歩いて出かけ、桂川にかかる大きな松尾橋から愛宕山の向こうに沈む夕日を眺めているので、感動的な夕焼けなるものはよく想像出来る。夕焼けが一番美しいのは6、7月の梅雨頃ではないだろうか。ちょうど今頃は、日が暮れるのが遅く、その分日中の暑さにうんざりしているが、そのことが夕焼けの訪れとともにようやく解放される。その思いが、なおさら夕焼けを美しいと感ずる。暑い1日を耐えた褒美の夕焼けというわけだ。これは終日クーラーのある部屋にこもっていては、あまり感じられない気分ではないだろうか。筆者は現在でも仕事部屋にクーラーをつけず、また寝室クーラーもよほどでないと使わない。年に数日といったところだろう。涼しいのがいいに越したことはないが、暑さを我慢するのが夏らしい。高齢の老人が時にそのような痩せ我慢から熱中症になって死ぬ場合があるが、高齢であるからそれも自然でいいではないか。ともかく、昨日も6時半過ぎにスーパーに出かけると、7時頃に松尾橋の上に差しかかり、見事な夕焼けに出会えた。買い物を済ませての帰り、夕焼けは山の彼方にほんの少し、横長の帯状になって残っていた。周囲が黒や灰色であるので、全体に隠滅の色合いで、さびしいなあと思ったところ、頭上から雨粒が落ちて来た。梅雨の夕焼けが1年で最も美しいと思うのは、雨が多くて、毎日見ることがかなわないからかもしれない。さて、これもつい先日家内が言ったことだが、鶴見緑地公園に何年か前に行った時、急に雨が降って来たことを話題にした。なぜ突然そんなことを思い出しのか訊ねるのを忘れたが、別段理由はないだろう。楽しいほどでもないのに急に思い出すことは誰にでもある。筆者は家内のその独り言のような話に対して、それがいつであったかは調べればすぐにわかると答えた。その日のことは「おにおにっ記」に書いたからだ。今調べると、「マニマンの植物園見学」と題して2006年8月31日に書いている。その4日前に鶴見緑地公園を訪れたのだ。ちょうど4年前だ。その日、園内の片隅でごく小さなフリー・マーケットが開かれていた。その中の1軒の中年男性はガラクタを地面に広げて、ひとりの男性客に商品を勧めていた。筆者は中古レコードの小さな山を見つけ、それを順に取り崩しにかかった。たいしたものはなく、2、3枚買った。1枚100円程度だった。その中の1枚が今日採り上げるニニ・ロッソの「夕焼けのトランペット」だ。レコードを買っている時に大粒の雨が降り始め、家内と一緒に大慌てで近くの建物の中に入って雨宿りをした。20分程度だったと思う。そのことを思い出すと、確かにめったにないことで家内が記憶していることに納得が行く。館内は人気がほとんどなく、雨宿りでなければ入ることがなかったような場所であっただけに、夢と紛らわしい記憶として鋸っている。
 「夕焼けのトランペット」をラジオからよく聴いたのは小学生の頃だ。1961年の曲で、ニニ・ロッソのデビュー作だ。ジャケットはうなだれて顔を見せない若い男の写真だ。そのかたわらのドラム缶状の何かにトランペットが置かれている。おそらくイタリアでの発売と同じ写真を使ったのであろう。ドラム缶に重ねてタイトルが表示されるが、赤色であるのは夕焼けを意識してのことだ。それはさきほど書いた陰鬱な暮れる寸前のわずかな夕焼けを思い出させるが、顔を見せない男の姿とあいまって、この曲が悲しみを基調にしたものであることをよく表わしている。「夕焼け」は英語では「RED SUNSET」だが、ニニ・ロッソの「ROSSO」は「赤」の意味であるから、ニニのとってこの曲はデビューにふさわしかかった。筆者は4年前にレコードを手にして初めてこのジャケットを知った。いかにも60年代のイタリアそのもので、戦後のイタリア映画に共通する味わいが漂っている。ジャケットの男はたぶんニニ・ロッソだと思うが、この当時はまだ顔を知る人は日本では少なかったのではないだろうか。いやいや、どんなレコードにもファンはあるし、また日本でも大ヒットした曲であるので、筆者より上の世代の人はただちにニニの写真を見るなりして、ファンになったことだろう。ネットで調べると、ニニは1926年トリノ生まれで、94年に亡くなっている。トランペット吹きとして絶大な人気を誇り、またいかにも人のよさそうな風貌もあって、晩年は毎年クリスマス頃に日本でコンサートするのが習わしで、ひとりヴェンチャーズ的なところがあった。そうした日本での大人気のきっかけがこの「夕焼けのトランペット」で、この後64年に「夜空のトランペット」というさらなるヒットがあり、66年には「夜明けのトランペット」も売れた。もちろん筆者はどれもよく知っている。人気はちょうどビートルズの紹介と重なった感があるが、筆者はビートルズ以前に「夕焼けのトランペット」を聴いていた。イタリアと同じ1961年に日本でヒットしたのかどうか知らないが、遅くても1962か3年に違いなく、この曲は筆者の10代初頭頃の記憶を代表する1曲となっている。そして、そのあまりの時代へのフィット感が、この曲を思い出させなくしているところがある。この曲は当時の筆者並びにわが家の苦しい事情を即座に思い出さるため、回顧的な意味合いでは全く聴きたいとは思わない。回顧に耽りたくないからだ。回顧に親しむのはその回顧すべき過去が肯定的なものであるからだ。だが、肯定か否定かはその当時の思いがその後ずっと固定化され続けるものではない。むしろ年月を経ると否定的部分は消え、肯定面のみ強調される。その伝で言えば、筆者も今ではこの曲からただちに60年代初頭の家庭事情などを思い起こすことはないが、それでも一旦思い出し始めると、ずるずると顔をもたげる事柄は少なくない。そうした事情をどう処理してこの年齢までやって来たかと言えば、そのひとつのきっかけにビートルズがあった。それによって筆者は創造の道があることを知ったと言ってもよい。そしてそれを知ると、恐いものはほとんどなくなった。そして改めてこの曲のジャケット写真を見ると、嘆く男の姿はまさに時代の反映であり、また当時の筆者の内面そのものに思え、とてものんびりとこの曲を懐かしがるという気持ちにはなれない。洲之内徹が「気まぐれ美術館」に、イタリア映画の「自転車泥棒」を今見ることは耐えられないと書いていた。その思いとかなり似ていると思う。
 「夕焼けのトランペット」はニニの歌が入っている。その歌詞に「夕焼け」の言葉がある。原題は「トランペットのバラード」だ。歌詞は短い。全部書き写す。「思い出すのはあのトランペットのひびき、あの夕焼けの丘でいつまでも鳴っていた、そして記は泣いていた。トランペットの悲しいバラード、一言も交わさず別れるため、いつまでも鳴っていた。そして君も失った。」 説明には「イタリアの新鋭歌手ニニ・ロッソが唄う……」とあって、ニニがトランペットを吹いていることは書かれていないが、盤面には「NINI ROSSO e il suo complesso」と印刷されていて、これはニニ・ロッソと彼の(トランペット)演奏といった意味だろう。なお、作曲はピサーノという人物で、ニニではない。この曲が大ヒットしたからには、ニニはもっと歌ってもよかったが、トランペット吹きの才能がその後は突出して、ニニの歌はあまり上手ではないという見方が定着したのではないだろうか。これは名ギタリストが名歌手とは認められないことに似る。歌心を楽器の演奏に込めていると人は思いたがるし、実際演奏家本人もそう思う。日本ではニニの後に有名になったトランペッターとしてハーブ・アルパートがいる。これもビートルズ時代に並行して活躍したから、60年代はトランペット・ブームがあった。その背景には幾分日本の兵隊が奏でるラッパの響きが人々の記憶にまだ色濃く残っていたからではないだろうか。またジャズではマイルス・デイヴィスなど、有名なトランペッターがいたが、ニニの人気はそうした広範なトランペット・サウンドの中に、広々とした、そして穢れのない田舎の自然をよく感じさせるところにあったのだろう。今ふと思い出したが、パン・フルートのザンフィルの人気もそれに近い。だが、ニニよりももっと異国的でさびしいザンフィル音色は、ニニのような大きな人気を獲得、また持続することは出来なかった。それはトランペットがパン・フルートと同じよう独白的な楽器でありながら、より明瞭で、遠くまで、また多くの人に届き得るという特長を持ちながら、ニニの演奏が聴き手個人の内面に向っていたという理由が考えられる。同じように息を吹き入れる楽器でありながら、トランペットの混じり気のない音は、精神的な強みの象徴になり得る。この曲も失恋を歌うものでありながら、きっぱりとそれに別れを告げているような潔さも感じさせる。それは60年代初頭がそういう時代でもあったようにも思えて来るほどだ。まだ貧しかった日本だが、ないならないで、前向きに進もうという意識が人々には強くあったのではないか。むしろ、物がまだ溢れ返っていない分、人は所有欲に深く侵されていなかったとも思える。本当に必要なものはごくわずかしかないということをまだ人々はよく知っていた。やがて次々に商品が出る時代が加速化し、物を揃えなければ貧しくて恥じ入らねばならないと錯覚する、それこそ本当に心が貧しくて恥じ入らねばならないような人が増えた。そして、そういう時代になると、この曲のよさも理解されなくなって行くのではないか。
 よく売れたシングル盤はジャケットを再発のたびにジャケットを変えることはよくあったから、日本で最初の発売が筆者の所有するものかどうかは知らない。価格330円であるので、60年代初頭は間違いないだろう。ジャケットの左下にローマ字で岡林何とかという名前のスタンプが押されるが、盤面には漢字のハンコが押される。この所有者は今どうしているのだろう。筆者より上の世代で、おそらく60代後半から70代になっているだろう。不要になったので処分したか、あるいは亡くなったので家族が売り払ったか。いずれ筆者の手を離れてまた誰かの手にわたる。人間の一生は短いが、この曲のように記録されたものは時代を越える。10代の最初にラジオで頻繁にこの曲を聴いた筆者であるので、レコードを入手して聴いたところで、新たな発見は全くない。それほどの隅々までよく記憶しているのが、少年時代に聴いた音楽だ。当時家庭用録音機はなかったから、筆者が聴いたのはせいぜい20回ほどではないだろうか。だが、60年代初頭のこうしたポップスはみな2分半前後の長さで、使用楽器も少なく、また楽曲構成も単純であった。そのため記憶に残りやすかった。この曲の伴奏は、時代性やアメリカ風を思わせるバック・ビートで、かすかにドラムやギターも聞こえるが、電気ピアノだろうか、きわめて単純ながら色気のある音色が最も目立っている。その音色がトランペットの音ときわめて好対照をなしていて、この曲の魅力のかなりの部分はそこにある。ニニは後年この曲をライヴで何度も演奏したはずだが、その時、その跳ねるような電気ピアノらしき音はどう奏でられたのだろう。案外その音色が微妙に違い、またそのことがその当時の時代の好みをよく反映したのではないだろうか。ともかく、その単純だが味のある伴奏に、ニニのトランペットによるメロディと歌が交互に載る。さきほどメロディを拾ってみたところ、Cマイナーで、その音階にはないFシャープとCフラットが使われる。イタリアの古い民謡に似たメロディがあるのではないだろうか。短い歌詞の中に情景がよく表現されているのは、俳句的とも言ってよい。日本でも同じような思い出も持つ人はたくさんいるだろうし、また実際にそうした失恋を経験しなくても、想像を通じて人はこの歌詞が描写する夕焼けを脳裏に描くことは出来る。夕焼けを美しいと思わない人はいないだろう。筆者は京都に来て初めて雄大な夕焼けを知った。嵐山東公園、あるいは松尾橋から見える夕焼けは、1年に一度くらいは家内が言うように、生まれて初めて見るほど美しい瞬間がある。それは長く続かない。ほんの1分かそこらだ。そんな夕焼けに巡り会えるたびに、筆者は毎日夕日をじっくり見つめることだけで残りの人生を過ごしたいなと思う。そしてそんな時はこの曲を思い出すこともないし、この曲の歌詞にあるような別れた彼女を思い出すこともなく、また10歳頃の思い悩んだことも遠い彼方にある。ただ夕焼けそのものが美しい。本当の美しさは、言葉も何の連想も生じさせない。
by uuuzen | 2010-07-01 15:54 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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