童画専門の画家と評価が定まって行くのだろうが、瀬川康男の絵は大人向きのものだ。瀬川の絵を知ったのは息子が2、3歳頃だ。絵本を与えようと思っていたことによる。

最初に買ったのは谷川俊太郎の詩に絵を描いた『ことばあそびうた』だ。その第2編の『ことばあそびうた、また』も入手した。その2冊で瀬川の才能の突出具合はよくわかる。一度見たら忘れられない画風だ。線、そして過剰なまでの装飾性に特徴がある。その2冊以外に図書館で何か借りたかもしれないが記憶にない。だが、新刊として京都市中央図書館に入ったばかりの『絵本平家物語』は、あまりに華麗な色彩で、線の画家とは別に色彩の画家と認識することになった。その絵本はシリーズになっていて、筆者が借りて読んだのは1985年12月発売の『俊寛』までの3冊だ。それ以降は児童書コーナーにあまり行かなくなって、続編が出続けたのは知らなかった。いや、正確に言えば片山健に関心を移したから、知っていても興味を持たなかったのだ。片山健の絵本には一時夢中になった。出たものを片っ端から買い、また古いものは古書で入手した。それはいいとして、『絵本平家物語』は児童書コーナーに置くべきものだろうか。絵本と言えばすぐに子ども用と思う人が多いが、大人の鑑賞に耐える、あるいはむしろ大人向きの内容を持ったものが少なくない。『絵本平家物語』はそういう部類に属する。これは木下順次が平家物語の中から代表的な人物を9人選び、各巻にそれらの人物を配して、順に読めば平家物語のおおまかなところがわかるようにしてある。高山樗牛の『瀧口入道』はそれら9人には含まれないが、瀧口入道に関係する祇王は第2巻に採り上げられている。だがその中に瀧口入道は登場しない。そのため、平家物語の本物をいずれ読まねばならないが、そう思うだけで半世紀はすぐに経ってしまう。

さて、「瀧口寺へ行く」と題してこのブログに書いたのは2月21日のことだ。行ったのは9日だが、小説を読んでいる頃、筆者は『絵本平家物語』をしきりに思い出し、それを入手する気持ちになっていた。そして古書で9巻まとめて手に入れたのが2月2日だ。息子のために図書館から借りて読んでから25年だ。当時の記憶そのままで、細部まで鮮明に記憶していることにわれながら驚いた。感動というものは一生変化しないことがこれでよくわかる。ネットで調べると、『絵本平家物語』は今は入手困難になっているらしい。だが、これは瀬川康男の渾身の代表作だ。絵のわかる人が見れば、この絵本のために瀬川がどれほどの資料を集め、どれだけの時間を費やして描いたかがわかる。要した年月がわかるというのではない。大変な作業であることがわかるという意味だ。時代考証をここまで厳密に重ねて描く才能は今はほとんど皆無であろう。絵本は子どものものであり、多少間違ったり、また曖昧なように描いても誰にもわかりはしないと考える立場もある。そういうごまかしから瀬川は遠い。木下はおそらくごく短期間に要約して文章を書いたのではないだろうか。だが瀬川の絵が遅々として進まなかったと思える。84年に第1巻が出て、91年に第9巻が出ているから、足かけ8年の仕事だ。つまりほぼ1年に1冊だ。それもあろうかと思わせるほどに緻密でしかも美しい絵が展開し、平安時代の絵巻を見るようなきらびやかな思いがする。子どもが見ればそれなりに感動するものがあるはずだが、平家物語であるので、大人ならもっと深いところがわかるだろう。その点、瀬川はどう思っていたかは知らない。2月上旬にこの絵本を手にし、そして『瀧口入道』を読むなど、筆者はちょっとした平家物語のマイ・ブームに浸ったが、この絵本についての感想を書こうと思いながらそれが遅れに遅れた。その理由は1巻ずつゆっくり読んだためもあるが、平家物語マイ・ブームが急速にしぼんだからでもある。だが、今月に入って第3週目の長文の日には書こうと決めた。また、2月の段階でネットで瀬川康男を調べると、まだ存命中であったのが、今日また調べると何と2月18日に直腸癌で亡くなっていることがわかった。それはおそらく『俊寛』あたりを読んでいた頃だ。この25年間ずっと気になっていたこの絵本をようやく入手して読んでいる最中に、瀬川はこの世からいなくなった。虫の知らせであったのだろうか。77歳であったそうだが、『絵本平家物語』を見ると、いかにも活力ある壮年の作で、これを頂点にしてその後はもうこれ以上の作は望めなかったのではあるまいか。そして77と言えば、筆者はもう20年もないが、残りの人生でどんなことをしようかと思う。25年前が昨日のようであるから、20年など明日の朝みたいに近いだろう。

瀬川の顔がどのようであるかがずっと気になっていた。それがひょんなことでわかった。今から5、6年前、ネット・オークションで瀬川康男展の図録を入手した。新品同様で、きれいな造本だ。紙もいいし、またそこに掲載される瀬川と松本猛との対談も面白い。写真はその図録に数点載っている。予想とは違っていたが、写真を見るとなるほどと思う。この対談は2月に思い出して拾い読みし、さきほどまたじっくりと読んだ。瀬川の経歴や考えがよくわかり、また絵本以前の仕事の図版も多く収録されるので、瀬川をよく知るには欠かせない本だ。この展覧会は97年に板橋区立美術館と刈谷市美術館でのみ開催され、関西での展覧はなかった。そのためもあるか、瀬川の人気は関西では大きくないのではないか。瀬川は愛知の岡崎生まれで、東京や長野で生活して描いたから関西には無縁と言ってよいが、『絵本平家物語』は京都が中心になるので、京都に取材に来たかもしれない。残念ながら瀬川が京都をどう思っていたかは図録からは知ることは出来ない。瀬川の原点は父親の絵好きにある。船乗りで厨房長をしていた。器用な人であったのだろう。1年に数日しか家に帰って来なかったが、帰宅した時には筆を片手に四君子を描いて見せたりした。すると瀬川がたちまちそれより上手に描くようになって、父は描かなくなったらしい。何となくピカソを思い出すエピソードだ。そして、瀬川はやがて西洋画家に開眼する。それは父が読んでいた月刊誌『南画鑑賞』に西洋の絵画事情がたくさん掲載されていたことによる。同誌は今で言えばうすいパンフレット程度のものだが、南画だけではなく、西洋画についての情報も盛り、今読んでも古さを全く感じないところが多い。その意味で言えばこの100年ほどは美術誌で進歩したのは原色印刷程度で、文章に関してはむしろ退化していると断言してよいだろう。松本猛との対談で瀬川は村越松南の南画が好きだと語りながら、松本に向ってそんな画家は知らないでしょうと語っている。そこに玄人好みの資質がよく表われている。その図録には、絵本を描く以前の瀬川の画家として作品図版がかなり載っている。それらを見ればどういう画家に心酔したかは即座にわかる。ドーミエ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンといったお決まりのコースからシケイロスやタマヨ、クラーベ、そしてフランスのビュッヘやロルジュという名前を挙げているのが面白い。今の若い人はロルジュの絵はあまり知らないだろう。筆者が10代の頃、ロルジュ展があった。筆者はそれを見て図録を買ったので、瀬川の絵にロルジュ風なところがあるのはよくわかる。瀬川は一時期シケイロスに大いに惚れ込んで、同じ名前をあだ名されたほどだ。筆者は20歳頃からシケイロスが大好きで、71年の展覧会は見に行った。そういうこともあって、瀬川の絵に筆者が共鳴するのは当然なのかもしれない。絵本を始めたのは絵では食えないからだ。ひょんなことで仕事を始め、それが世界的にも評価される。そして絵本で有名になった60年代末期に西洋に出かけて、ロンドンのナショナル・ギャラリーではカルロ・クリヴェリの絵に魅せられている。実は筆者も同じ美術館で同じクリヴェリの絵に驚嘆し、絵はがきを何種類も買って来たことがある。ここでも筆者は瀬川と好みがよ似ているようだ。さて、そういう瀬川がなぜ『絵本平家物語』かと言えば、以前から日本の昔を題材にした絵本はよく描いていたし、また日本美術では教科書に載るような有名どころには飽き足らず、すぐに奈良絵本や丹録本といった民衆のための素朴なものに触手を広げたことによる。つまり、素地があったのだ。ここが瀬川のすごいところで、とにかくあらゆるものをよく見ている。絵本作家のなかにはつまらない人も大勢いるが、瀬川は本格的な画家を目指していただけに独創性に対する態度は徹底している。それはたとえば、どんな画家でも独自の空間把握があり、それら各画家の空間把握をその画家の立場から捉え直すという行為だ。それをあらたかやり終えた後に奈良絵本た丹録本の独特な空間把握にう魅せられた。瀬川は丹録本では朝鮮のものが最もよいと語っている。これは李朝民画を知る者からすれば瀬川の言う意味がよくわかる。筆者はかつてどこに据えればいいかわからないほど独特で、しかも味のある李朝民画を見たことがある。それはその空間把握があまりにも突飛でどう逆立ちしても自分からは生まれて来ないものと思えたからでもある。うまいとかへたを超えて、とにかくびっくりさせられるものは、美術史からはみ出たところにある。国宝や重文だけをよく知っていても駄目なのだ。国宝や重文を基礎に、その一方でどれほど珍しくてよいものを多く見るか。一流と二流にはその差がある。

瀬川の知識の豊富さは絵を描く者からすれば大なり小なりごく当然のことだ。その一方で克明な写生をこなし、それが作品に影響を及ぼしている。たとえばそうした写生からある花の素描が数点、先の図録に掲載されている。その中で、何の花だろうか、枯れた様子を精密に描いたものがある。花弁先端の細い脈まで引かれている様子に注目させられるが、それはたとえば『絵本平家物語』の見返しや本文の背景、あるいは裏表紙に描かれる左右天地対称の桔梗の花に細かく引かれる線に通じている。85年に筆者はこの桔梗のデザインを見た時、その一種の気味悪さにかなり驚いた。葉脈は誰でもあたりまえに描くが、花のそうした細い筋は間近で観察してもなかなか見えす、そのため実際に描く人は日本画家でもほとんどいない。そういう細かい線はむしろ装飾には邪魔なもので、デザインにも使いようがない。だが、瀬川は空間充填に関心が強く、そうした細部をあえて際立たせる。若い頃に住友が所有する古代中国の青銅器の饕餮文を飽かずに眺めたというから、それは納得出来る。だが、そのあまりの緻密さは絵の本質ではないとして無駄骨と見る人もあるかもしれない。たとえば『絵本平家物語』の頃の作品は、人間や動物などの全体のフォルムは著しく簡略化されているのに、そこに加えられる模様はあまりに過剰だ。そして、基本の単純なフォルムはたとえば棟方志功やピカソを思わせ、一方の装飾は唐草や点描、鱗文など、たとえば仏像の衣や装身具に源があるようなものが目立つ。そのため、全体としてどこも引用感が強い。悪く言えばどこを採ってもどこかで見たような気がする。それと同時に、その装飾過剰性は見ていてあまり気持ちがいいものではない。悪夢的と言えばいいだろう。実際瀬川は病気になったりしたが、鬼気迫るものがその装飾性にはある。そこで思い出すのは20歳頃に見た『ライフ』社が出版していたあるシリーズの1冊だ。そこには、イギリスの猫好きのある画家が猫を次第に装飾性豊かに描くようになって、それと同時に発狂したという記事があって、何点かの猫の絵の顔の絵が添えられていた。発狂してからの絵はまさに瀬川の絵によく似ている。瀬川の絵は狂気の一歩手前で踏みとどまっていると言える。松本猛との対談にはこんなことが書かれている。観音を描いた絵を指しながら、「これが出たときは、2か月ぐらい前から毎日、早描きで何枚くらい描けるかやってたの。考えないで手にまかせたらどうなるんだろうという実験に入って2か月たった頃だと思う。……この程度のものが1日に9枚かけたのね。あと半月ぐらいはその勢いでかきつづけて枚数はできたけども、もうこんなのはかけなかった。気が抜けちゃったんだね。それでその実験は打ち切って、今度は、無意識で描いた絵を完全に意識してかけないかという実験に入って、また10年くらい。……早描きを意識して細かく詰めたことで駄目にしてしまったものも無数ある。……だからこの早描きと、意識してそれを描けるようになるまでに相当かかっているね。それが見えたなと思った時に倒れたの」。ここには瀬川の装飾の本質が語られている。瀬川の細かな装飾の線は猛烈に早い速度で描かれるようだが、それは無意識を意識化したもので、長い年月をかけて手に入れられたものだ。ザッパのギター・ソロと似ている。

瀬川論をやっていると切りがないし、またここはその場所ではない。最後に『絵本平家物語』の挿絵について少し触れておく。筆者がよく記憶するのは25年前に見た『祇王』と『俊寛』の号で、そこから代表的なものを掲げておく。前者は白拍子の祇王と祇女が清盛の前で踊る様子がなかなかよい。朱色の袴の色が特に印象的であった。文様は金泥も使用されているのだろうが、絵本ではその輝きは際限出来ない。原画を見たいものだ。瀬川は金箔に特別の思いを抱いていて、クリヴェリの絵を見たりまた日本の金屏風から金色の意味を考えたようだ。それが対談で語られている。簡単に言えばあの世とつながる色なのだが、そこからは瀬川が聖なるものに関心のある様子が伝わる。その聖なる思いがよく表現されているのは、『祇王』の最後の場面だ。聖衆来迎図の翻案だが、瀬川スタイルによく咀嚼されている。この見開きの前ページの見開きも同じ調子の来迎図だが、それは絵本を順に繰って行く時の効果を実によく計算している。全9巻のうち、女性を主人公にするのはこの巻のみで、それもあってなおさらこの巻は華やかさがある。『俊寛』でよく記憶するのは、これも最後の図だ。鬼界島に流されたお坊さんの俊寛は、1、2年のうちに乞食よりひどい姿に成り果ててしまう。それをどう描くか。これは難問題であったろう。それを瀬川はまるでビュッフェ・タッチの針金的なキリストのように描く。つまり聖人のようにだ。日本の平安時代の話にこの西洋風の人物はあまり似つかわしくない気がしたものだが、今回改めて見てそれなりに納得した。瀬川は自分の個性を表現する思いが一方にあって、今まで培ったあらゆる知識を総動員してこのキリスト風の俊寛を描いたのだ。島で逞しく生き延びたのであるから、みすぼらしい姿ではあっても、そこには雄々しい何かが宿っていて不思議はない。各巻は最後に木下の解説が書かれ、みな現代における読み取りとして面白い見方を披露している。筆者もここでそのテキスト面からも何か書くべきだろうが、もうその気分的余裕がない。それに何よりこれは瀬川を思っての文章だ。装飾の意味として、筆者は瀬川に同調する立場に必ずしもないが、その仕事の完成度の高さには脱帽する。どんな分野であっても、熱心に全身で取り組まねば本格的な仕事は何も生まれない。それは祇王的な潔さと信心深さ、そして俊寛のようなねばり強さが欠かせない。それらを瀬川は持ち合わせた。それはうらやましいことだ。精神の強さと並み外れた努力だけでは実るとは限らない。時代に即した仕事に出会えたことが瀬川にとってよかった。