池田にインスタントラーメン発明記念館が出来たことを以前から知っていた。あまり興味もなく、また池田に行く用事もなかったので見ないままになっていた。
それが今月の6日、池田に急に出かける用事が出来た。大いなる晴天で、帽子にサングラスの格好で出かけた。駅前近くの広場では植木市をやっていた。つつじがとてもたくさん売られていて、しかもかなり立派なものがどれも数百円程度でとても安かった。五月山公園のある池田市なので、つつじやさつきが安いのだろう。ともかく、わが家の裏庭にはつつじがあるので買わなかった。目的地の途中にアルフォンゾという名前のパン屋があった。パンケーキを買って帰ろうとしたが、あいにく閉まっていた。ザッパ・ファンならアルフォンゾとパンケーキが密接なつながりのあることがわかる。今から思えば店の看板だけでも写真を撮って来ればよかったか、用事は簡単に済んだので、たぶんこの辺りだろうと予想をつけて、帰りは別のルートを歩いた。そのためアルフォンゾにも、また植木市にも立ち寄ることが出来なかった。この辺りと予想をつけると、方向音痴の筆者はたいてい見事に外れる。その日は見事に的中し、遠目にもインスタントラーメン発明記念館とわかる建物が見える辻に出て来た。ポケットをまさぐりながら、入館料をと思いながら、建物の近くに来ると、全くひっそりとして人影がない。日曜日なのでこんなものかと思いながら館内に入ると、これが驚きであった。大勢の人でごった返し、しかも入場無料で写真撮影もOKだ。今どきこんな施設があるだろうか。建物は細長い2階建てで、お土産コーナーや手作りコーナーもあり、子どもたちを連れて半日過ごせる。若者や家族連れが目立ち、また中国語を話す人が少なくなかった。観光ルートに入っているようで、帰りがけには玄関前に大勢の団体客が集合していた。バスで大挙するようだ。池田は落ち着いた街だ。美術館、酒造メーカー、それに五月山公園など、阪急の駅から北側に見るべき場所が揃い、南には何もなかった、それがこの記念館によって、人の流れが少しは変わった。北側の美術館にはほとんど行かない人々がここには訪れるようになっただけで、北は昔と同じかもしれない。筆者が最初にあった用事はもちろん北側であった。ここで少しだけ池田の思い出を書いておく。筆者が最初に池田を訪れたのは22か23であったと思う。ある女性に連れられて彼女の家に行った。その日は祭りで、真っ暗な五月山に大きな「大一」の文字が点されていた。これは京都の五山の送り火を模倣したもののようで、あまり感心しなかったが、歴史あるものだろう。池田は江戸時代の画家で蕪村の弟子の呉春に縁が深い。彼女の家はちょうどその呉春という銘柄の酒造メーカーを越して少し山手に行ったところにあった。両親や親類が集まっていた。挨拶をした後、彼女が近くの公園に行こうというのでそのままついて行き、そして誰もいない公園の中、ブランコに乗ってしばし遊んだ。ただそれだけのことだ。何のために彼女に連れられて池田に行ったのか記憶にない。最もよく覚えているのは呉春の酒造メーカーだ。筆者が実際にその酒を初めて飲んだのは50歳頃だったと思う。甘口の香り高い酒で、谷崎潤一郎が生涯この酒を飲んだというのはよくわかる。筆者もそんなようにしたいが、この酒はいつも手に入るとは限らない。それはいいとして、池田を訪れた回数はその後20回ほどといったところか。有名なところはひととおり見たと思うが、猪名川をまともに見たことがない。呉春の描いた絵から、江戸時代の猪名川をよく想像する。現在はそれとはあまりに違ってしまっているだろう。

2、3か月前か、韓国ドラマを見ていて、主人公の男女がインスタントラーメンをすすりながら、こんなことを言う場面があった。「今日はインスタントラーメンを発明した人の誕生日だって」「その人に感謝しなくてはね」。韓国ドラマではインスタントラーメンは貧しい生活を描写する際に欠かせない小道具として用いられる。日本でもそのイメージは同じようなものだろう。どの家庭でも即席ラーメンを常備すると思うが、家内に言わせると最近めっきり値段が高くなったそうだ。筆者はほとんどラーメンを食べないので、家にあっても見向きもしないが、たまに思い出したように食べると、それが何日も続く。また、筆者は外食する時に絶対と言ってよいほどラーメン店には入らない。即席ラーメンの10倍ほどもする価格でわざわざ食べるつもりがないことと、むしろ即席ラーメンの方がおいしいと思うからだ。先月だったか、梅田で本当に久しぶりにラーメンを食べた。800円か850円で、塩はヨーロッパの特種な岩塩を使っているとあった。これがどうしようもなく変な味で、2、3日腹を下して困った。お金を払ってまずいものを食べさせられ、おまけに体調も崩すとなると、ますますラーメン店に不信感を抱く。250円程度で今は丸亀のうどんを食べさせる店が京都にもあって、そっちの方は大好きだ、確かに作る手間や具材からラーメンが高くなるのはわかる。それでも1杯800円以上というのは異常に高い気がする。ラーメン店を経営して億万長者になる若い世代があって、TVでもよく取り上げられる。一種のカルテルではないが、ラーメンとはそうした価格だという認識が世間に定着していて、そんな豊かな生活も出来る。ラーメンは1杯当たりの利益率が高過ぎるのではないか。ラーメン1杯を食べるなら、回転すしを8、9皿食べる方がはるかにいように思う。それに筆者は昭和30年代の、まだ支那そばと呼んでいた頃の素朴な味のものが食べたい。そして、そういう味の即席ラーメンがあることを今回知った。

先の韓国ドラマの話に戻ると、韓国でも即席ラーメンは一般化している。日本のメーカーが進出しているのかと思うとそうではない。これが不思議であったが、今回その理由がわかった。この発明記念館は、チキンラーメンの日清食品が建てたものだ。創業者の安藤百福が池田で即席ラーメンを発明したことに因む。館が出来たのは1999年で、百福はその5、6年後に亡くなっているから、館をよく見ていたことになる。その意味でこの館はなお貴重であろう。百福が中国系であるというのは以前から知っていた。正確に言えば台湾人で、戦後いろいろあって日本の国籍を選んだ。この館に中国人が多く来るのも、百福のそういう出自を知ってのことだ。麺文化は中国がリードして来たし、麺を油で揚げるという発想は日本人には無理であったろう。中国の食文化をよく知っていた百福ならではで、また戦後の食料難、それにアメリカからの小麦粉を輸入した日本がそれでパンしか作ることを知らなかったという、文化の違いによる隙間を狙ったことに大きな成功の秘訣があった。また、それよりも重要で感動的なことは、スケールが桁違いに大きな百福という人物で、実業家として、また発明家として巨人であった。百福は百歳近くまで生きたが、その顔からはとてもエネルギッシュなオーラを感じる。百福の書いた数々の色紙が展示されていた。その達者な字を見ると、なおさら百福のバランスの取れた、そして温和で知識をよく蓄えた人柄が伝わる。癖がない字なので、お手本のようで味がないと言う向きもあるだろうが、包容力を感じさせるところは、昨今の若者で吹けば飛ぶようなマンガ文字の比ではない。百福についての書物はかなりある。筆者は1冊も読んでいないが、ネットで簡単に調べても、その波瀾万丈で不屈の人生は思わずうなってしまうものがある。だいたい過酷な人生をやむにやまれず経たような人ほど大輪の花のような仕事を成す。百福は紛れもなくそういうひとりだ。もちろんそういう過酷さに大半の人は潰されるか自滅するが、生き残る者はより抵抗力をつけると言えばよいか、何があってもへこたれず、ついに時代を画する何かを生む。これは昨夜見たTVに、屋久島の縄文杉がなぜ樹齢数千年も寿命を保つかの特集をやっていた。屋久島は火山灰の積もった土地で、かなり痩せているという。そのため、植物にとって環境はむしろ最悪だ。だが、であるからこそ逆に植物はゆっくり育ち、抵抗力を身につけると言う。先日読んだ富士正晴の本に、小さな頃に天才的な才能を発揮した人物が成人になって自滅する話を綴ったものがあった。人間も同じだ。子どもの頃に天才と呼ばれるような者ほど伸び悩み、ごく普通の人間になってしまう。そのため、むしろ子どもの頃はぼんやりと過ごさせる方がいいと思うが、今は全くその逆だ。親はわが子をわずか3、4歳で勉強やお稽古と急かせる。そうして子どもはみな普通のつまらない大人になる。何度も書くように、本嫌いに、あるいは芸術に無縁の人生を歩ませたいのであれば、小さな頃に徹底してお稽古事に精を出させることだ。そして芸術家にしたいのであればぼんやりと過ごさせるに限る。

即席ラーメンの代名詞のチキンラーメンが売り出された頃のことはよく覚えている。近所の兄さんたちが買って来て盛んに話をしていた。当時はこれを生でポリポリ食べもした。麺に味がついていたからで、今はそういう即席麺は例外になった。筆者はチキンラーメンの味はあまり好まなかった。その後出たエースコックのワンタン麺の方が好きで、これは今でもそうだ。日清のラーメンで好きなのは出前一丁の味噌味だ。これは長年食べている。2、3年前だろうか、尼崎でどこのメーカーだったか、カレーうどんを見つけて買った。これがおいしくてその後尼崎に出るたびに買ったが、大阪市内でも売られているのを見つけた。京都ではまだ売られていないようで、販路の縄張りみたいなものがるのかもしれない。日清が大飛躍したのはカップ・ヌードルだ。これは欧米に売ろうというので、ヌードルという言葉が用いられたらしい。筆者はあまりこのカップ入りを食べない。カップヌードルが最初に出た70年代初頭、この発泡スチロールの容器がどうにも馴染みにくかった。熱湯を使うことで何か有害物質が溶け出ないか不安に思ったのだ。その思いはそれから30年ほどしてか、一時問題になって、結局無害であることが報告された。カップ入りは確かに便利だ。ヨーロッパにも同様に即席ヌードルがあり、容器はプラスティックを使ったりしている。イギリスで何種類か買って来たことがあるが、その味は発想がとても奇抜で、おいしいかどうかは別の次元で考える必要がある。また、これはいつだったか、またどのメーカーか、「歩き麺です」という名前のカップ麺が売り出され、駅の売店でも盛んに並んでいたことがあった。中華料理の八宝丼の麺版を思えばいいが、冷たいままの具を硬い乾燥麺にそのままぶっかけて食べるもので、商品としては大失敗であったようで、すぐに消えた。さて、日清は即席ラーメンの技術を最初特許取得した。それは追随メーカーが粗悪な商品を出し、業界全体が信用を落とすことを懸念したことにもよる。同じようなメーカーが一挙に百数十も出来たというから、それほどチキンラーメンの衝撃は大きかった。だが百福は間もなく特許を放棄し、誰でも作れるようにした。日清はアメリカや東南アジアには同じ商品を時にパッケージデザインを変えて販売しているが、韓国には進出していない。それは特許をなくしたことで韓国のメーカーが独自の商品と販路を確立したため、輸出が難しくなったことも理由だろう。つまり特許の放棄で儲ける場が縮小したとも言える。だが、韓国ドラマが即席ラーメンを発明した人について語るほどに、韓国では百福の存在をよく知っている。ただし、それを日本人とあえて言わないのは、百福が元は台湾人であったことをほのめかせてもいるようで、筆者にはそれがとても興味深い。

館に入って右手が展示室で、その1階中央に百福がチキンラーメンを開発した家が復元されている。鶏や道具類など、みなとてもリアルだ。写真を元にしたのだろうが、百福がまだ存命中に出来たので、百福の記憶と指示にしたがったはずだ。この小さな家が池田のどこにあったのかは知らない。記念館が建つ場所なのか、違うのか。いずれにしても百福が池田で即席ラーメンを発明したことには変わりがない。その小屋の周囲は、即席ラーメンの発展の歴史を順に見る曲面の壁、そして百福の勲章を飾るコーナーや、またカップラーメンの開発にまつわる苦労話のアニメを上映する小ホール、さらにはトンネル状の通路のぐるり内部に今まで日清が販売した即席ラーメンのパッケージを飾るなど、どこに目を配っても何か展示されているという盛りだくさんな状態だ。宇宙食として即席ラーメンが使われたこともあるという説明パネルもあった。これからも永遠に即席麺はなくならないだろう。1階の奥は、300円払って無地のカップを入手し、そこに自分で文字や絵を描き、後は係員が麺をセッティングしてくれるというサービスや、また1杯250円程度で他府県で販売されているラーメンを食べられるコーナーもある。時間があれば筆者もマニマンのイラストを描いた特性ラーメンを作りたかったが、予定人員満員で、とても待ち時間がなかった。2階は、予約制で即席ラーメンを手作りさせてくれるコーナーだ。ここもエプロン姿の人でいっぱいであった。衛生面での管理も行き届いているようで、親子で体験するのにちょうどいい。1階入ってすぐ左手は女性5、6名が詰める売店だ。さまざまなグッズや、また全国からセレクトした日清の即席ラーメンセットが買える。筆者は6種で500円のセットを買った。入館料でラーメン6個を買ったと思えば、とても安い。帰ってすぐにこのうちの一袋を選んで食べた。横浜ラーメンで、昔の支那そば風の味がした。これは関西では普通には売っていないのだろう。百福は毎日必ずラーメンを食べたという。それが長寿の秘訣だったとか。百福自身が精力絶倫の健康体であったに違いない。なお、ラーメンの名前は百福が定着させたもので、それ以前は日本では支那そばと呼んでいた。日本は昔からCHINAを支那と発音して来たが、中国は支那は使ってくれるなと言っている。それをどこかの知事は頑固にあえて今でもそう呼んでいる。支那そばと言わずに、中華そばと言うべきだろう。