●『東方彩夢 森田りえ子展』
田りえ子という名前にはぴんと来なかったが、今回、香港の夜景をホテルの広い窓から眺めた光景の6曲1双の屏風を見た時、何年か前にそれを見たことを思い出した。



d0053294_23272651.jpgそれはソファに座ってこちらを真正面から見つめる、チャイナドレスの若い女性を描く。昔で言えば美人画の部類に入るかもしれないが、香港のネオン溢れる夜景を顔料や金泥で描くところに斬新さがある。だが、その女性はいわゆる猫派と呼べばいいか、男とは別種の生き物であるという意味で女性を形容する時によく使われる言葉そのままで、その挑戦的かつ媚びた様子は、男なら誰でもまじまじと見つ返すか、目を逸らしてしまうものだ。男の画家ならまず描かないし、描けないと言ってよいものだが、今日展の大御所で、確か自分の婦人ばかりをモデルにして描く男の洋画家がいて、その婦人のどれも同じ顔と表情の絵は近い印象がある。森田りえ子の描く女性は、美人ではあるが、絵に描いたような、極言すれば広告イラストか少女漫画に近い顔だ。そして、石本正が描くヌードの舞妓の顔を思い出させたりもするが、それを言えば今回のチラシやチケットに印刷される正面向きの立ち舞妓は、画家の名前を伏せれば石本正かと思ってしまう。筆者の好みを言えば、きれいな女性は見ていて楽しいが、石本正が描くヌードは石本個人の好みを無理やり見せつけられているような気して、それを見るくらいなら自分で好みの女を好みのように描いた方がいいという気になる。そういう筆者であるから、今回の森田りえ子が描く若い女性たちもみな、筆者の好みではない。それは猫のような女があまり好きでないことと、そのように思える女を描く絵は、猫的なところが凝固しているわけで、本物の女以上に正視することが苦痛になる。それはきれいなモデル写真を見ているような気分に近いかもしれないが、モデル写真とは違って作者の理想化した自己投影が強く感じられ、何だか滑稽な気もする一方で、猫型の女性画家ならばきっとそんな絵を得意気に描くのだろうなと納得もする。
 同じように女性を描いた日本画家にたとえば小倉遊亀がいる。遊亀は美形ではなかった分、そうした自己の理想化を絵画の中でする必要がなかった。そのため、作品はより開かれた広がりの中にたたずむ。安心して見ることが出来ると言えばよいか。それに引き替え、森田の女性は女の色気を濃厚に発散している分、それはそれで立派な表現と言う人もあるだろうが、先に書いたように、自己陶酔が感じられるのが鼻につく。その自己陶酔が崇高な場合は、高度な芸術として昇華もするのだろうが、それは信心深かった中世あたりまでの話で、そういう純粋さを常に保てるほどに現代はおおらかではない。森田は年齢が50代半ばで、現在の顔写真がチラシ裏面に載っている。遊亀に比べればかなりの美貌で、本人もそれを意識しているはずだ。その美貌が作品に影響して、どれも色鮮やかできれい、しかも清潔でそつがない。だが、これはどれも化粧を厚く施した華麗さと紙一重だ。その一種のどぎつさや過剰な香りは、ちょうど街中で女性に擦れ違った瞬間、その強烈な香水の匂いにとてもいやな思いにさせられることと似ている。そうした女性はそれで満足して出かけ、他人にいい香りを振り撒いているつもりなのだろうが、それがはた迷惑であるということがわからない。森田の描く女性や花には、そうした満艦飾に着飾った装飾の過剰さを思う。日本画は装飾性が命という面があり、森田はそれをよくよくわかって描いているが、それが過剰になれば目をそむけたくなる。たとえばこうして書いていて筆者は日本の国旗や日の丸弁当を思い出している。日本の美はそれに代表されるように、もっと簡素で、それでいて強靭なものだ。簡素でありながら装飾的であるというこの相反するところに挑戦するのが現代の日本画家の目指すところと思う。森田の絵画から筆者は塗り絵を思い出す。それはいい意味で言えば形がしっかりして完成度が高いことであり、また悪い意味で言えば、彩色に必然性がなく、ただ華麗であればよし、つまり出来る限り着飾ればそれは美しいとする思いがあふれている。それは女性の画家であり、しかも自分の美貌に酔う部分が大きいからではないかと思う。だが、しょせん作品は作者を映し出すから、それは仕方のないことで、またいいことだという意見もあるだろう。だが、そうだろうか。森田が今後自分の美貌を気にすることがなくなれば、その作品はもっと別の迫力が増すかもしれない。
 森田は最初創画に出品していた。その時に石本正の教えを受けたのかもしれない。20数年前か、森田は創画で受賞しながら、やがてそこを出てどこにも所属しないで描くようになった。森田の絵を見ていると創画には似合わない気がする。創画は前衛的な絵が多いと言えば聞こえがいいが、技術的に見るべきものは皆無と言ってよい。森田は抜群の技術を持っていて、創画に所属していては、いずれいじめられて脱会するしかなかったであろう。そのあまりの端正な技術によって創画では居心地が悪かったのではないか。石本正は女性ヌードで有名になったが、花鳥画はさっぱり駄目だ。森田はよく花鳥画も描き、人物画と同様に華麗なところをよく表現し、石本正より技術的には数倍うまいところがある。だが、うまいから絵に味わいがあるかどうかは別の問題で、花鳥画は筆者にはさっぱり面白くなかった。きれいに描いてはいるが、ただそれだけのことで、確実に日本の花鳥画が駄目になっていることがよくわかる。形骸化という言葉がぴったりするかもしれない。確かに写生をこなし、確実な彩色と破綻のない構図を示すが、花の形も構図も何の個性もない。その個性のなさが個性なのかとも思うが、一方で女性を描く作品を見ると、そこには猫のような目の、自己充足しているモデル、つまりマネキンがたたずんでいる。それから言えば、森田の描く花も実はマネキン、つまり造花に見えるのだ。椿を描いた大作は、速水御舟の散り椿の名作を思い起こさせたが、速水の作品に比肩するどころか、悲しいまでの退化がある。それは画家個人の格の差でもあるが、時代の差なのだろう。ふやけてしまった現在日本では、速水のような作品を求めることが土台無理な話なのだ。今回はパリ展の帰国記念というが、その一方では金閣寺の杉戸絵を描いたことに焦点が当てられていた。それは8枚の戸に4つの花を描いている。牡丹、花菖蒲、菊、椿で、これらは屏風にも採り上げられて、森田のお気に入りの花なのだろう。先にも書いたが、この杉戸絵もあまりにも陳腐な表現で、きれいにそつなく描きましたというだけの作品だ。無理にひねりを加える必要もないし、またそうしたひねりを本来持つほどに森田はひねくれていないと見ることも出来るが、悪く言えば才能の欠如だ。絵とはこんなものではない。緻密で華麗に描く才能がありながら、あまりに平凡な絵ということは、森田が芸術家ではなく、職人に近いということかもしれない。だが、女性を描く作品はみなそれなりに筆者には工夫が感じられた。原宿の若い女性を題材にするため、どっさりとアクセサリー類を買い込んで描いたという、「KAWAII」シリーズがあった。ほとんど絵本の登場人物を等身大に描いた作品で、どの女性にも森田の顔の理想化が感じられたが、つまりは森田は50代になってかわいいということに興味のある猫的な女性ということだ。国際語になった「KAWAII」であるから、そこに着目して日本の若い女の子たちの風俗画を描くということはなかなか挑戦的な態度で好ましい。見ていて別段楽しく心踊るという絵でもないが、意欲は買いたい。森田は花鳥画の画家ではない。人物画に才能を発揮する画家だ。ただし、その目玉を実際の人物の倍ほどに誇張したマネキン的な女性の顔は筆者の好みでは全くない。女性が女性を女性らしく描くというところに、男性が立ち入れないレスビアン的な閉ざされた世界を思ってしまうが、そういう一種倒錯してところがもっと強烈に発揮されれば面白い絵が出来るかもしれない。それで思い出すのが、最初に書いた香港の夜景の屏風だ。それは現在のところ森田の最高傑作ではないだろうか。
 会場の入口脇に大量の花が届いていた。その中に祇園の茶屋が目立った。舞妓を描いたり、また島原の角屋を題材に描くなどして、花柳界にはよく知られると見える。そこはきらびやかな夜の世界であるし、また芸の世界もあるが、森田の絵は確かにそうした世界からは歓迎されやすいものを持っている。悪く言えば虚飾の絵だ。在野で描きながら、金閣寺の杉戸絵を依頼されるほど、森田の交友関係は広いことがわかるが、そこは筆者にはさっぱりわからない。家にこもって描いてばかりいても、ほとんど近所の人も知らず、有名どころか、生活するに必要な収入さえ得られないというのが当然だが、森田はどうもそうではない。どのように有名になり収入を得ているのかと思う。抜群の才能があれば自然と有名になるというほど、世の中は甘いものではない。むしろ話は全く逆で、有名になれば、かなり下手な才能でもそれなりに認められる。有名という色眼鏡で人は見るからだ。いつも書くように、才能など99パーセントの人にはわからない。有名になればそこで素晴らしい才能と初めて認められるのであって、無名の優れた才能など、ほとんどないに等しい。先日TVを見ていてスーザン・ボイルが30年ほど前から地元では同じように歌っていて、それなりに知られた存在であることを知った。それが例のコンテスト番組に出演して、ネットの力もあって、一気に世界的有名になり、金も儲けてセレブの仲間入りだ。つまり、あの番組に出なければ、イギリスの田舎で相変わらずちょっとばかし歌のうまいおばさんで埋もれていた。と考えると、世界には同じような才能がごまんといる理屈になるし、実際そうだろう。それと同じことを森田にもつい思ってしまう。とにかくいい絵が描きたいという純粋な気持ちを忘れてはならないのはあたりまえとしても、それ以上に自分をどう売り出し、つまりどう価値をつけて人から注目されるかを常に考え、人脈と金脈を作らない限りは、パリ展も金閣寺の杉戸絵もない。そして、そのような売り込みの巧みさが絵に影響して、どうしても絵がうすっぺらになってしまう悲しさが現代には落とし穴として常に待ち受けている。だが、きれいな女性がきれいな絵を描き、金閣寺を飾ることのどこが悪いのか。悪いどころかそれな望み得る限りの理想的な条件揃いで、であるからこそ百貨店でこうした展覧会が開催され、会場出口では版画がいくつも売れ、みんな喜んで丸く収まる、つまり何の問題もない。であるから筆者のこうした意見は戯言として一蹴される。これまた当然で何の問題もない。
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by uuuzen | 2010-06-06 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


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