静岡県立美術館で開催されている『若冲アナザーワールド』展、早いもので、もう3日で会期が終わる。次は千葉に巡回するが、京都からは静岡が近い。それで会期初日4月10日に行って来た。

『若冲ワンダーランド』展とセットになったようなタイトルでもあるので、同じような内容かと思えばこれが違った。図録はともに厚さ3センチほどあるが、重複しない作品がかなりあって、どちらの展覧会も見るべきものであった。だが、『ワンダーランド』の目玉になった「象鯨屏風」は『アナザーワールド』にも出品されたから、充実度は『アナザーワールド』の方が高い。それに、初めて公開される若冲の作品も『アナザーワールド』の方が圧倒的に多い。ところが、帰宅して図録を見ると、初公開らしき墨画は1981年の尼崎での若冲展に出品されたものがかなり目立つ。これはあまり業者に頼らずに珍しい作品を探したためだろう。業者は多くの未公開の墨画を、所有ないし販売したことがあるので、その気になれば本当の初公開作がもっと多く並んだが、その点では『ワンダーランド』を開催したMIHO MUSEUMは京都に近いこともあって、珍しい若冲画の発掘はまだたやすかったと思える。さて、図録は全作品の図版が収録されているのに対し、会場では主に前期と後期と分けて作品を入れ替えるため、一回のみ訪れただけでは全部を見ることは出来ない。見たい作品があれば予めそれがいつ出品されるかを確認してからの方がよい。だが、静岡県立美術館のホームページでは当然作品名のみの公開で、同じような題名の多い若冲画にあっては、どれがどれを指すのかほとんどわからないことがある。図録の画像を全部ネット上に公開すると、図録は売れなくなるから、ネット社会になっても何でも情報が即座にわかることはない。とはいえ、図録を購入した人がそれらの図版を全部ネットに載せる場合も考えられる。今のうちに法を整えておくべきだが、図録に載せられた作品はネットに公開したも同然で、誰もそんなに神経質にはならない。先週書いた『韓国の民画と絵本原画展』で販売されていた嘉会民画博物館が製作販売している図録は、確か一切の情報と画像を勝手に引用して発表するべからずと巻末に断りがあった。それを見たので同図録を買うのをためらったほどだ。引用を明記しても引用するにはまず許可を得るべしとなると、日本の機関ならいざ知らず、韓国では意志の疎通がかなり手間取る。だが、著作権の問題は日本が後れているのかもしれない。30年前の日本の展覧会図録はまだ白黒印刷が多かった。ここ10数年は厚さ3センチでオールカラーは常識になり、その一方でネットでそれらをコピーして載せる人は、筆者も含めて急増している。それがどこまで許可されるのかどうか、改めて考えてしまう。

当日はとても天気がよかった。まだ桜が咲いていた頃だ。日帰りをしたが、家ではあれこれと用事が待ち受けていて慌ただしかった。前にこの美術館を訪れた時は、登呂遺跡やそのすぐ近くの芹沢美術館も訪れ、おまけに県庁辺りを散策もした。今回は美術館の近く、東南数キロにある日本平に行ってみようと考えた。ネットで調べるとバスが数時間に1本、また日本平の南方に回ってそこからロープウェイで登る方法もあるが、何分初めて訪れる場所であり、バスを間違ったりするととんでもないことになる。なぜ日本平に行きたいかと言えば、小学生の頃に切手収集を初めて、1950年頃に発売されたものに「観光シリーズ」があり、その20枚ほどの切手の中で日本平の2枚があったことによる。1枚は茶摘みの女性の写真を印刷し、もう1枚は遠くに富士山が見えている。この2枚のうち、特に後者は「観光シリーズ」の中では段トツに高価だ、筆者は「観光シリーズ」は1枚も所有しないが、この年齢になっても、たまにそれら全部を買おうかと衝動的に思うことがある。ネット・オークションでもよく出品されているので、2、3万円出せば買えるが、その分でほかのものを買おうと思って相変わらず入手しない。前にも書いたように、筆者は1950年頃の切手が最も美しいデザインと思っている。「観光シリーズ」はその代表的なものなのだ。そして、そのシリーズが採用する観光地に全部行ってみたいとも思っている。そこに含まれる日本平には、わざわざ行くことは今後もまずないので、今回の静岡行きでついでに足を延ばそうとしたのだが、結果を言えば電車の中から数キロ先に大きな台地を眺めて、あれが日本平だなと納得し、その上に登って富士山を見つめている自分の姿と富士山を想像するだけで終わった。また、美術館の最寄りのJR駅草薙に降り立った時、前方からハイキング姿の中年初老の男女がやって来て鉢合わせになった。一目で日本平から下って来たことがわかった。地元の人々にすれば格好のハイキング・コースになっているのだろう。ふとそっちに足を延ばすのも面白いかと思いがよぎった。それほどの青空で、富士山が見事な日本晴れ状態で見えることを想像した。50年近く前に気になった1枚の切手に印刷される遠方の富士山に、今回は間近まで接近したというのに、人生はなかなか不如意だ。このようにして気がかりがいくつも堆積することが老齢であろう。それはさておき、美術館までの一本道はなだらなな上り坂で、左手に見覚えのある畑があった。前回そこには猫がうずくまっていて、展覧会を見た後通りかかった時にもまだそのままの格好でいた。その猫を目で探したが、いなかった。また、数年の間に洒落た店がいくつか出来て、それは今後もっと加速化するだろう。

美術館に至るまでに、若冲展の大きな看板がいくつかあった。それらは全部豊中西福寺の例の金地の襖絵だ。静岡で展示されるのは今回が初めてであるのだろう。会場に入ると、チケットを買うロビーにいきなり枡目絵の6曲1双の屏風があって、しかもみんなケータイで写真を撮っていた。筆者は壁際のソファに座って写真を1枚撮った。同館が所蔵する本物だと思っていると、そうではなく、キャノンが高精度で印刷した複製で、間近で見ても本物のように微細な部分がぼやけていない。それに感心したが、会場内部でその実物を見ると、その華やかな色合いにまた驚き、そして複製がどうにも実物らしくないといういやな思いが増した。その理由は、赤色が実物では明るく独特の色をしているのに対し、印刷の方は暗く単調だ。若冲が使ったのと同じ顔料で印刷しないと再現は無理、あるいはそうしてもなお完璧な再現は不可能だ。それは、絵具と印刷用インクの見え方の違い、また膠を使って画面に固着させていることと、インクジェットのノズルでインクを吹きつけることの差であって、本物と同じように印刷すること自体土台無理な話なのだ。同じように見えているだけのことで、つまり騙しの技術が発達しただけだ。であるから、人はその精巧な騙しに最初は驚嘆するが、次には何ともいやな気分にさせられる。絵画には元来騙しの部分は多くあるが、本物らしく描くことと、本物らしく印刷することとは全く別次元の問題で、印刷がいくら精巧になっても、本物と同じことには絶対になり得ない。だがこれからは、手で描いた原画を破棄し、それを印刷したものを作品とする作家も出て来るはずだ。それは100年もう少し前の写真の誕生、あるいはもっと昔の版画にすでに芽生えていた。文化財保護の観点からそうした精密なインクジェット印刷の美術品が続々と複製されるのは、ある意味では仕方がない。だが、冷ややかな目で見ると、業者を潤わせるだけで、本物の迫力や味わいのわからない人を増加させ、1点もので、しかも脆く、そのためにも人間的で価値のある美術品ということが忘れ去れる。精巧な印刷を見て驚くのはそれが本物らしいからであって、本物を見て感動することとは違う。その意味で、美術館に足を運ぶ価値は今後もなくならないどころか、むしろ高まる。贋物だらけの世の中にあって、せめて美術館だけには1点限りの本物が並んでほしい。ネットで画像を見ればおしまい、あるいはそれをプリンタで印刷すれば理解したことになると考えるのでは、あまりに心が貧しい。

本論に入らねばならないが、どこまで詳しく書けばいいのか迷っていて、そのために以上のような長い枕を書き連ねた。最初に書いたように、今回は30年前に展示されたきり、長らく公にされなかった作品が多く、その一方で再発見された貴重な作もある。また屏風などの大作がかなり揃って、2000年の若冲展以降、最も充実した内容と言ってよい。ないものは『動植綵絵』くらいなものだ。つまり、2000年展以降10年の若冲研究の現段階を示すもので、その10年の成果があったということだ。そして思うのは、もう10年経った頃にはさらに研究や発見が続き、もっと詳しいことが明らかになっているであろうことだが、肝心の若冲ブームが続くかどうかだ。その試金石が今回の展覧会だ。不況の中で美術館の台所事情は苦しいはずで、企画展にお金をかけることもなかなかままならない。そうした中で少しでも話題作りをして美術館に足を運んでもらおうとする時、ヒーロー的な画家を作り出す必要がある。その代表がここ10年では若冲であった。そして、美術ファンが一通り若冲の作品に馴染んだ後は、何がどう宣伝されて美術愛好家の関心を引き止めるだろう。そんなことを思う一方で、ネットでは動画が盛んになり、派手な映像に生まれた時から馴れてしまう新しい世代の登場があり、美術の概念もがらりと変わる状況にあるとも思える。それは美術館が巨大化し、多くの人に来てもらわねば運営がなり立たないことにとっては、ある意味では人々をより引きつけるいい機会にもなっている。今朝のTVでやっていたが、近頃の若者は長い行列に加わることが苦にならず、むしろ楽しいらしい。そして長い行列であるほど、また人は並びたがる。そこにネット社会の特質を見る人がある。それは正しいだろう。そして、そんな時代性に若冲ブームはうまく合致した。これは言い換えれば、9割りの人はみなが並ぶから並ぶのであって、それが若冲でなくてもかまわない。そして、美術館はそういう人を当てにしなければ収益が出ない。そして収益の出ているものがよいものとされ、そうでないものは国家の補助の対象にもならない。美術館のレジャーランド化はこの『アナザーランド』の初日にも見られた光景で、それはそれで天気のよい日和でもあって、悪くはない。美術品はさまざまな人にさまざまな楽しみ方を提供すべきであろうし、時には映画に行くか美術館に行くかの選択の対象にもなる。だが、娯楽と一線を引く何がが美術にあることを忘れては、美術館も末期であるはずで、筆者はそういう見地から若冲を見つめたい気がする。