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●アルバム『GREASY LOVE SONGS』解説、その2
慣は個人、慣習はもっと多くの人を対象にした言葉と習ったが(今、「習」の文字を使ったな。これは習慣か慣習か)、人に習うということの一時的かつ大量が流行と言い換えていいだろう。



●アルバム『GREASY LOVE SONGS』解説、その2_d0053294_075482.jpgパソコンが普及して音楽の聴き方が変わり、今はCDがあまり売れないらしい。それを知ってか、ザッパ・ファミリーはザッパ曲のダウンロードを本格的に始めたようだ。昨日書いたザッパ・コムからの「母の日」に因むメールが気になって、サイトを訪問すると、内容がわかった。今年は以前に発売したザッパのアルバムを4点ダウンロードで販売するとの告知だ。『Everything Is Healing Nicely』,『FZ:OZ』, 『Buffalo』,『Imaginary Diseases』で、料金は当然CDより安い。買手にとっては送料が不要で、またすぐに聴くことが出来るので便利だ。今も昔も時は金なりで、新譜CDを注文して1か月待ってようやく手元に届くでは、今の若者は待っていられないだろう。これからはザッパ・コムは新譜もCDではなしにダウンロードのみで販売することになるかもしれない。その例は去年だったか、『MOTHERMANIA』をダウンロードのみで発売開始したことから予想出来る。筆者はパソコンがボロでもあって、ダウンロードで音楽を買うことを試したことはないし、また今後もそうだと思うが、ネットのファイル交換ソフトを使って今ではザッパの新譜ですら買わずに、他人のパソコン内からコピーする者がCDを買う数倍はいるのではないかと思う。そのような時代であるからいよいよCDは売れない。また、誰もがそんなコピーをやると、罪悪感がなくなり、むしろ毎日せっせとコピーに勤しむことを立派な趣味のように勘違いもする。ダウンロードで音楽を売買することは、それと同じく元にあるファイルからのコピーであり、ファイル交換ソフトを使って音楽を取り込む行為になおさら罪悪感が欠如する。それに、たとえばネット上の情報は基本的には無料で、誰しもすぐにそれに慣れるあまり、ファイル交換ソフトを使うことについても良心は痛まない。ザッパは音楽のダウンロード時代を予想したが、その際に発生するファイル交換ソフトの横行についてはどう思ったことだろう。自分がした仕事が無料で勝手に流通するとなると、生活出来ず、これでは「死ぬことを拒否する」などとも言っていられない。ザッパが死を拒否すると言ったことの裏には、どうして金を儲けて充分な作曲活動を続けるかという思いがあった。いや、裏ではなく、正真正銘の表側がそうだ。プロとアマの差は、お金を得るかどうかの差と思われているが、プロとは専門家であって、片手間にやる甘いアマとは違う。そして、人はそんな専門家にお金を払って仕事をしてもらうが、それはお金を払うだけの価値があるかどうかに関係している。そのため、アマでもたまに自分の仕事でお金を得ることがあり、逆にプロが時代後れになって稼げないこともあるなど、プロとアマの境はネット時代になってよりいっそう曖昧になったと言ってよい。話が横道にそれた。ダウンロード時代になっても、基本は音源であり、それをしっかりと初期から確保していたザッパはやはり先見の明があった。それさえあれば、CDにしようがLPにしようが、ダウンロードで売ろうが自在だ。だが、コピーされることまではなかなか予想出来なかったであろう。
 さて、『GREASY LOVE SONGS』はCD1枚で、これは筆者の予想どおりであった。『CRUISING WITH RUBEN & THE JETS』には含められなかった曲がLP1枚分もあったならば、同アルバムは2枚組として出たであろうし、そうならなかったところにザッパはさほど同種の曲を多く抱えていなかったことが予想出来た。1968年と言えば、ビートルズの「ヘイ・ジュード」や『ホワイト・アルバム』の頃で、その当時に筆者が『CRUISING WITH……』を聴いたとしてもえらく時代錯誤の音だと思ったはずだ。だが、ザッパはあえてそうした時代錯誤的な古いタイプの曲を集めたアルバムを作ろうとした。そこに68年という時代性が刻印されることを知っていたし、またあえてそうした時代のずれをアルバムに盛ることで、アルバムに永遠の命を吹き込むことが出来るのではないかと考えた。それはどういうことかと言えば、レコードとはそもそも時代性を伝えるものだが、モノ自体としては半永久的に存在し、何年経って聴いても音は変わらない。だが、聴く方は年を取るし、また若い世代も新たに聴く。つまり、そこにレコード内容とのずれが生ずる。そうした役割をレコードは本質的に持っているが、それは絵画や彫刻でも同じだ。音楽を空気の彫刻と捉えたヴァレーズのように、ザッパもそう考えた。そういう時代のずれを必然的に内蔵するレコードの特性をザッパは『CRUISING WITH……』で集約的に示した。デビュー以来から同アルバムに含まれるようなドゥーワップ曲を収録ないし、それに感化された曲を含めていたことから、その行為は必然であったと言えるが、自分の作曲のルーツ賛歌として、またイギリスのロック勢にはないものであるからという理由もあったに違いない。それは無理してそうしたもんどえはなく、ロサンゼルスという土地柄もあった。そこはメキシコに近く、ニューヨークとはまた違った文化を持っている。ザッパはそれに素直に反応しただけとも言える。ずれに戻ると、ザッパは元来ずれを愛した。そのずれが極端化したものがフリークだ。『CRUISING WITH……』におけるずれ感覚は、表向き50年代の黒人が演奏するドゥーワップだが、いかにもザッパが好きな凝った録音、それに50年代にはあり得ないギター・ソロなど、またはストラヴィンスキーの引用を少々やってもみるといった味つけがなされている。それらは68年という時代の刻印行為だ。もし70年に作られていたなら、また違った色合いになったはずで、ザッパは結局そうしたずれを面白がったのだ。したがって、『CRUISING WITH……』が80年代になって、ベースとドラムスを新たな録音に変えて発売するということも行なったが、その行為は全く正しい。ファンにはえらく反撃されたが、それは的外れと言うべきものだ。もともとずれを楽しむものであるから、そのずれがさらに複雑化することはもっとグロテスクになっていいではないか。筆者の希望は、ドゥイージルがマスターテープにさらに音を加えて21世紀ヴァージョンを作ることだ。そうすれば、このアルバムは50年代を生きた人から今の20代まで、あらゆる人がそれなりにやがて懐かしく思うようになる。69年そのままの音では、喜ぶのは古い人間だけではないか。それではザッパの名前を時代に応じて更新して行くことにならない。オリジナル・アルバムは必要だが、時代に応じてどんどんそれを作り変える方法はザッパの、しかも『CRUISING WITH……』には顕著にあった。それはビートルズがやらなかったことだ。68年の時点において、ザッパはさすが将来を見越していた。それを『CRUISING WITH……』がよく示している。明日は休んで明後日に続きを書く。

●2003年3月31日(月)深夜 その2
●アルバム『GREASY LOVE SONGS』解説、その2_d0053294_082841.jpg吉田松陰が30そこそこで首を切られる時に詠んだ有名な短歌がある。先日の旅行では萩の松陰神社境内にある松下村塾を訪れ、その短歌を刻んだ石碑を見て来た。その辞世の歌は、確か前半は「親思う心にまさる親心」だったと思うが、後半は記憶が曖昧になっている。書き留めておけばよかった。すぐにインターネットで調べられると思うが、ここで中座して1階に下りてパソコンのスイッチを入れるは面倒だ。不明な点はそのままにして書き続ける。日記のライヴ感とドライヴ感も大切であるからだ。で、辞世の句の内容は言葉を補足すれば、子が親を思う以上に親は子を思っており、自分が先に死んで行く今日のことを親はどんなに悲しく思っていることだろうといったものだ。それをわかっていた松陰はやはり偉い。どんな子どもでもそれはわかっているかもしれないが、本当にそれがわかるのは自分が子を持ってからだろう。親が子に「お前のことを思って言っているのだぞ」と言えば反抗されがちであって、そうしたPTA的な押しつけがましい言葉はよくないかもしれないが、それでも物事によりけりだ。病院へちょっと行くだけで親がまず安心するのであれば、素直に親の意見にしたがうのが子の役目でもあるし、実際足の指が腐って一向に治らなければ、自分で病院に行くなりしてさっさとそれを完治させるのが大人でもあろう。自分の体を自分で大事にせねば、誰がそれをしてくれるだろうか。よく文面の最後に「御自愛を」と書かれてある手紙をもらうが、「自分を愛する」というのが何だか利己的な気がして、「自愛」の二文字を見るのはあまり好きではない。それで他人にはまず使用したことがないが、最近はその意味が何となくわかる。それは自分の健康を大切にして、本来やらねばならないことに万全に備えよということであり、そのことがやがて世間の糧にもなるという考えだ。決して利己的ではなく、むしろその反対だ。息子はそば屋のアルバイトをしているが、たとえ足の指1本だとしても、それが化膿していると、食べ物を出す店ではそれはよくないに決まっている。どんな形で菌が食べ物に入るやわからない。熱湯を使用する食べ物なので、確かにまずそんなことは生じないだろうが、それでも食べ物屋に勤めているということは、そこまで気を利かせて自分の体を清潔にしておくべきだ。それこそがプロ根性というものだ。学生アルバイトではあっても、働いて金を得るということを安易に考えてはならない。菌で思い出したが、香港や東南アジアで妙な病原菌が繁殖して、人々を恐怖に陥れているニュースが数日前からにわかに大きく伝わり始めている。エイズの時もそうだったが、わけのわからないルートで今まではない病気が発生する。誰かの陰謀説もやがて囁かれるかもしれないが、そんなこともあろうかと思わせるほどに、今はイラクでの激しい戦争だ。自爆テロも起きている。アラーの神を信ずる者は死を恐れていないということなのだろうが、キリスト教の方ではどうなのだろう。ツイン・タワー・ビルに飛行機で突っ込んだテロリストたちは、自分たちの方が信仰的には純粋かつ強固であると信じて疑わなかったであろう。そして実際それはある面では正しいかもしれない。イスラム原理主義の過激派とブッシュらの共和党のキリスト教の根本主義、原理主義はいわば同じようなもので、宗教信仰ゆえのただの蒙昧ならまだしも、それが武力と結託することでとんでもない戦争を引き起こす恐ろしさをよく伝えている。晩年のザッパが繰り返し揶揄したのは実にそのことにほかならない。宗教が純粋であり得た時代はまだよかったが、それが圧倒的な経済社会に発展する中で微妙に本来の大切なものが失われていったように思う。そのこともザッパは痛感していた。永遠に世界には悲しい人やさびしい人はなくならないから、そういう人のためにも宗教は今後も決してなくなることはないし、それは芸術でも同じことだ。芸術愛好家というのも、信仰家と同様、聖なる何かを求めてやまない人だと思うが、過激になるほどに排他的になりかねない人間の本性をよく覚えておかないと、はた迷惑に鈍感になる。それはいいとして、イスラムの信仰心篤い人々をアメリカが過小評価していなければよいが、2週間程度で終結すると安易に見ていたことはどうやらそれを訂正を迫られそうだ。また日本は長く不況が続くにもかかわらず、戦後復興に3兆円を支払えと言われている。これはひとり3万円強で、わが家の3人家族では10万の臨時支出となる。億ションに住んでいる人にとってははした金に過ぎないが、庶民のさらなるしょっぱい民としては、まるでネコヤナギで鼻をくすぐられたようにハックショーンとくしゃみが出てしまう。10万を捻出するために、そろそろ何かをネット・オークションで売り始めようか。それにはタイプライターの連打をいったい何日続ければいいだろう。この日記だけでも毎日深夜を越えているのに、とても8時には起きられない。
by uuuzen | 2010-05-12 00:09 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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