瀬戸大橋の下を船で旅したことはあるが、瀬戸大橋を電車でわたったことはなかった。瀬戸大橋線を走るマリンライナーがあって、今回その存在を初めて知った。
3月下旬に1泊旅行をした時に往復乗った。これは快速で、普通乗車券で乗ることが出来る。そのため、岡山からこんぴら行きはかなり便利だ。さて、この1泊旅行については断片的に書いているが、今回を含めてもう7、8回は書く予定でいる。いつもの重いデジカメを持参し、そこそこ写真を撮って来たので、写真の紹介がてらに文章を書く。よく切れる電池は、丸1日かけて充電した。ところがそのように充電してもさっぱり効き目がない場合がある。カメラの中に入れっぱなしにしている間に放電してしまうのだ。それを思って、今回は撮影時以外は取り外して胸ポケットに入れておいた。体温でそこそこの温度が保たれるからだ。それに心臓の真上であるから、それも何らかの作用を及ぼすかなとかも考えたが、案外心臓には悪い影響も考えられる。ともかく、そのようにポケットに入れっぱなしにしたおかげで、電池はずっと切れないままであった。その撮り溜めた写真を順に加工し、書きやすいことから順に書いている。1泊旅行程度でたくさん書くことがあるものだなと思うが、見慣れない場所に行くとはっと経験は多い。そのため、たまの旅行はいいことだろう。だが、筆者は世界中どの場所も、自分が立っているところが中心で、場所の価値には差がないと思っている。前にも書いたと思うが、たとえば部屋の片隅に座るとする。そこはいわば世界の端っこで、そうした端っこは部屋でなくても屏風かそのようなものを立て、それに背中をくっつけることでも生まれる。つまり、野外でもいいわけだ。そのどこでも生み出し得る野外の端っこ的空間に身を置くことと、部屋の片隅に陣取ることは同じ感覚だ。その論で行けば、世界中どこでも端っこになり得るし、端っこは無限に存在し、世界のどの場所でも価値は同じことになる。そして、自分がそうした何の変哲もない場所から世界全体をみわたすことは旅行をしても変らず、旅はあまり意味がないことにもなりそうだ。だが、そのことを言いたいのではない。自分がいつもいる場所を大事に思えと言いたいのだ。もっと言うと、場所など無意味で、そこにいる人間に価値があるということだ。これは自尊心につながる意見でもある。自分がどこそこに行ってどうはっとしたか、どう考えたか。それをどう書くか。そのことが大事なのだ。
マリンライナーに乗ったのはこんぴらさんへ行くためであった。天気がよく、窓際に座れたこともあって眺めが堪能出来た。電車が明らかに岡山駅から南下する様子がわかったが、高架を走るために眼下に街並みを見る。その様子がジェットコースター並みの見晴らしでなかなかよいが、即座に思い出したのは六甲ライナーだ。どちらも海に向って走るので、似ているのは当然かもしれない。それに六甲アイランドのような埋め立て地を、岡山駅から南部の光景から連想したが、それは海沿いの倉庫がよく立ち並ぶような街並みという共通点からだが、実際に岡山駅南部がどれだけ埋め立てによって出来たのかは知らない。筆者は走り始めた電車の中で、記念切手に「児島湾締切堤防」というのがあったことを思い出していた。それは切手収集を始めた小学校5年生の頃、つまり最初の頃に手に入れたもので、今確認すると、1959年の発売になっている。筆者が8歳の時だ。そこにトラクターのシルエットが描かれている記憶は鮮明にあるが、背景は地図で、児島湾とその締め切りの堰が描かれている。帰宅して調べると、児島湾は瀬戸大橋線より東に数キロで、瀬戸大橋線とはいちおう無関係だ。だが、同じような地域であるため、瀬戸大橋線沿いの街並みは児島湾付近と大差ないだろう。その辺り一帯が児島と呼ぶことからもそう想像出来るが、瀬戸大橋線が瀬戸大橋をわたろうとする直前の駅名は児島だ。そして岡山から児島まで10ほどの駅がある。見慣れない名前の駅は最も旅行気分を味わわせるが、それにしても日本のどこにも家があって人が住んでいることを実感し、その岡山駅南方の新たに開発されたような、どこか殺風景な場所もまた、世界の中心であることを思ってしまう。そして、そう思った瞬間、筆者はそのどこにでも今すぐからでも住むことが出来るように感じてしまう。とはいえ、その地域のどの一画のどの家のどの部屋に住んだところで、愛着を覚えるというのではないから、結局どこでも同じなのだろうなと思って、今住んでいるところで納得してしまう。話を戻して、記念切手にもなるような大規模な開発が50年代後半から次々と始まって、それが瀬戸大橋の大きな工事にもつながったが、湾を埋め立てするのとは違って、鉄筋コンクリートで巨大は橋を造るというのは、もっと大変なことで、その設計計算にために費やした人々、そして工事に携わった人々の労苦を思うと、執念を感じる。そうした日本の土木建築の技術が、経済の停滞から今では日本ではあまり発揮することが出来ないでいることを思うと、瀬戸大橋が急に時代の産物で、もう歴史的に古いものに思えて来る。今思い出したが、上海万博でも大勢の設計者や人夫が工事に携わったが、そういう機会をばねにして今後中国は巨大なプロジェクトを次々と計画するだろう。建築や土木の技術は日進月歩とはいえ、経済力があれば外国から技術者を招いてまたたく間にそれをものにしてしまう。NHKの番組で1970年の大阪万博の工事に従事した鳶職の親方をドキュメントしたものがあった。その親方にとっても初めての巨大な塔のエキスポ・タワーを造るのであったが、それは建って30年ほどで撤去された。親方にすれば自分が職人を指揮して造ったもので、半永久的に保存されると思ったかもしれないが、いとも簡単に撤去されて、その親方がその仕事に携わったことはその番組でしか後世に残らない。大工事といってもそのようなもので、その鳶の親方はまだそのような番組を作ってもらえただけでも幸運であった。
児島に近づくにつれて家がまばらになり、もうすぐ橋があることを実感させる。そして児島駅を出ると、電車はいよいよ海をわたる。次の駅が坂出で、15分ほどかかる。これが乗っているとけっこう長く感じる。そして、改めて瀬戸大橋の巨大さに感心する。筆者の学生時代の友人に基礎工事専門の日本を代表する大きな建設会社に入社したMがいる。Mは長らく下津井の現場に住み、時たま筆者に頼りを寄越した。下津井は児島駅から南西に2キロほどの岬にある海沿いの古い町だ。Mは瀬戸大橋の岡山側の橋脚の工事現場に携わったのだ。そして、休暇を利用してMはよく倉敷美術館やあるいは丸亀の猪熊弦一郎現代美術館などに足を延ばしたが、当時筆者はそうした場所に行ったことがなく、いつか行ってみようと心に決めたものであった。そして後に行った時は瀬戸大橋をわたることがなかったので、下津井の位置にもさっぱり関心がなかった。その下津井を今回は眼下に見た。Mは瀬戸大橋の現場が一段落した後、京都に転勤になった。そして筆者の家にたまにバイクで来ることがあった。京都の現場は九条の地下鉄で、その次に高松に転勤になったが、猪熊弦一郎現代美術館にはその時に行ったのだろう。やがて不況が来て、大規模の土木工事は激減し、Mは会社を去った。それから音信がない。大手の会社に入って大船に乗った気になっていても、時代の変化は人生の変化より早い。そのため、安定志向を抱いていると、時としてその的が外れて人生が狂う。今年は就職率が5割りを切っているが、それでも若者はどうにかそれを乗り切らねばならない。不況であるからこそ鍛えられると物事を考えるのもいい。いや、そうあるべきだ。景気のいい時にいい会社に入っても、20年、30年するうちにどうなるかわからない。いい会社に入ることがいい人生を約束されたも同然と思わないことだ。それは会社に寄りかかっているだけのことで、そこを出ればただの人に過ぎないことが多い。さて、以上のように、筆者の児島にまつわる思い出は小学生の頃からつながっているが、その辺鄙で殺風景な児島を、単なる通過ではあってもようやく見ることが出来た。児島坂出間の瀬戸大橋は当然直線と思うが、実際は蛇行していて、それは電車の窓からもよく見える。途中にいくつか島があり、そこに橋脚を建てているのだ。これらの島がなければ橋は出来なかった。それだけ瀬戸内海は小島が多いのだが、そのことが児島という地名にもなっているのだろう。電車から写真を撮っているのは筆者だけで、ほかの人たちはみな乗り慣れている顔をしていた。遠くの島を撮ってもあまり面白味のある写真にはならないことがわかっていながら、10枚ほど撮った。そのどれをトリミングして載せようかとずっと迷いながら、どれも似ているので、最後のあまり海の見えない1枚を除いて、全部を順に掲げることにした。進行(南下)方向に向って右手に陣取った。最後の2枚だけは立ち上がって進行方向左側の扉に立って撮った。多少は雰囲気が伝わるかと思う。帰りも撮ろうと思ったが、同じような写真になるのでやめた。車で走るともっと雄大な景色だろうが、その機会があるのかどうか。息子に頼んで遠出をするのもいいが、親父相手では小言を聞かされてきっと首を縦に振らないだろう。